リバージ 3
例の映像が世間に出てから約二週間が経った。野党第一党による臨時政府が設立し、各地で起きていた暴動も治まった。民民党は実質的に崩壊し、元首相を含む党幹部は刑事告発されて身柄を拘束されているが、相変わらず醜い責任逃れを試みている。
市井には平穏と活気が戻りつつあった。過剰な防犯カメラは取り除かれ、人々は安心して外出出来るようになってきた。どこの店も買物客で溢れ、夜の繁華街も遅くまで賑わうようになってきた。
「懐かしい感じだなあ」
俺と奈川が昔を思い出すように感慨に耽った。新聞部のメンバーと一緒に、若者たちで賑わう木屋町を歩いている。マナたちが繁華街で遊び始めた頃には民民党政府だったので、当初から暗い街の印象しかない。だからとても新鮮に映っているようだ。
「ボディコンで踊ってたの?」
マナがネットで仕入れた情報を元に真奈美に聞いている。
「そんなオバサンじゃないわよ、それはラオウさんの時代」
真奈美はそう言って俺に話題を振ってきた。
「ボディコンネエちゃんがお立台でパンツ見せて踊っていたな」
そんな俺の言葉に、
「羨ましい」
と、隆二が身を乗り出してきた。
「タクシーも拾えない時代だったな」
奈川も昔話を始めた。
「どうしてですか?」
永山は全く想像できない世界に疑念すら抱いていそうだ。
「誰も終電なんかで帰らないからだ」
「羨ましい!」
と、今度はマナが食いついてきた。
「飯を食わせるだけのメッシーや、送迎するだけのアッシーと呼ばれる男たちが若い女子たちにまとわり付いていたな」
「ハーレムよりも極楽ね!」
真奈美もウキウキした様子で、ピントのずれた言葉を投げ掛けてくる。
「ちょっと違うけど……。まあ、きっとまた、それに近い時代がやって来るよ」
奈川がそう言った頃に俺たちは目的の居酒屋に到着した。
「とりあえず乾杯しましょう」
全員に生ビールがゆき届くと同時に永山が発声した。
「カンパーイ」
今夜は真奈美と俺のお別れ会だ。奈川を含めた六人が居酒屋に集まっている。永山も、真奈美たちと同日に軟禁状態から解放されていた。結局、亀田から永山に手渡され、指示どおりに永山がDNNに手渡したのは本物のCDだったことになる。
「本当に面倒なことをする人たちだ」
俺は、永山にも琴美先生の話はしたが、まだ彼の頭の中が整理しきれていないようだ。
「CIAがDNNに直接渡したんじゃ、USが告発したことになって後々外交問題になるからな。あくまでも日本人による告発という形が必須だったんだ」
と、奈川が再度説明した。
「なるほどね」
隆二が大げさに感心してみせた。
「あんた、まだ理解してなかったの?」
マナが冷たく隆二を睨んだ。
「そう言えば亀田先輩に宿舎で会ったよ」
永山が不穏な空気を察してすぐに話題を変えた。
「え?精神病院にいるんじゃなかったの?」
マナがジョッキに口を付けたまま永山を見つめた。
「僕も色々質問したけど何も答えてくれなかった」
「洗脳が完了して退院させられたんじゃないのか?」
隆二がビールを飲みながら意見した。
「話した感じでは昔と変わらなかったけどな。洗脳された風には思えなかった」
永山が、あの時感じたことをそのまま皆に話した。
「結局、亀田もCIAに保護されていたんだよ。永山が軟禁されていた宿舎はUS企業の研究所だ。何となく匂うだろう」
奈川が新たな情報を提供した。
「CIAがダミー会社を作っているの?」
マナは信じていない様子だ。
