そこまで妄想して委員会 三
隠し金庫を発見してから数日が経った。だが、何らパスワードのヒントを得ることは出来ない。焦燥ばかりが募るそんなある日の夕方、俺たち一同は京都の木屋町を四条から三条に向かって歩いていた。
秋の夕暮れに街が染まり始めていて、繁華街がにわかに活気を帯びてくる時間帯だ。今夜はこの辺りで活動クループの集会があるようだ。三ヶ月に一度の頻度で、学生の活動グループたちが秘密裏に集合して情報交換を行っているそうだ。
「どこの店でやるんだ?」
永山の後ろを歩きながら俺が尋ねる。
「まだ秘密です」
永山が部長らしい態度で厳しく答える。
「お固いなあ」
隆二の軽い口調にマナが嫌悪感を漂わせた。先日の真奈美との会話以降、マナが真奈美の言葉を気に留めているのか、隆二に対する態度が微妙に変化している。
京都と大阪の学生グループが集まるとしか永山は口にしなかった。しかも、そんな情報でさえ、京都に着いたつい先ほど教えてくれたばかりだ。
「どこから情報が漏れるかわからないですからね」
永山が硬い口調で説明した。各グループとも、集会場所と時間は代表者のみが知る秘密となっていて、代表がメンバーを引率する協定になっているらしい。
「絵美の体調はどうなの?」
今夜、絵美は風邪を引いて不参加だ。
「大したことはない。みんなにうつしたくないので休んでいるだけだよ」
永山が軽い口調で皆を安心させる。そして急に足を止めたか思うと、
「ここです」
と、ビルの二階にある居酒屋を指差した。
「ここか?」
俺は一抹の不安を覚えながらじっと店を見つめた。
「どうかした?嫌な思い出でもあるの?」
真奈美が面白そうに俺の横顔を見上げている。居酒屋は、どこにでもあるようなチェーン店だ。
「ここは池田屋旅館のあった場所じゃないか?」
「何、それ?有名な旅館なの?」
マナも俺を見上げている。むしろ名所であることを期待しているような瞳だ。
「幕末に勤皇の志士たちがここで秘かに集会をしていた。それが幕府側に漏れて新選組に襲撃された。密会には縁起が良くないかもね」
店を見上げたままで、俺は冗談半ばに説明した。
「金曜の獅子って何?」
マナの問いに俺の目は点になってしまう。
「週末に飲んで暴れるサラリーマンのことだろう」
隆二が答える。
「確かに縁起が悪いですね」
永山が頬を引きつらせながら俺に同意した後、
「金曜じゃなくて勤皇。政権を幕府から天皇中心の政府に戻すべきだと主張して、討幕のために活動した人たちだ。ライオンじゃないぞ」
と、マナと隆二に説明した。
「わあ物知りね、部長。私、歴史なんて全然知らないから尊敬しちゃうわ」
マナが能天気に叫んでいる。
「男の子たちは、幕末とか竜馬だとか大好きだからね。例外なバカ男もいるけど」
真奈美がマナに微笑み掛ける。
「縁起がどうのこうの言っても仕方ないでしょう。さっさと行こうぜ」
知識の無さが露顕して不機嫌な隆二が、先頭を切ってさっさと店に向かう。5階建てくらいの建物で、各フロアに飲食店が1店ずつ入っている。俺たちが二階にある大宴会場に入った時には、他のグループメンバーもそろっていて、ざっと50人ばかりの学生が畳の席に並んでいた。どう見ても大所帯クラブの飲み会だが、みんな口をつぐんだままで、飲み会には似合わない沈鬱な空気に包まれていた。
「遅くなりました」
永山が部屋を見渡してから詫びを入れる。
「まだ集合時間前だから大丈夫ですよ、気にされずにお座りください」
今夜の議長を務めるのか、部屋の一番奥に座っている女子学生が澄んだ声で俺たちを誘った。
「そのお二人が、未来から来られた方ですか?」
俺が腰を下ろす前に議長が質問する。
「はい。予めお伝えしていたお二人です」
部屋中の学生が真奈美と俺に視線を集めて来る。
「そんなに見つめられると恥ずかしいわ。オバサンだし」
真奈美の呟きが意外に大きく響いて、皆が思わず笑いを零した。それを機に空気が和んできて、あちらこちらで雑談が自然発生していった。しばらくすると最後のグループが現れて、議長の女性が凛と響く声を発した。
