第3章・第14話「不渡りの空、残高の絶望」
監査人がいた場所から立ち上っていた銀の粒子が、吹き抜ける風に攫われて消えていった。
霊殻の換装を強制解除した瞬間、耐え難いほどの重力と、叩きつけられた衝撃のフィードバックが、縮小された痛みとなって俺の肉体を襲う。
……あいたたた。
全身の骨がバラバラの部品になって、袋に詰め込まれたまま揺さぶられているような気分だ。
俺は震える膝をどうにか叱り飛ばし、広場の石畳に突き立てた拳を支えにして、ゆっくりと顔を上げた。
「……カイト! ああ、よかった、無事なのね……!」
正面から、エリアがなりふり構わず駆け寄ってくるのが見えた。
彼女の頬を伝う涙が、神威庁を覆っていたあの不自然なセピア色ではない、本物の青空を反射して光っている。
俺の胸に飛び込んできた彼女の体温と、微かな汗の匂いが、ここがまだ「存在している世界」であることを、これ以上なく生々しく教えてくれた。
……ああ、間に合ったんだな。
俺は、彼女の背中に回そうとした手がアニマの使い過ぎで痙攣していることに気づき、苦笑しながらその熱を受け止めた。
『おじさん……! やった、やったよ! あいつ、消えちゃった! あたしたち、勝ったんだよね!?』
胸元で、セフィラがいつもの調子で跳ね回る。
彼女を包む光は、以前の消え入りそうな灯火ではなく、力強く、澄んだ輝きを放っていた。
支配権(SIC)の急回復——星の半分近い権利を、俺たちはこの王都という現場で、力ずくで邪神から買い戻したのだ。
広場を囲む民衆からも、最初はおずおずと、そして爆発的な歓喜の咆哮が上がり始めていた。
だが、俺の観察眼は、その歓喜の隙間に混じる「極低温のノイズ」を、無視することを許さなかった。
……変だな。
空気が、まだ死んでいる。
空は青い。風も吹いている。
なのに、肌を刺すアニマの質感が、まるで鋭利な刃物を突きつけられているような緊張感から、一向に解放されない。
俺はエリアの肩をそっと押し留め、ゆっくりと視線を天頂へと向けた。
「……何、よ、あれ……」
エリアの歓喜に満ちた声が、一瞬で凍りついた。
青く澄み渡ったはずの空。その真ん中に、監査人が降りてきたあの「歪み」を核にして、巨大な黄金の文字が債務明細のように居座っていた。
【 98.0% 】
世界の網膜に焼き付いたその数字は、太陽よりも冷たく、無機質な輝きを放っている。
俺の脳裏に、タクシーの料金メーターが、深夜料金の加算と共に狂った速度で跳ね上がっていくあの不快なカチカチという音が重なった。
……最悪だ。
俺たちの勝利を、あいつらは「誤差」としてすら認めていない。
『……待って。おじさん、これ……解析……できちゃった。うそ、うそでしょ……』
セフィラの声から、さっきまでの元気な響きが根こそぎ奪い取られていた。
彼女は俺の目の前で、震える手で空の文字を指し示す。
彼女の透き通るような瞳の奥には、俺には見えないはずの「世界の裏帳簿」が、滝のようなデータとなって流れ落ちていた。
『……これ、負債の残高じゃない。……「差押え(デリート)」の進捗率だよ。……邪神は、もうこの星を直すつもりなんてないんだ。……98%。……あと2%。あと2%分、あたしたちがこの星で抗うのをやめた瞬間に……この世界という資産は、完全に廃棄処分される……』
空に刻まれた「98.0%」という数字。
それは単なる完了率などではなく、この世界という資産が間もなく完全に消去されることを告げる、非情な差押えの通知だった。
……なるほど、そういうことか
喉の奥が引き攣れるような感覚と共に、俺の背筋を冷たい汗が一本の筋となって流れ落ちた。
俺たちが監査人を倒し、支配権を奪い返したことで、奴らは「個別回収」という効率の悪い営業を放棄したらしい。
星を丸ごと抵当に入れ、その期限が来る前に、残された僅かな価値を全て吸い尽くして解体する。
空の数字は、この世界というボロ雑巾をゴミ箱に捨てるまでの、カウントダウンそのものだった。
「……じゃあ、あたしたちがやったことは、全部無駄だったっていうの……!?」
エリアの悲痛な叫びが、広場の静まり返った民衆の心に波及していく。
歓喜は一瞬で、より深い、底の見えない戦慄へと塗り替えられていった。
……無理もない。
全力で走り切って、ようやくゴールだと思ったら、そこはまだ最初の信号待ちだったなんて言われたんだ。
だが、俺の心臓は、不思議なほど静かだった。
前世。深夜二時の新宿。
ようやく入庫して温かい飯を食おうとした矢先、無線から流れてきた「県境越えのロング」の予約。
身体はボロボロで、目蓋は鉛のように重い。