「まあインテリジェンスがない日本人にはわかり難いだろうが、どこの国でも諜報機関はある。そして国民は普通に協力している。協力と言ってもスパイをする訳じゃない。知っている情報を提供したり、土地や設備を貸したりするだけだ。まあ、日本人が警察に協力するような感覚だな」
奈川が記者らしい知識を披露してみせた。
「じゃあ、やっぱり亀田先輩も秘密の映像について何か気づいていたってわけか?」
隆二が永山の表情に語り掛けている。
「偶然知ったんじゃないの?先生の部屋を覗いたり、何かと彼女に近づいていたもの」
と言ったマナの言葉に、
「その気づいたことを琴美先生に話したので亀田君は保護された。亀田君は公安に逮捕されたんじゃなくて、CIAの関係者に保護されたんだろう。俺たちみたいにな」
と、俺が言葉を付け加えた。
「銃のお兄さんたち可愛かったわね」
真奈美が突然マナに同意を求めたが、軽く流されてしまった。
「ところで琴美先生はどうしたんだろう。あれから学校にも姿を見せていないけど」
隆二がビールを口にして軽く問うた。
「気になるの?」
とマナが猜疑心に満ちた瞳で見つめている。
「そりゃあ、お礼も言わないといけないし」
「へえ、お礼をねえ」
マナは、彼から視線を外して冷たい口調で言った。
「琴美がCIAのエージェントであることを、俺たちが感づいたことに琴美は気付いているんじゃないかな?だったら、もう決して現れないよ」
奈川が大人口調で締めくくってから、
「明日は何時頃出発するんですか?」
と、真奈美に向かって話題を変えた。
「午後一時に列車が発車するので十二時には寮を出ますよ」
そう言って彼女はちょっと寂しそうな表情を浮かべた。
ちょうど三日前の夜、俺の部屋で真奈美とマナが飲んでいる時に、神の使途である黒服男が現れた。マナは酔っていたせいか黒服男の出現にも驚かなかった。
黒服はビールを一杯飲んでから妄想列車の出発日時を告げて消えてしまった。妄想列車が走り出すのに十分なエネルギーが、国民から湧き上がっているらしい。
「遅れないでよ」
真奈美が隆二を見つめながら厳しい口調で釘を刺した。
「本当に一緒に行くのか?」
俺は、マナの表情を気にしながらも、疑い半分に隆二に確認した。違う社会にいくことなんてことが本当に出来るのか。そして、そんなリスクを冒してまでも真奈美と行動を共にする気持ちが彼の本当なのか。
「勿論。真奈美さんの過去では、僕は裏切り者で年上の女性の所へ行ってしまった裏切者みたいですけど、今の僕はそんなことはしませんよ」
隆二は堂々と言い切った。その言葉に真奈美は安堵し、マナは目を伏せた。
「しかし、それは歴史を変えてしまうことにならないのかな。真奈美さんが隆二とは結ばれなかった歴史を……」
奈川が、真奈美に憚りながらも疑問を口にした。
「僕たちはもうこの社会を変えてしまったじゃないですか」
永山が枝豆を食べながら軽い口調で意見した。
「いや、この社会は俺たちが時空を歪めた結果、民民党なんかが支配するおかしな社会になってしまった。それを元どおりの流れに戻しただけだ。これで俺たちがいなくなればすべてが元に戻る」
俺はそう言ってビールをあおった。
「でも、真奈美さんに会えなくなるのは寂しいですね」
永山は少し赤くなって照れている。
「マナがいるじゃない。顔は同じよ、性格は大違いだけど」
真奈美も少し照れ気味に永山を慰めた。
「私がこんな性格になったのは、あんたたちが時空を歪めたからでしょう?責任とってよね」
