そこまで妄想して委員会 四
身を呈して自分を助けてくれた隆二に対して、真奈美の過去の恋が再燃を始めてしまった。一方、金庫を開けるためのパスワード解析するラオウたち。果たして金庫は開くのだろうか?
秋の優しい朝陽が新聞部の部室に差し込んでいる。マナと永山が重い空気の中で机を挟んで黙り込んでいる。俺はうんざりした溜息を吐いて外の景色を見つめた。
「それにしても、どこから情報が漏れたのかしら」
久しぶりに声を発したマナが忌々しそうに立上がって、
「コーヒー飲むでしょ?」
と、返事も聞かずに流し台へ向かう。
「どうした?コーヒー嫌いなのか?」
無言のまま冴えない表情で沈黙している永山に俺が声を掛ける。
「いえ、別に」
「まさか、部長は誰にも話していないでしょうね!会合の情報を」
コーヒーを立てながら、マナが冗談混じりに永山をからかう。
「それはないだろう。俺たちにもギリギリまで教えなかったくらいだ。部長は十分に気をつけていた」
俺は体調の悪そうな永山の味方をした。と、ガチャンとドアの開く音がして、穏やかな表情の真奈美と傷だらけの隆二が入ってきた。
「真奈美さん!」
思わず叫んだマナが近寄る。
「隆二!は、ないのかよ」
軽く笑った彼はマナと入れ替わりに流し台に向かう。
「よく無事で戻れたな」
俺が労わるように言って、真奈美に椅子を勧めた。
「皆さん、ご心配をお掛けしました」
「学生じゃないことがばれたの?」
二人の無事を確認して、俺にも冗談を言う余裕が出てきた。
「警察に捕まりそうになった時、隆二が助けてくれたの」
と、言った真奈美の言葉に、
「隆二?」
隆二を呼び捨てにした真奈美を、マナが目を丸くして見つめた。
「誰かさんみたいに遠くから叫んでいるだけじゃなくて、警官と戦ってくれた」
真奈美は悪戯な表情を浮かべて俺を皮肉る。
「君も捕まる気満々だったろう」
隆二がコーヒーをふたつ運んできて、ひとつを真奈美の前に置いた。
「ありがとう」
「何よ、自分たちだけ」
マナが隆二を睨みつけている。
「俺のコーヒーは不味いって、お前はいつも言ってるだろう」
「不味い物を真奈美さんに飲ませないでよ」
マナが更に噛みつく。
「不味くても、温かいから……」
コーヒーを見つめたままの真奈美がぽそりと零した。
「え?」
マナと俺は、恥じらいまでも零してしまった真奈美を見つめてから、隆二の腫れた顏を凝視した。
「何だよ。俺は真奈美さんを助け出しただけだ。他には何もしてないよ!」
だが言葉がカミカミだ。
「バカ!バレバレじゃない!」
マナは、怒りの塊を置いたままで流し台へ行ってしまった。
(真奈美、マジで?)