「では、始めましょう」
議長が、長テーブルを挟んで向かい合っているメンバーたちに目配せをすると、全員がさっと立上り、議長周辺のテーブルを除け、数人の見張り役が部屋の出入口の外に出た。
そして議長を中心にして集まった輪の中で、機密情報の交換が始まった。永山は緊張した面持ちで、大学に隠されていた金庫の件を話した。
どこのグループも興味津々で話に聞き入っている。すると、あるグループのサイトに、金庫のパスワードのヒントとなりそうな文章がメイシャによって書込まれていると言う情報を得ることが出来た。永山とそのグループリーダーがその文章を転送してもらう約束をして、何となく大きくことが進んだような充実感に皆が満足した瞬間、
「警察だ!逃げろ!」
と、見張り学生の張詰めた大声が廊下に響き渡り、勢い良く襖が開いて男子学生が部屋に飛び込んできた。
「建物を警官に囲まれている!早く逃げろ!非常階段も使え!」
「練習のとおり、落ち着いて動いてください!」
議長の女子が張詰めた声で指示を出す。全員が手早く準備を整えてから整然と部屋を出てゆく。俺たちも宴会部屋を出た。窓から下を覗くと、大勢の制服警官と警察車両が木屋町通りを埋めていた。まだ突入準備は整っていないようだ。学生たちは慣れた身のこなしで落ち着いて行動している。
「下手に慌てた行動を取ると警察にばれてしまいます。店には学生が他にもたくさんいますから、全員を逮捕する訳にはいきません。他の学生たちに紛れ込むのです」
永山が俺に話しながら5人は整然と1階まで下りた。不思議なことに、活動とは直接関係ないはずの、他のフロアにいた学生たちも飲み会を中断して外に出て来ている。活動に対する暗黙の協力であり政府への反発であった。
警察も準備が整ったのか、急に動きが騒々しくなってきたかと思うと建物から出て来た学生たちを取り囲んで、ひとりづつ制止しては質問を始めた。建物を出た俺たちも、すぐさま数人の警官に囲まれてしまう。まず真奈美とマナが質問を受ける。永山や隆二の前にも警官が立ちはだかった。
「君たち学生だよね?」
「え?学生に見えるの?嬉しい!」
真奈美が大喜びしている。
(そんな場合やないやろ)
「いえ、違います」
マナが毅然と言い放つ。
「君たちは?」
今度は永山と隆二が詰問された。
「違いますよ」
「僕も違います」
俺が口を挟んだ。
「見ればわかる。あんたには聞いてない」
「身分証明証はありませんか?」
警官たちが彼らを順番に鋭くにらんでゆく。
「飲みに出る時は出来るだけ貴重品は持たないようにしているの」
マナが強気で警官を睨み返した。
「私も学生証を置いてきちゃった!」
真奈美が嬉しそうに嘘を連発している。
(もうバレてるって)
と、その時、ワーッ!と言う大喚声が繁華街に立ち並ぶ雑居ビルに響き渡ったかと思うと、三条通の車道を超えて、若い男たちのグループが雄叫びを発しながら突撃して来た。
活動グループの学生たちを包囲している警官隊の一角を狙って、数十人の男たちが雪崩れ込んでいる。警官隊の人数よりもはるかに多い人数だ。それに呼応するかのように、取り囲まれていた若者たちも警官隊の囲みを突破しようと暴れ始めた。
周囲は一気に騒然とした乱闘の場と化した。怒号が飛び交い、警笛が鳴り響き、ハンドマイクで指示を飛ばす警官の声がビル間に木霊する。あちらこちらで若者が警官に殴り掛かり、つかみ掛かり、集団でスクラムを組んで警官隊の壁を打ち抜いてゆく。とうとう、周囲の無関係な人たちまでもが、普段の不満を爆発させるかのように暴動に加わり始めた。
「今だ、逃げろ!」
永山とマナ、隆二の三人は慣れた身のこなしで警官の間を擦り抜けて逃げ去てゆく。
「あら?」
茫然と立ち尽くす俺と真奈美。なぜか警官が真奈美の両腕を捕らえて車両の方へ連れて行こうとした。本当に真奈美を学生だと思っているのか?