マナがくすっと笑いながら焼酎を口に運んだ。
「時空の軸は元に戻ったんだから、十年後には私のようになるわよ」
真奈美は焼き鳥を手にした。
「ごめんだわ、そんなオバサンになるの」
「あなたも必ず三十になるのよ」
「三十だったの?」
奈川が少々驚いている。
「え?」
真奈美はしまったという風に俯いて串を噛んだ。
「とても見えないですね、三十には」
「三十を連発しないで」
「じゃあ、僕は今からマナさんと付き合ってみるかな」
と、永山が冗談を零した。
「あんたはどっちに告ってるわけ?」
場を和ますつもりのジョークにマナが激しく食いついた。
「二人を足して割ったぐらいが丁度良いと思う」
と言った隆二の言葉は、妙に信憑性があって思わず皆が納得してしまった。
「さあ、もっと飲んで食べましょう。もう何を話しても捕まりませんよ」
永山が場を盛り上げようと明るい声を発した。
翌日は、秋の香りが漂う晴天だった。出発の時間がやってきた。俺は少し早めに寮を出て、隣の女子寮にいるマナに挨拶をするために足を向けた。
昨夜、永山と真奈美は最後のランチをする約束をしていた。だから二人は先に街に出ている。隆二も数人の友人に会ってから駅に向かうらしく、既に部屋を出ていた。
マナは、電車の見送りなんて御免だと言っていた。本当は真奈美との別れよりも隆二との別れが辛いのだろうと俺は考えている。
と、マナが三階にある部屋のベランダに姿を現した。そして扉の上にヒラヒラとなびいているハンカチの様な物を取り外した。
「あれは?」
瞬間的に、俺の脳裏には尾道のある風景が浮かんでいた。そう、真奈美が毎日ベランダにハンカチを掲げていた風景だ。確か、両親が一緒に刺繍を入れたハンカチで、出て行った夫の帰りを信じて母がベランダに掲げ、母の死後、真奈美は白馬の王子様が現れるように祈りながら掲げていた物だ。
「やはり、マナもあれを掲げていたのか」
俺はマナの行動をじっと見つめ続けた。すると、マナは手にしたハンカチに向かって何かを呟いたかと思うと、ベランダから力一杯に放り投げた。
ハンカチはヒラヒラと宙を舞いながらゆっくりと落ちて行く。マナはしばらく秋空を見上げたまま身動きひとつしないでる。
俺は、真奈美が松山君の死に直面した夜、彼に買ってもらった指輪を、二人の想い出の全て投げ捨てるかのようにベランダから放り投げた時の情景を思い起こした。
祈祷師の婆さんに、不幸の指輪だと嘘の指摘をされた指輪だった。真奈美は、自分が不幸の指輪を外さなかったから松山君が死んだのだと思い込んでいた。いや、きっと今もそう思っているのだろう。
しばらく空を見上げていたマナは、涙を拭うような仕草をしてからベランダから姿を消してしまった。
俺はハンカチに近づいて、祈りのハンカチを拾いポケットにしまった。もう、マナの顔を見るのは辛くなってしまって、そのまま駅に向かうことにした。
あのきつい性格のマナが、将来、本当に真奈美のようになるのだろうか?そんなことを考えながら大学の門にたどり着いた。そして後ろを振り返り、ここでの出来事を、元の社会に戻っても覚えていられるのだろうかと不安に思いながら、秋色の景色を目に焼き付けてから門をくぐっていった。&
妄想列車の出発時間が迫っている。
「色々とご苦労様でした。お蔭様で列車が運行できるようになりました」
車掌が、車両に乗込んだ俺に向かって礼を言った。