重い雰囲気のまま沈黙が続く。マナのコーヒーを立てる音だけが事務的に響き、真奈美ひとりが幸福そうな笑顔を浮かべ、美味しそうにコーヒーをすすっている。
そんな沈鬱な空間に、コンコンとドアをノックする音が響いた。皆の注目を浴びる中、マスクをした絵美がこっそりと中を覗いてから入ってくる。
「おう、絵美か。風邪はもう良いのか?」
隆二が窮地を逃れるように軽い口調で声を掛ける。
「ええ大丈夫。それよりも昨夜は大変だったみたいね、私だけ呑気に休んでいて申し訳ないわ」
絵美が心持頭を下げた。
「むしろ、いなくて良かった。絵美もかなりトロイからな。もしあの場にいたらきっと捕まってた」
沈鬱な空気を変えるように隆二がわざと大きな声で笑った。永山は会話に加わらずにノートパソコンを操作している。
「絵美はこう見えてもすばしっこいのよ、オバサンと違って」
コーヒーを運んできたマナが挑発的に言ったが、真奈美は他人事のように聞いている。
「昨夜集まったメンバーのうち十人ほどが捕まったみたいだ」
永山が、各グループからのメールを確認して言った。
「ラオウさんたちのことや、秘密の金庫のことが政府にばれるのも時間の問題ね。宴会場にいたメンバーのほとんどが金庫の話を聞いたからね。十人も捕まればきっと誰か口を割るわ」
マナが、隆二と真奈美以外のメンバーの前にコーヒーを置いて回った。
「て言うことは、早く金庫のパスワードを解かないと、政府の手の者が金庫を探しにやってくるってことか」
隆二が、無責任に皆を焦らせている。
「そう言えば、金庫のパスワードを解くヒントとなる文章が、メイシャさんから送られてきたって、どこかのグループが言ってたけど、まだその文章は届いてないのか?」
俺は、ふと思い出した事柄を永山に確認した。
「ちょうど今、メールが届いたところです」
永山はメールを目で追いながら答えている。皆が思わず永山の後ろに回ってメールを覗きこんだが、真奈美ひとりは座ったままでぼんやりと虚空を見つめている。
「大丈夫ですか?真奈美さん」
絵美が心配そうに声を掛けた。
「恋する乙女だよ」
そう言って、俺が絵美に笑い掛けた。
「乙女って歳でもないでしょう」
マナの冷たい声が俺の肝を冷やした。
(コワ)
「何だ?これは」
隆二がメールを覗いて怪訝な声を上げた。
「尾道の海よ魔の泣けない裸体」
永山が声を出して読み上げた。と、今まで幸福そうな柔かい表情を浮かべていた真奈美の表情から、見る見る血の気が引いて、唇までもが青白くなっていった。永山は更に続ける。
「異なる社会の者の名が謎を取り除く」
「パスワードは英文字で十文字」
永山が、最後まで読み上げてから全員の顔を見渡した。
「真奈美さん、どうかした?」
マナがいち早く彼女の異変に気づいた。
「砕いておくれ、尾道の海よ。魔の笑えない裸体、粉々に」
突然、真奈美がそう口づさみながら立上り、虚空を見つめたままふらふらと部屋を出て行ってしまった。
皆は驚いた表情で真奈美の後姿を見送っていたが、俺とマナが視線を合わせてから、二人で彼女の後を追った。隆二も追掛けようとしたが永山が彼を制止した。何か、触れてはいけない雰囲気を感じ取ったのだ。
俺とマナが真奈美に追い付いた時、彼女はサッカーグラウンドの端にあるベンチに座っていた。
グラウンドでは学生たちが若い肉体を弾ませてボールを追い駆けている。真奈美はそんな光景を見るともなく見つめながら、何かを呟いていた。俺とマナが真奈美を間に挟んでベンチに腰掛けた。
「どうしたの?私の言葉に怒った?ごめんね」
マナが、意味不明な言葉を呟き続ける真奈美の横顔に、彼女の機嫌を取るような口調で話し掛けた。だが真奈美は無反応なまま呟き続ける。
「砕いておくれ、尾道の海よ、魔の笑えない裸体、粉々に。流しておくれ、尾道の海よ、魔の泣けない裸体、松山に。沈めておくれ、尾道の海よ、真奈美の裸体、地獄の底に」