「待て、その女は学生じゃない!三十二だ!三十ニ才なんだ!」
俺は大声を出して、必死で警官たちに真実を伝えた。
「るさいわね!大声で言わないで!」
だが、真奈美はどんどん俺から遠ざけられてゆく。俺も後を追おうとするが警官と暴徒の波で思うように進めない。
「真奈美ちゃん!」
俺の叫びも虚しく二人の距離はどんどん開いてゆく。
「ラオウさん!差入れしてね!」
(捕まる気満々か?)
真奈美は警官に両腕を抱えられたまま、窓に網のついた車両へ乗せられようとしている。ピピピー!大きな警笛を鳴らしている警官の集団が、真奈美が乗せられようとしている車両に駆け寄ってきた。新たな暴徒の一団がその車両に襲い掛かったからだ。
全体の様相は五分五分の状態だ。暴徒たちは武器を持っていない。そのために警官たちも武器を使用できない。せいぜい警棒を振りかざすくらいだ。
人権尊重を建前にしている今の左翼政権は、裏のことはともかく、表では人権を尊重せざるを得ない。国内のマスコミだけならまだしも、公の場では外国人もおり、海外メディアに人権弾圧の証左が漏れてはまずいことになる。押し寄せる素手の暴徒たちには、警官たちも素手で応じざるを得ない。
「真奈美さん!」
暴徒の中から隆二の声が大きく響いた。
「隆二!」
思わず叫ぶ真奈美。暴徒の最前線の数名が警官と組合になった。その状況を足場にしながら、隆二は真奈美を抱える警官に殴り掛かった。当然応戦する警官。真奈美の腕を放して彼と殴り合いを始めた。隆二は瞬く間に叩きのめされそうになるが、次々と仲間が援護にやってくる。多勢に無勢。状況は一変して警官たちは防戦一方になり、真奈美を捕らえるどころではなくなってきた。
「早く!」
隆二が真奈美に手を差し伸べる。隆二の両方の頬は真赤に腫上がって唇には鮮血が滲み、まぶたも敗戦ボクサーのように腫れ上がって、一目では隆二とは判別出来ないくらいに様相が変わっていた。
そんな彼の瞳をじっと見つめてから、何かに惹かれるように手を伸ばす真奈美。隆二は真奈美の手を力強く握ると、グイと腕を引いて彼女の身体を勢い良く抱き寄せた。
「走るぞ!」
頭を低くして乱闘の隙間を縫いながら隆二が先導する。真奈美は彼にグイグイ引かれながら必死で付いていった。
「待て!こら!」
数人の警官がしつこく追掛けて来る。激しい乱闘の波が届かない平常との境界辺りでは、そのエネルギーの境界線に沿って自然と野次馬たちの壁が出来ていた。
「兄ちゃん、こっちや!」
野次馬のおじさんが先斗町へ抜ける路地を指して、野次馬で出来た壁に路を開けてくれた。そして二人が抜けると、何食わぬ顔をして、自然と人の壁を作って警官たちを防いでくれた。
先斗町に抜けた二人は更に小走りで鴨川の河原に下りた。隆二の顔はひどい状態だが、幸い周囲が暗くなってきて人目にはつきにくい。
京の繁華街はサイレンの音が響き渡って騒然としている。どんどん応援の警官が到着し、今度は暴徒たちが逃げる状況になっていた。恐らく非常線が引かれて、怪我をしている者や怪しい素振りを見せた者はすべて職質を掛けられるだろう。
「タクシーで帰りましょう」
真奈美が隆二を斜めに見上げた。
「タクシーはだめだ。賞金稼ぎみたいな奴が多いから、そのまま警察に連れて行かれるか密告される恐れがある」