「何言っているんだ。元々、こいつらがルールを破ったから、時空が歪んでしまったのだぞ」
黒服がビールを飲みながら不機嫌に零して、ホームに立っている真奈美を見つめている。
「まだ来ないようですね」
車掌が心配そうに俺の顔を見つめた。
「歴史は変えられないと思うけどな」
俺も、真奈美が不憫で彼女の背中すら見ていられなかった。永山が真奈美のそばに立って、隆二がホームに現れるのを、視線をせわしく動かして探している。
「真奈美様、もう時間です。列車にお乗り下さい!」
車掌が大声で叫んだ。それでも動こうとしない彼女の前に、北陸方面に向かう特急列車が滑り込んでゆっくりと停車した。
妄想列車と特急列車に挟まれた真奈美は、ゆっくりと秋空を見上げて大きく深呼吸をした。そして静かに妄想列車の方に身体を向けた瞬間、
「真奈美!」
と、隆二の大声が響いた。ぱっと花が咲いたような美しい表情で振り向く真奈美。しかしホームに隆二の姿はない。
「あそこ!」
永山が大声で叫びながら特急列車の窓を指差した。
「隆二!」
そう叫んだ真奈美の表情が見る見る凍りついてゆく。特急列車には、隆二と琴美先生が乗っていた。真奈美が言葉を発する前に特急列車は走り始め、隆二は手を振り、琴美はじっと真奈美を見つめている。
「真奈美様……」
車掌が、申し訳なさそうに彼女の腕を引いて車両に引き込んだ後、妄想列車は隆二の乗った特急とは反対方向に動き始めた。真奈美はドアに額をつけたままで動かない。俺は何も言えずに、黒服男と向かい合って座った。
「ビールもらうぞ」
「ご自由に」
俺は缶ビールを手にしながら、
「隆二はいつ琴美先生と連絡を取ったんだろう」
と呟いた。黒服は上目づかいに俺を捉えながら、
「船を降りる時に、銃男に封筒を渡していたじゃないか。そして、奴は秘密にしていたようだが、亀田よりも先に琴美に近づいていたのは奴だ」
と、不愛想に言った。
「何でお前がそんなことを知っている?」
「俺が神の使徒であることを忘れるなよ」
黒服が柿ピーを噛んだ。
「やっぱり年上の女が好きなのね、隆二は」
不意に、なぜか笑顔を浮かべた真奈美が近づいてきた。
「今のお前は隆二より年上だろう?」
黒服が余計なことを言う。
「あっそうだわ。だったら、何で琴美さんなのよ!」
「余計なことを……」
俺は黒服を睨んだが、
「十年前と同じね。ま、良いわ。私にもビール頂戴よ、黒服さん」 と、彼女は明るく笑って俺の隣に腰を下ろした。
「だから歴史は変えられないって言っただろう」
俺は慰めるように優しい声で言った。
「わかってないな、お前は」
黒服が吐き捨てた。
「何がだ?」
「歴史を変えられないことは真奈美が一番良くわかっているさ。それでも待ってみたいのが女心だろうが」
「まあ!黒服さんは意外とロマンチストなのね」
真奈美が、笑顔で俺にビール缶を渡した。
「また開けられなくなったのか?」
「面倒くさいだけよ」
真奈美は、俺から受け取った缶ビールを小さくあおって旨そうに喉を鳴らした。
列車のスピードがどんどん加速してゆく。車窓を流れる街の風景が信じられないほど速い速度で流れ去り、振動も大きくなってゆく。やがて、風景を視覚で捉えられなくなり、立っていられないほどの振動と揺れに真奈美がちょっと不安な表情を浮かべた時、車両がふっと浮き上がると同時に振動は止んだ。
窓の外には真暗な闇が広がり、不気味な静けさが車内を包み込んだ。だが、今回は車両の電灯は点いているために、窓が鏡のように社内の様子を映し出している。