真奈美の言葉を聞き取った俺たちは、不気味な緊張感に包まれた。真奈美は同じフレーズを何度も繰り返している。
「それは何だ?誰かの詩か?」
俺は真奈美の正面に回って、彼女の正気を確認するために彼女の瞳をじっと見つめてみた。
「そう。詩よ」
真奈美は、そう短く答えてから再び詩を口ずさみ始めた。意識はしっかりとしているようだ。
「砕いておくれ、尾道の海よ……」
「あれ?」
マナが驚き顔で俺を見つめた。
「今のフレーズ、さっきのメールに書いてあったような気がする」
マナが先ほどの記憶を辿りながら、
「尾道の海よ、魔の泣けない裸体。確かメールにはそう書いてあったわ」
と、若干興奮気味に言って真奈美の肩を軽く揺すった。すると、はっと目覚めたように目を見開いた真奈美は、
「そうよ。ある詩の一部よ。でも、どうしてメイシャさんがこの詩を知っているの?」
と、天に向かって叫びそうな不安気な声を放った。
「真奈美ちゃんが作った詩なの?」
真奈美は首を横に振った。
「じゃあ、誰が作ったの?あまり上手な詩じゃないから、きっと素人でしょうけど」
マナが、子供をあやすような口調で尋ねている。
「へえ、君に詩の良し悪しがわかるのか」
俺が意外な驚きをもってマナを見つめた。
「今はそんなことどうでも良いでしょう」
チラリと横目で睨む視線は恐い。
「お嬢さまよ!」
真奈美の叫びに俺は固まった。そして記憶の奥から、尾道の高校にいた高慢なお嬢様の姿を引き出してきた。
「誰?お嬢さまって?」
マナがキョトンとしている。
「君の高校時代にはお嬢様はいなかったのか?青山若菜だよ」
「ああ、若菜ね。優しくて面倒見が良くて、おしとやかで、良い人だった」
「エエッ!あのお嬢が?」
俺は目を丸くしている。真奈美の目もまん丸だ。
「そう言えば彼女、野球部の松山さんと付き合っていたわ」
「エエエッ!」
俺と真奈美は顔を見合わせて、思わず大声を出して驚いたが、しばらくすると、ふと真奈美が涙ぐんで、
「松山さんは生きているの?」
と、力なくマナに尋ねた。
「当たり前でしょう」
「そう、良かった……」
マナが、不思議そうに真奈美の目尻に溜まった涙を見つめている。「真奈美ちゃんの過去では、松山君は真奈美ちゃんと付き合っていて、事故で死んだんだ」
俺の言葉にマナの表情が急に引き締まる。俺は更に、マナに真奈美の過去情報を提供した。
「青山若菜は、それはもう高慢ちきで嫌なお嬢様でね、真奈美ちゃんはいつも虐められていた」
「あら、私、虐められていたの?」
相変わらず自覚が無い。
「え?」
俺は呆気にとられながらも話を続ける。
「青山家に代々仕える祈祷師がいて、そう、摂津峡公園で出会った婆さんだ。若菜があの婆さんに呪いを掛けさせて、松山君を殺したという噂が広まった」
「そんなこと出来るの?」
「さあ、松山君が亡くなったのは彼の運命であって、呪いなんて関係ないと思うけどね。でも、他にも色々事情があって、若菜は逃げるようにして転校してしまった」
「私の過去とは大違いね」
マナは俺から真奈美の過去を聞いて、同じ人物の異なる人生に戸惑いを覚えているようだ。
「マナちゃんも、高校時代にはずっとミニスカートを穿いていたの?」
俺は、マナの戸惑いを解そうとして砕けた質問をしてみた。
「ええ、超ミニよ」
マナも気分を変えて軽く微笑んでくれた。
「それが何か関係あるの?」
真奈美の眼から涙は消えているが、俺の質問を素で受け取っているようだ。
「いえ、別に」
俺は面倒な説明はやめた。
「ラオウさんはそこまでしか知らないけど、高校三年生の時に若菜さんから呼び出された事があるの。転校してから一年後くらいに」
「何のために?」
「復讐よ」
真奈美の言葉に再び空気が張り詰めていった。