「じゃあ、どうするのよ?」
「騒ぎが収まるまで路地裏にでも隠れていよう」
二人は四条をしばらく下ってから再び繁華街の雑踏に紛れた。真奈美が隆二の腕に抱きついて、恋人のようにゆっくりと歩いた。事件の起きた木屋町三条辺りを離れると、若干の猥雑さを含んだ空気の漂う静かな繁華街が佇んでいる。二人がしばらく進んでゆくと古い雑居ビルの裏手に丁度良い隠れ場所があった。
狭い路地を進んで建物の裏手に回る。錆びた非常階段を静かに上って二階の踊場に二人は身を隠す。踊場に並んで腰を下ろした二人は呼吸を整えた。隆二の表情は硬いが真奈美は楽しそうだ。
「ここからひとりで逃げろ。俺といると危険だ」
隆二の腫れた瞼の血が固まっている。真奈美は彼の瞳をじっと見つめて、
「私は捕まっても平気よ、学生じゃないし」
と、明るい口調で笑顔を送る。
「どうやって証明するんだ?」
「運転免許証があるわ」
「あなたの免許証はこの社会では偽造品だ」
「あら、そうなの?」
真奈美は他人事のようにあっけらかんとしている。
「早く逃げろよ」
隆二の瞳の輝きをじっと見つめた真奈美は、
「そんな薄情なこと出来ないわ」
と、ゆっくりと瞬きをした。
「俺は軽薄で嘘つきで、あんたの嫌いなタイプの男なんだろ?」
隆二は肩が触れ合うほどに密接して座っている真奈美の横顔に、自分の顔を寄せて瞳を覗き込む。
「そうよ」
「だったら、俺なんてどうなっても良いじゃないか。早く逃げろよ」
隆二はかさぶたの付いた唇を少し開いて痛々しく笑った。真奈美はポケットからハンカチを出して、彼の顎の辺りについた血のりを拭う。まるで、腕白坊主を持った母親が息子の腕白を愛おしむかのような表情で、隆二の顔面を隅々まで優しく見て怪我の具合を確認した後、真奈美は静かに口を開いた。
「それもそうね」
そうして唐突に明るい表情を浮かべて立上る。
「え?」
「じゃあ」
真奈美はあっさりと別れを告げてから階段を下りてゆく。
「マジ?」
隆二は腫れた唇をポカンと開けて彼女の背中を見送った。
俺は人込みの中で真奈美を必死に探して歩いている。警官たちは落武者狩りに出掛けたようで、あちらこちらに拡散している。既に暴徒たちの姿はどこにもなく、潮が引くように逃げて行った。 野次馬たちも次第に減ってゆき、さっきまでの喧騒が嘘のようだ。
永山も隆二もマナも見当たらない。俺は携帯電話を掛けてみたが、やはり俺のスマホはこの社会では通じない。
「やっぱりだめか」
俺は大きく溜息を吐いて、河原町に出てからタクシーに乗った。タクシーの運転手もさっきの暴動を知っていて、最近この手の騒動があちらこちらで発生していると語っていた。だが、それが意味することに関しては一切意見を言わない。きっとこの社会に軋轢が生じていることを気づき始めているが口には出せないのだろう。タクシーを降りた俺が寮に近づくと、なぜか俺の部屋の灯りが点いていた。
「確かに消したはずなのに」
俺はひとり言を零しながら部屋を数えて永山の部屋を確認したが、彼の部屋は真暗だ。女子寮も確認しようかと思ったが、どうも女子寮に近づくのは気が引ける。俺は女子寮の確認は止めて、そのまま自分の部屋に戻った。
「お帰り」
「ただいま。てか、何で君がここにいるんだ?」