それでも、ハンドルを握る俺の手は、迷わず目的地までの最短ルートを検索し始めていた。
あの時と同じ、逃れられない「プロの諦念」と「意地」が、喉の奥に苦く残っている。
「——不渡り息子! いつまで突っ立ってやがる! 次の客が、特大の請求書を持って待機してんぞ!」
人波を割って、煤まみれの作業着を着たガルトが、巨大な観測機を担いで現れた。
監査人との戦いの最中、拠点で防衛に回っていた親父は、片腕を包帯で吊りながらも、その瞳には俺と同じ、死線を何度も潜り抜けた者特有の不敵な光を宿していた。
「……ガルト親父。……生きてたか」
「ケッ、お前らみたいなバカ息子を放って、地獄へなんて行けるかよ。……見ろ、カイト。……空のあのバカでかい数字。あれの『発信元(本店)』の座標を、この古い観測機で逆探知してやったぜ」
親父が差し出したモニターには、激しくノイズの走る地図が映し出されていた。
この星の物理的な地図には載っていない、アニマが逆流し、全ての存在が虚無へと吸い込まれていく場所。
王都から遥か北。かつて創造神が最初に降り立ったと言われる「始まりの聖域」——。
今では、邪神がこの星のハンドルを奪い取るための「中枢(本店)」へと変えられている場所だ。
「……そこが、最後の目的地か」
「ああ。そこへ行って、奴らの懐にある『真の帳簿』を直接叩き割らねえ限り、空のあの数字は止まらねえ。……だがな、今のままの足じゃ、辿り着く前に燃料切れ(デリート)だぞ」
親父の視線が、俺のボロボロになった肉体と、SICの急騰に耐えきれず細かなヒビの入った霊殻の起動キーに落ちた。
視線を落とし、自分の右拳を凝視する。
皮が剥け、アニマの過負荷による禍々しい内出血が黒ずんでいるが、指先にはまだ微かに感覚が残っていた。
よし、まだ動く。
俺は、震える手でその拳をゆっくりと握り直した。
……上等だ。
ガルトが指し示したモニターには、邪神の本拠地へと続く、この世界で最も険しく、そして最短のルートが描き出されていた。
ついに「本店」の場所が割れたわけだ。
……やるしかないだろ
俺は、隣で震えながらも俺の顔を見て必死に覚悟を決めようとしているエリアの肩を、逃がさないよう力強く抱き寄せた。
「エリア、セフィラ。……お疲れ様。……初乗りは、これで終わりだ」
「……カイト?」
「……ここから先は、俺の人生で一番重くて、一番距離のある『最後のロング予約』だ。……客(世界)を降ろす場所は、あの空の下じゃない。……誰にも文句を言わせない、最高の青空の下まで連れてってやるよ」
俺は、ガルトから手渡された座標データを脳内のナビに刻み込み、再び立ち上がった。
空に浮かぶ「98.0%」が、俺たちを嘲笑うように輝きを増す。
だが、不渡りの営業所は、どんなに負債を抱えても、客を途中で放り出すような真似はしねえ。
俺は、トランク——霊殻の起動キーを死ぬ気で握り直し、星の終着駅を書き換えるための、最後の一歩を踏み出した。
【あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
「不渡りの空、残高の絶望」
監査人を撃破し、王都に青空を取り戻したカイトたち。
しかし、彼らの勝利を嘲笑うようにして空に刻まれたのは、冷徹な数字でした。
『98.0%』
それは、単なる負債の残高ではなく、この星という資産が完全に廃棄処分されるまでの、残りの猶予。
邪神は個別の管理を放棄し、星ごと回収して解体する「強制執行」へと舵を切ったのです。
「……じゃあ、あたしたちがやったことは、全部無駄だったっていうの……!?」
エリアの悲痛な叫び。しかし、ガルトが持参した観測機は、さらなる絶望の先にある「最短ルート」を指し示していました。
「ここから先は、俺の人生で一番重くて、一番距離のある『最後のロング予約』だ」
どんなに負債を抱えても、客を途中で放り出すような真似はしない。
カイトが握り直したのは、星の運命を書き換えるための最後のハンドルです。
邪神が支配する「本店」へと乗り込み、理不尽な清算をひっくり返す。王都から遥か北、始まりの聖域へ。
星の終着駅を書き換える、世界一ガラが悪く、世界で最も大切な「ロング予約」が始まります。
第3章、いよいよ物語は、彼らの冒険の核心へと突き進みます。
ここまでお付き合いいただいた皆様、本当にありがとうございます。
カイトたちが描く「最高の青空」の結末を、ぜひ最後まで見届けていただけると幸いです!
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次回の運行も、どうぞよろしくお願いします!