「再会した時の若菜さんは、すっかり別人のように変わっていて、心を病んでいた。狭い町だから、松山さんを呪い殺したという噂が転校先でも広まってしまって、若菜さんは、いつからか魔女と呼ばれるようになっていた。追い詰められた彼女は、感情を表せなくなっていた」
真奈美が静かな口調で過去を語った。
「でも自業自得だろう。君が復讐されるのはおかしいよ」
「そんなこと、心を病んだ人に言っても無駄でしょ」
マナがそう言ってから、真奈美に話の続きを促した。
「若菜さんは本当に無表情だった。まるで人形。尾道の坂の上にある神社で会ったんだけど、私を恨んでいると一方的に言って帰ってしまったの」
「それのどこが復讐なのよ」
マナは気が抜けたように口走った。
「私も訳がわからないまま階段を下りて行ったの。と、後ろからこっそり近寄って来た若菜さんに、突然突き落とされた。帰った振りをしてどこかに潜んでいたようなの」
「そこまでする!」
「私は気を失って救急車で運ばれた。幸い大きな怪我は無かったけど、ふくらはぎに深い傷跡が残ってしまったの」
そう言って真奈美は、カーキ色のチノパンを少し捲り上げて二人に傷跡を見せた。
「これが、私がスカートを穿かなくなった理由よ」
真奈美は、俺を見つめて悲しく微笑んだ。
「それから一週間ほどして、若菜さんは自殺したの。冬の海に裸で飛び込んでね。更に数日後、祈祷師のお婆さんが現れて、私に手紙を手渡した」
「まさか、遺書とか?」
俺が咄嗟に口走った。
「まあ、そんな感じ。手紙にはさっきの詩が書いてあっただけ。砕いておくれ、尾道の海よ、魔の笑えない裸体、粉々に。流しておくれ、尾道の海よ、魔の泣けない裸体、松山に。沈めておくれ、尾道の海よ 真奈美の裸体、地獄の底に」
「恨みがましい遺書だな」
思わず印象を口に出した俺は、遺書の内容を解析してみた。
「魔の笑えない裸体か。魔女と呼ばれた自分が笑えないことを言っている訳だ。魔の泣けない裸体も同じ。自殺する前に詩を書いたとすると、裸で海に飛び込むことを決めていたことになる。そして愛媛の松山と松山君を掛けている」
「最後が激烈ね。真奈美の裸体を地獄に沈めろ、だって」
マナが気味悪そうに零した。
「手紙は誰にも見せていないし、詩のことも誰にも言っていない。なのに、どうしてメイシャさんが知っているのか不思議だわ」
真奈美は、気味悪く感じたのか軽く身震いした。
「祈祷師の婆さんが教えたんじゃないか?きっと手紙の内容を読んでいたんだ。それをメイシャに教えた」
「メイシャさんて何者なの?」
「案外、あのお婆さんがメイシャさんだったりして」
マナの冗談に、俺も一瞬気を取られたが、
「まさか。あんな婆さんがメイシャなんて気取った名前を使わないよ。せいぜい歯医者ぐらいだろう」
と、オヤジギャグを披露した。
「くだらねえ!」
マナが吐き捨てる。だが俺の脳裏に、ある可能性が閃いて、一瞬間で表情が硬直してしまった。
「ラオウさん、どうかしたの?」
不思議そうな真奈美の声に、
「いや、別に」
と、俺は慌てて誤魔化した。まだ考えがまとまらないからだ。
「それにしても、異なる社会の名が謎を取り除くってどういうことかしら?」
マナが、メイシャがメールで送ってきた、パスワードを解くヒントの言葉を持出して、パスワードクイズに取り組み始めた。
「まだ、わからないのか?」
俺がドヤ顔で微笑んだ。
「あなたはわかったの?」
マナは挑戦的な態度だ。
「この詩の中に出てきた名前は真奈美と松山しかない。MANAMIは六文字。裸体までいれると十三文字。松山に、はMATUYAMANIでちょうど十文字」
メイシャのヒントには、パスワードは十文字とあった。
「そんなに単純かしら?」
真奈美は懐疑的だ。
「複雑にする必要はないんだよ」
「どうして?」
「一般人がこの詩を見ても絶対に解けないから」
「詩の全部を知らないと解けないってこと?」
真奈美が俺の瞳を見つめている。