部屋の真中に座り込んでビールを飲んでいるマナに不思議な親近感を覚える。
「何でって、ラオウさんが心配だからに決まってるでしょう」
「俺が心配でビール飲んでるのか?しかも俺が買い置きしてあるビールを」
「まあ、固いこと言わないで。ラオウさんも一杯やりましょうよ。永山部長が今、つまみを買いに行ってるから」
床に腰を下ろした俺に彼女はコップを手渡してビールを注ぐ。
「真奈美ちゃんが捕まりそうになって、そこへ隆二が助けに来たんだ」
俺はさっきの概要を話した。
「そう」
だが、マナは余り心配そうな表情は見せない。
「心配じゃないのか?」
「別に。隆二がいるなら上手く逃げているわよ。逃げるの得意だから」
「褒めてるのか?」
「足よりも手の方が早いわ。むしろそっちの方が心配かも」
俺は何となくマナの嫉妬のようなものを感じたので、
「隆二は携帯を持っていないのか?」
と、話題を変えた。
「事件が起きた時には携帯は使わないの。盗聴されている可能性が高いからね」
この社会の常識を知らない俺を、もどかしそうな表情で一瞥してからグラスのビールを飲み干した。
「永山の奴、遅いわね。つまみ買うのに何時間掛かってんのよ」
少々イラついたマナは片膝を立てて俺にビールを注ぐ。
「立膝はやめてくれ。目のやり場に困る」
短めのスカートを穿いているので花柄のパンティーが少し覗いている。
「あら、興奮するの?」
俺は小さく溜息を吐いて目を逸らせる。
「私、真奈美さんみたいなものでしょう?パンティーくらい見慣れているでしょうに」
俺はある意味納得したが、
「何か誤解されているようだ」
と、意味深なマナの笑みを否定した。
「なんだ、まだやってないの。じゃあ、オカズにしていいわよ、こんな世界に来て不自由しているでしょ?」
更に意味深な笑みを浮かべてからビールの入ったグラスを掲げる。
「お気遣いだけ頂いておく。花柄は見飽きたから仕舞ってくれ」
「しっかり記憶したってことね、お疲れ様、乾杯」
「隆二、いる?」
突如聞こえた女の声に、眠りかけていた隆二はゆっくりと目を開いた。あばらと頬骨がズキズキ痛む。
「マナか?」
記憶の中から声の持ち主を探した隆二は小声で答える。だが同時に、マナがここにいることに違和感も覚えている。
「私よ」
「だから誰だよ」
痛みに苛まれている隆二は面倒臭そうに返答する。コツコツと足音を立てて女が階段を上がって来る。真奈美だ。その瞬間、隆二の表情がぱっと明るくなった。
「何してるんだ。逃げなきゃだめだろ」
すぐに険しい表情に戻してから彼女を叱る。
「おなか空いたでしょ?」
真奈美は彼の言葉など意に介さず、彼の身体に寄り添うように腰を下ろした。そしてコンビニ袋からサンドウィッチと飲物を取り出す。薬も買ってきたようだ。彼女は濡れティッシュで隆二の顔中の傷口を拭ってから消毒をし、絆創膏を貼った。
「これで良し」
手当を終えた真奈美は彼の肩に首をもたげた。
「どうして逃げない?」
「食べる?」
真奈美は彼にサンドウィッチを差し出す。だが隆二は差し出されたサンドには目もくれず、
「早く逃げろよ」
と更に促した。真奈美は小さく吐息を吐いてから、
「せっかく買ってきたのに」
と、口を尖らせて袋に戻した。そして、