「エネルギーは十分のようだな」
黒服は安堵している。
「これで元に戻れるのね」
「どこまで戻るんだろう?」
俺がそんな疑問を口にした時、なぜか車両がゆっくりと回転を始めた。
「何だ?」
最初は遊園地のコーヒーカップのように、水平を保ったままでグルリグルリと回っていたが、やがて霧もみ状態に近い回転に変わってきた。
「キャアー!ビールが零れるー!」
真奈美が両手でビール缶を持って水平に保とうとしているが、身体はシートから落ちそうになっている。
「ビールは良いから吊り輪につかまれ!」
俺は片手で吊り輪を握り、もう片方の腕を伸ばして倒れかけた真奈美の腕をつかんだ。黒服男は宙に浮いてあぐらをかいたままビールを飲んでいる。車体はグルグルとネジのようにゆっくりと回転しながら闇の中をさ迷っているようだ。
「大変ですかラオウさん!」
車掌が息を切らせながら、宙に浮いた状態で空中を泳ぐようにして近寄ってきた。
「何があったんですか?ああ、重い!」
俺は真奈美をつかんだままだ。
「重い?失礼な!男のくせにもっと力を出しなさいよ!」
真奈美が叫んでいる。
「パワーは十分なんですが、どこへ向かえば良いのか列車が迷子になっています」
「方向音痴の列車なんて聞いたことがないぞ」
黒服が毒づいた。
「コンパスも修理したんでしょ?」
「はい、確かに修理しました。しかし、動きが変なんです。黒服さんも一緒に来て下さい。私にはどうにも出来ません!」
「面倒くせいな」
黒服がビール缶をクシャリとつぶしてから、真奈美の腕をつかんで宙を移動し始めた。
「わあ、すごい!浮遊術みたい!」
車掌が俺の腕をつかみ、四人は運転席に向かった。
「運転手は何をしてるんですか?」
先頭車両に入った俺は大声で尋ねた。
「そんなのいませんよ。自動操縦ですから」
四人はふらつきながら宙を移動して狭い運転室に入っていった。
「妄想列車はどの時代にいるのか、どの時代に戻れば良いのかわからなくなっています。そこの丸いコンパスにお二人で手を触れてみて下さい」
運転席の計器を指差して車掌が叫んだ。車両の回転速度が次第に速まっている。
「二人が同時に触れることで二人の時代に戻すわけか」
黒服がひとり解説している。俺と真奈美がそれぞれ手を触れた。しかし、何も変化はない。
「そもそも、俺と真奈美ちゃんは、現実の世界では口も利いたことがないんですよ!」
「口も利いてないのか。それじゃあ歴史の目印にはならない」
黒服が溜息をついて操縦桿を握り、回転を止めようと試みた。
「無理ですよ」
車掌が肩を落としながら黒服の無駄な抵抗を諌めた。
「真奈美、何か高校時代の品を持っていないか!」
と、黒服が何かを思いついたように叫んだ。
「なるほど。一旦尾道時代に戻れば軌道を修正できますね」
車掌が目を輝かせる。
「高校時代の物?アアア、目が回ってきたわ」
「無理か……。何しろ十数年も前だからな」
黒服が諦め口調で言ってから操縦席を離れた。
「るさいわね!」」
真奈美は、彼女の横に並んだ黒服に肘鉄砲を食らわせてから更に考え込んだ。四人は運転室の真中に浮いているが、彼らを中心に車両は回転を続けている。
「アア、気分が悪くなってきた、吐きそう。でもほんと、高校時代の物なんて何もないわ」
真奈美が申し訳なさそうにポケットを探りながら言った。
「もう限界ですよ!時空の闇に吸い込まれてしまいます!」
車掌が度を失って狼狽え始めた。
「これならどうだ!