「メイシャさんのメールに書いてあったのは詩の一部だけで、松山も真奈美も入っていないわ。詩の全部を知らないと解けないなんてルール違反よ」
マナが不満を漏らした。
「ルールがあるのかな?俺たちがこの社会に現れること自体がキーなんだよ。メールに書かれた詩の一部は、真奈美ちゃんに全文を思い出させるための呼水に過ぎないんだ」
俺はマナを見つめて優しく答えた。
「じゃあ、メールに書かれた部分だけではパスワードはわからないってこと?」
マナはまだ納得していない様子だ。
「わからないだろうな。尾道の海よ、魔の泣けない裸体。この文章には誰の名前も埋め込まれていない」
「まあ、試してみれば良いじゃない。パスワードは何度でも試せるでしょう?」
真奈美が二人を取り持った。彼女の心の動揺は、もう消え去っているようで俺はひと安心した。
真奈美と一緒に部室に戻った後、新聞部顧問である琴美先生の仕事部屋に全員で向かった。そして慣れた手順で応接セットを除けて地下へ下る。前回、地下室を発見してから後も、琴美先生は部屋に来ていないようだ。隆二が先頭をきって金庫の前に立った。
「何て入力すれば良いの?」
隆二が俺に確認する。
「松山に」
「英文字で言ってよ」
「MATUYAMANI」
隆二は、俺の言ったとおりにボタンを押した。ガチャ!と地下室に響く金属音。
「開いた!」
隆二が、興奮して扉を開けようとするが開かない。
「反対じゃない?」
マナは冷静だ。隆二は、扉の左側を開けようとしたが右側に隙間が出来ている。今度は、隆二が右側を引くと扉が開いた。全員が息を飲んで凝視している。
中には、ケースに入ったCDが一枚置いてあった。隆二がそれをそっと取り出した。
「琴美先生のパソコンで確認しましょう」
気の早いマナは階段を上り始めている。俺たちが琴美先生の部屋に上がった時には、マナはもうパソコンを立ち上げていた。
「早くCDを入れて」
マナに指示された隆二が、心持震える指先でCDをセットした。
マナの背中越しに、俺と真奈美もパソコン画面を見つめた。やがて動画の再生が始まり、日本の菅野首相とC国の首相との会談の様子が映し出された。しかし、会談にしては静かな感じで通訳すら見当たらない。
「相変わらずボケた顔してるわね、菅野は」
「早く辞めろっての」
映像の二人は何かを話している。両首相は簡単な英語で会話しているようだ。そしてC国の首相が何か箱包みを取り出してテーブルの上に置いた。二人は向かい合って座っている。菅野首相が蓋を開けると中にはドルの札束が詰まっていた。
「日本円だと億単位だな」
永山が呟いた。
「これで何を頼まれたのかしら」
マナが吐き捨てるように言った。そして菅野が蓋を閉じて箱を受取った瞬間、
「やばい、琴美先生だ!」
と、隆二が叫んだ。さっと窓の外を見ると、俯き加減にこちらに向かっている女性の姿が見える。
慌てて動画を停止するマナ。俺がCDを取り出してケースに戻しながら、
「皆、部屋を出ろ。俺がCDを戻してくる」
と言って、皆を先に部屋から出した。CDを金庫に戻し、地下室への入口を元に戻した俺は、琴美先生が廊下に現れる前に、何とか部屋の鍵を閉めることが出来た。
俺は心の動揺を抑えながらゆっくりと廊下を歩いた。と、向かいから、白いワンピースに身を包んだ、すらりとしたスタイルの琴美が近寄って来る。俺は少々硬い表情を浮かべて彼女とすれ違った。
「本校の関係者の方かしら?」
すれ違う手前、彼女が立止まって俺に質問した。確かに、大学のこんな物置同様の建物にオヤジが歩いているのは不自然だ。
「新聞部の関係者です」
俺も立止まって答えた。琴美先生の身長は、ヒールの高さを加えると、ちょうど俺と変わらないくらいだ。
「OBの方?」
彼女は猜疑の視線で俺をじっと見つめている。
「まあ、そんなところです。決して怪しい者じゃありません」
「そうかしら」