「自分のために戦ってくれた男を置いて逃げるほど薄情じゃないわよ」
そう言いながら彼の唇の傷を指で撫でて、
「それに」
と言い掛けてやめた。
「それに?」
隆二が真奈美をじっと見つめる。
「それに、昔、隆二のことを好きだったから……」
彼女は目を伏せて羞恥の色を浮かべる。
「え?」
隆二は目を丸くする。そして不器用な一瞬の沈黙が過ぎ去った後、真奈美が小声で囁いた。
「私たち付き合っていたのよ、私の過去では……」
そして彼の瞳を見つめて頬をつねった。
「イタッ!」
「あら、そんなに痛いの?ごめんなさい」
真奈美はクスクス笑いながら今度は彼の頬を撫でる。
「どれくらい付き合っていたんだ?」
隆二が興味深げに尋ねた。
「卒業までよ」
「へえ。長続きしたんだ」
隆二が感心したように言った瞬間、真奈美の表情が一変して、
「それ以上は何も聞かないで。腹が立ってくるから」
と、強い口調で隆二の興味を封じ込めた。
「今は昔話なんてしている場合じゃないでしょ。逃げることを考えなきゃ」
彼女はふと夜空を見上げる。
「逃げる所なんてどこにもない」
「男の子は諦めるのが早いわね」
真奈美は大きく深呼吸をする。隆二は両膝を抱えて彼女から顔を背ける。
「あそこしかないわね」
真奈美が小さく呟いて、隆二はゆっくりと真奈美の視線を追う。だが視線の先には建物の壁しかない。
「あそこ?」
尋ねるような瞳を真奈美に向ける。彼女は再び彼の唇の傷を人差し指で撫でながら、
「コンビニの裏手に古いラブホがあるの。受付のオバサンの顔も見えないようになってる怪しいホテルよ。古いからカメラもない。親の時代から京都にいるC国系の経営者だけど、今の日本政府には反抗的なの。むしろ日本人を守ってくれる。C国系だから政府も黙認しているのよ」
と、彼の耳元で小さく囁いた。
「何でそんなことを知ってるの?」
「コンビニで買物してたら、知り合いの黒服男が現れて教えてくれたの」
「黒服?」
「まあ、良いじゃない。信用できる情報よ。ラブホはいや?」
真奈美は相変わらず彼の唇を指でいじりながら囁いて、妖しい瞳で彼をじっと見つめた。隆二は唇を弄ばれながら、
「良いの?」
と、遠慮気味に真奈美の心根に手を伸ばそうとした。
「何よ。何かするつもり?」
顔を近づけた真奈美の悪戯な瞳が隆二の一瞬の期待を打砕く。
「しないよ」
彼はふっと冷笑を浮かべて心の動揺を隠したが、真奈美は彼の心の波動を感じて満足げな表情を浮かべる。そして勝ち誇ったような笑みを湛えて彼の耳元に口を近づけた。
「しても良いよ」
彼女は恥ずかしげに囁いて彼の驚いた瞳をじっと見つめる。目を丸くしたまま、からかわれているのかどうかを見定めようとする隆二。
「昔はあんなに激しく抱いてくれたじゃない」
ニコリと微笑んだ真奈美は、瞳に艶な炎を浮かべて彼の唇の傷にそっと触れた。
「俺にはそんな記憶は無いけど、抱いている夢は見た」
隆二の血潮も急騰している。
「マナじゃなくて?」
真奈美の意地悪な質問に彼はゆっくりと頷く。
「嘘つき。そう言うところ、昔と変わってないわ」
「だから、昔のことを言われても……」
彼は困惑している。
「じゃあ、毎晩思い出して……。いろいろ妄想してるの?」
意味深な言葉に彼が頷いた瞬間、真奈美がそっと唇を重ねた。