はっと閃きを感じた俺は、ポケットから指輪を取り出した。
「それは!でも何であなたが?」
真奈美が驚嘆している。
「君がベランダから捨てたのを拾ったんだ」
「でもそれは不幸の指輪よ。皆、不幸になるかも」
真奈美が心配そうな表情を浮かべた。
「松山君が死んだのは指輪のせいじゃないよ。この男のせいだ!」
俺は黒服を指差してからコンパスに向かって思い切り手を伸ばしたが、思うように姿勢を制御出来ない。
「だから、俺は単なる使徒だと言ってるだろう。あれは神様のご意思だ」
黒服が弁解気味に叫んだ。
「もう少しです!」
回転する車両の中で、車掌が必死で俺の身体を引いている。
「ウリャアー」
車掌の気合と共に俺の身体が前に進み、ようやく指輪がコンパスに触れた瞬間、車両はガタガタと小刻みに振動を始めた。
「震えだしたぞ!本当に不幸の指輪じゃないのか!」
「だから言ったじゃない!」
真奈美がなぜか笑い声をあげながら大声で叫んだ瞬間、真赤な閃光が車両を貫いて全員が気を失った。
俺は眠りから目を覚ますと、そこには見慣れた風景が広がっていた。もう何十年も見続けている朝の通勤電車の風景。車両の中はけだるい空気と爽やかな沈黙に満たされている。
俺はぼんやりと周囲の情景を順に見渡してみた。まるで狐にでも騙されたかのような感覚だ。朝陽がとても眩しく感じる。
妄想列車の車両は四人掛けの席だったが、今は横並びの席に座っている。そう、俺が毎朝乗っていた通勤電車と同じ車両だ。
「夢を見ていたのか?」
俺は心の中で呟いた。随分長い夢だった。しかし、妙に現実感が残っていてとても夢とは思えない。詳細なことまで思い出せる。記憶が次第に明瞭になってきた。
グルグル回転する車両の中で、真奈美の捨てた指輪を妄想列車のコンパスに当てた途端、真赤な閃光に覆われて気を失ったのだった。そして目覚めると通勤電車に乗っていた。
「元の世界に戻ったのか?」
しかし、いつもよりも人が少ない。正面の窓からは淀川の風景を臨むことが出来る。もうすぐ終着駅だ。俺は珍しく座席に座っていた。ここは元の世界なのだろうか?
「そんなことより真奈美はどこへ行ったのだろう」
ふと心の中でそんな疑問が湧いたとき、隣に座っている女性から嗚咽の声が漏れた。小柄な女性で、俯いたまま小さな肩を震わせている。
俺と女性の前には誰も立っていない。前の席の人たちは眠っていたり新聞を読んでいたりするので、女性の様子には気づいていないようだ。
彼女はティッシュもハンカチも持っていないのか、時々指で涙を拭っている。俺は勇気を振り絞ってポケットからハンカチを取出し、彼女の目の前に差し出してみた。
「よろしかったらどうぞ」
俺の差し出したハンカチに一瞬固まった彼女は、ゆっくりと俺の顔を見上げた。マナ!いや、真奈美だ!しかも若い!若いからマナと見間違えたのだ。
「あなたは、もしかして?」
真奈美の瞳には涙が光っているが、見る見る希望の輝きが広がってゆく。ずっと待ち焦がれていた白馬の王子様だと思ってくれたのか!
俺が差し出したハンカチは、過去の真奈美がベランダに掲げていたハンカチだ。真奈美はじっとハンカチを見つめてから、再度顔を上げて俺に尋ねた。
「あなた、もしかして、私のお父さん?」
「え、そっちか?」
俺は少し落胆しながらも、
「私のことを覚えていませんか?」
と尋ねてみた。彼女は俺をじっと見つめてから、
「いいえ」
と、小さく答えた。
「妄想列車って聞いたことありますか?」
「いいえ」
もう彼女の涙は乾いている。
「ところで、今何年ですか?」
真奈美は不思議そうな表情で俺を見つめながら、
「ニ〇〇五年ですけど」
と、小声で答えた。
「二〇〇五年。じゃあ俺は四十一歳で真奈美ちゃんは二十四歳ですね」
「あなたの歳は知りませんけど、私の名前と年齢は合っています」
不思議そうな表情を浮かべている真奈美は、まだ若くてとても可愛い。
「もしかして、ストーカーさん?」
「まさか。色々複雑な事情がありまして……」
俺が、どう説明しようかと迷っているうちに電車は大阪駅に到着してしまった。
「じゃあ、失礼しますね」
「あの……」
俺の言葉など全く無視した真奈美は、素敵な笑顔を残して通勤電車を降りて行ってしまった。俺は彼女の後姿を目で追いながら、妄想列車の長い旅の余韻に浸るしかなす術がなかった。