「何なら、今夜お食事でもいかがですか?怪しい人間かどうかすぐにわかると思いますよ」
俺は、冗談混じりにそう言って立ち去ろうとした。
「良いわよ。お付き合いします」
琴美は、愛らしく微笑んでからコツコツと去って行った。
「なかなかの美人だな」
部室に戻った俺は、永山に琴美先生の印象を語った。
「背も高いし、足も長くて綺麗だ」
隆二はそう言って、小柄な真奈美とマナをちらりと横目で見た。
「何よ」
二人は鋭い視線で隆二を睨み付ける。
「今夜、琴美先生と食事をすることになったから、信用できる人間かどうか探ってみる」
俺はそう言って椅子に腰を下ろした。
「え?琴美先生とデートですか?亀田先輩のこともありますし、危険ですよ」
永山が不安な表情を浮かべている。
「どっちが危険だか」
真奈美は笑っている。
「やるなあ、オヤジ」
隆二は羨ましそうだ。
「年上好みの男にとっては生唾ものね」
マナが冷たい視線で隆二を睨みつけている。
「調査のためだ。背の高い女は好みじゃない」
俺は無関心を装いながら周囲を見渡した。そして、
「絵美ちゃんは?」
と、琴美先生の部屋から戻って来た時より人数が減っていることに気づいて、俺が疑問を口にした。
「病院へ行くと言って帰りました」
永山が冴えない表情で答えた。
「そうか、まだ体調が悪そうだものな。それで、これからどうするんだ?あのCDを使って政府を転覆させられるのか?」
俺の言葉に、学生たちの表情がどんどん曇ってゆく。
「まさか、これから考えるとか?」
真奈美も、不安そうにマナの瞳を見つめている。
「いえ、打ち手はひとつだけあります。新聞部のOBに、奈川さんと言う方がいて、彼は新聞社に勤めています」
永山が答えた。
「まさか、新聞社なんかに情報を渡すなんて言わないだろうな。闇に葬られてしまうのは明白だ」
俺が呆れ顔で意見した。
「わかっていますよ。奈川さんは米国のDNNニュースに人脈があるんです」
永山が静かな口調で説明した。
「本当!DNNニュースなら世界中に動画を流すことが出来るわね、そうしたら日本の政府も手が出せないわ!」
真奈美の声が、明るい希望に弾んできた。
「でもそれには、内容がかなりインパクトのある物でなければ取り合ってくれません」
「あれじゃ不十分なの?」
真奈美が少しすねた口調で言った。
「あの映像で、両首相が何を言っていたのかをもう一度確認しましょう。声も小さかったので、誰も聞いていないでしょう?会話の内容によっては、取り合ってくれるかも知れません」
永山が慎重な口調で提案した。
「琴美先生とのデートは何時から?」
隆二が何か案を思い付いたようだ。
「十九時に先斗町の寿司屋で待ち合わせしている」
「いいなあ、お寿司」
真奈美が甘え声を零した。
「じゃあ、お店で琴美先生と合流したら俺に連絡くださいよ。二人がデートしている間に、俺たちがCDの中身を確認するから」
「なるほど、デート中は絶対に部屋に戻らない訳だ」
永山が隆二の案を支持した。
「了解。隆二の携帯に電話を入れるよ」
俺と隆二は言葉の暗号を決めた。
「いいなあ、お寿司」
真奈美が口を尖らせた。
川床が並ぶ夏の鴨川と違って、秋は比較的静かな風が流れている。もうどっぷりと日は暮れて、秋の風に肩をすぼめて歩く人もいる。
そんな京都のいち風景を窓越しに見ながら、俺は琴美と二人きりの食事を楽しんでいる。はずだった。
「どうして君たちがここにいるんだ?」
俺と琴美が向かい合って座っている四人席に、ついさっき真奈美とマナが割り込んで来たのだ。
「だって、ラオウさんだけじゃ美人に騙されるじゃない」
マナが愛想よく笑っている。
「俺は騙されたことなんてないよ」
「フフフ。お気楽な人ね」
真奈美までが俺を信じていない。
「まあ、良いじゃないですか。大勢で食べる方が楽しいし、新聞部のことも、もう少し知りたいと思っていたの」
琴美がそう言って微笑んだ。
「すみませ~ん」
マナが店員を呼んで、真奈美と二人であれこれと注文をした。
「他に何か頼みますか?」
真奈美が俺と琴美に尋ねた。
「もう十分だ。てか、そんなに食えるのか?」
「任せてよ」
マナは食べる気満々だ。
「それで、お二人は何年の卒業生?」
琴美が、俺と真奈美に語り掛けてきた。
「もう、十年以上前ですから」
と、俺が言った時、
「ちょうど十年よ」
と、真奈美が訂正して自分たちの話を始めようとした瞬間、
「その前に!」
とマナが遮ってから、
「先生は、亀田先輩とはどういう関係だったんですか?」
いきなり直球を投げつけた。琴美は、質問の意味がわからないという風にポカリとした表情を浮かべている。
「お二人が特別な関係だったと言う噂を聞いたことがあります」
更にマナが言葉を続けた。
「ただの顧問と部長の関係よ。それ以上でも以下でもないけど」
琴美は怪訝な瞳でマナを見つめている。
「あの時は、初めてのデートだったんですか?亀田先輩が捕まった夜」
「デートだなんて。ちょっと相談事があって一緒に食事しただけよ」
「少なくとも、亀田君はあなたのことを好きだったようだ」
俺も口を挟んで琴美の反応を伺った。
「そう。まあ、勝手に好きになられることは、良くあることだから……」
と、素顔で言ってのけた琴美は、生ビールにそっと口を付けた。
「す、すごい自信」
マナの目が点になっている。
「亀田君はなぜ捕まったのですか?」
マナが怯んだので、代わりに俺が突っ込んでみる。
「亀田君に頼まれた手紙を、私がある活動グループに渡しました。それが、なぜか警察に渡ってしまったの」
「先生が警察に渡したの?」
大胆な言葉を、真奈美があっけらかんとした表情で尋ねた。その自然な口調に思わず噴出した琴美は、
「まさか」
と、小さく言ってから、大胆な言葉を言った割には、寿司のネタをめくってワサビを確認することに集中している真奈美の様子をじっと見つめた。
「ワサビ、だめなのか?」
俺が真奈美に気を遣って尋ねてみた。
「いいえ、好きよ」
「意味がわからん……」
俺が吐息を吐いた時、
「相手のグループに政府のスパイがいたのよ」
さりげなく言った琴美は、酢の物を箸で摘まんだ。
「そのグループを紹介したのも琴美先生だと聞いていますけど」
ビールをグイとあおったマナが鋭い視線を放った。
「私が疑われるのは仕方ないけど、今の政府に味方して、私に何の得があると思う?私立大学の講師よ。公立大学の関係者じゃない」
そう言って、マナと真奈美を交互に見つめた。
「国立大学の教授にしてやるとか、言われてたりして」
マナが尚も疑いの言葉を投げ掛けた。
「国立大学ねえ」
琴美は口元に笑いを浮かべてから、
「興味ないわ。だって、あの頃から米国のI大学に客員教授として迎えられることが決まっていたのよ。いろいろ準備もあって、この秋から米国に行くの」
と、歯切れの良い言葉でマナの疑惑を断ち切った。
「もうすぐじゃないですか?」
「かっこいい!」
疑いが晴れたのか、マナは急に好意的な態度に変わった。
「そんなことがかっこ良いの?」
琴美の疑問に、
「かっこいいわよ」
と、マナが繰返してからトロを口に放り込んだ。
「いきなりトロか……」
マナの前に並んだ数種の寿司を眺めながら俺は呟いた。
「美味しい物から頂くのが私のポリシーよ」
「俺は後からゆっくり頂く方だな」
「私もラオウさんと同じ」
真奈美が嬉しそうに笑って俺にウインクした。
「ちょっと失礼」
真奈美の合図に気づいた俺が席を立った。勿論、隆二に連絡をするためだ。
「今のうちよ、ラオウさんのも食べちゃおう!」
マナが、俺のトロを取って、一貫を真奈美の皿に、もう一貫を自分の口に入れた。
「美味しい」
「あなたは出世するわ」
琴美が大きく笑って、
「今度はあなた方のことを教えてくれるわね?」
と、真奈美を深い視線でじっと捉えた。