第16話:彼女が俺を甘やかしていた理由。
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湊が目にした、二人の本当の『関係性』とは……?
放課後のチャイムが鳴り、クラスメイトたちが帰り支度を始める中。
俺はカバンを手に取ると、隣の席でマフラーを巻いていた結愛に声をかけた。
「ごめん、結愛。ちょっと職員室に寄らなきゃいけなくて。記憶喪失の件で、先生に出す書類があるんだ」
「そっか。じゃあ、私は先に行って正面玄関で待ってるね」
「うん、すぐ行くよ」
ひらひらと手を振って教室を出ていく結愛を見送り、俺も職員室へと向かった。
用事は5分ほどで終わり、待たせている彼女のもとへ急ごうと、人気の少ない渡り廊下をショートカットして歩いていた時のことだ。
「……だから、俺と付き合ってよ」
ふと、角の先から男子生徒の声が聞こえてきた。
誰かが告白でもしているのか。
邪魔をしては悪いと思い、俺が足を止め、静かに引き返そうとしたその時だった。
「ごめんなさい。私には、心に決めている人がいるので」
聞こえてきたのは、他でもない、結愛の冷ややかな声だった。
俺は心臓が跳ね上がり、思わず壁の陰に身を潜めた。
「心に決めてる人って、結城のことだろ? でもあいつ、記憶ないじゃん」
男子生徒のデリカシーのない言葉に、俺は思わず拳を強く握りしめる。
「お前のことだって忘れてるんだろ? だったら、彼氏がいないのと同じじゃん。今のお前らはただの同級生なんだから、俺にもチャンスあるだろ!」
強引に迫る男子生徒。
俺が飛び出していこうと、壁から片足を踏み出した瞬間だった。
「……ふざけないでください」
今まで聞いたこともないような、結愛の低く、冷たい声が響いた。
踏み出しかけた俺の足が、ピタリと止まる。
「最近、あなたみたいに面白半分で声をかけてくる人が何人もいましたけど……」
結愛はハッキリとした、それでいてどこか熱を帯びた声で、真っ直ぐに言い放った。
「私が好きなのは、湊くんだけです。私は湊くんが世界で一番大好きなので、他の方とお付き合いする気は絶対にありません」
——えっ。
「忘れていても関係ありません。私の恋人は、彼だけですから」
その言葉が、俺の脳天をハンマーで殴りつけたような衝撃を与えた。
男子生徒が舌打ちをして去っていく足音も、今の俺の耳には全く届かなかった。
(俺たち……付き合っていたのか……?)
ただの、仲のいい幼馴染か同級生だと思っていた。
だから俺は、毎日彼女がご飯を作りに来てくれることを『優しすぎる』と不思議に思っていたのだ。
ドクン、ドクンと、心臓が痛いほどの音を立てて鳴っている。
俺は、自分の状況の残酷さに、ゆっくりと血の気が引いていくのを感じた。
男子生徒が去ったのを確認し、俺は何食わぬ顔で正面玄関に向かい、結愛と合流した。
「ごめん、待たせた」
「ううん、全然! 行こっか」
いつものように太陽みたいな笑顔を向けてくれる結愛と一緒に、夕暮れの帰り道を歩く。
楽しそうに今日あった出来事を話す彼女の横顔を見ながら、俺の心は激しく揺れ動いていた。
(俺は、付き合っていた彼女の顔を忘れて……『あなたは誰ですか』なんて言ったのか)
もし自分が逆の立場だったらと想像するだけで、気が狂いそうになる。
大好きな恋人に完全に忘れられ、他人を見るような目を向けられる。
心が折れて、泣き崩れて、二度と顔を見たくなくなって当たり前だ。
それなのに、彼女は俺のためにずっと笑顔を作って、毎日俺の家に通って、美味しいご飯を作ってくれている。
俺が不安にならないように、一生懸命普通の日常を演じてくれていたんだ。
(……俺は、なんて残酷なことをしてるんだ)
結愛は今、高校2年生の冬という、一番楽しくて、一番キラキラしているはずの青春のど真ん中にいる。
そんなどうしようもなく貴重な時間を、記憶がいつ戻るかも分からない、壊れてしまった俺なんかのために使わせてしまっていいのか。
彼女の果てしない優しさと愛情が、今はただ、痛くて、苦しかった。
夜。
自室のベッドに腰掛け、俺は手の中にあるスマートフォンをじっと見つめていた。
自分のスマートフォン。
病院で目を覚ましてから、俺は最低限の連絡機能やネット検索以外で、この端末を開くことを避けていた。
自分の過去の人間関係や、失ってしまったものの大きさを知るのが、どうしようもなく恐ろしかったからだ。
けれど、付き合っていたという事実を知った以上、俺はどういう状況だったのかを、ちゃんと知らなければならない。
震える指でパスコードを入力し、ロックを解除する。
そして、恐る恐る写真フォルダのアイコンをタップした。
「……っ」
画面に表示されたサムネイルの群れを見て、息が詰まった。
そこには、俺と結愛の二人の写真が、数え切れないほど並んでいた。
春の桜の下でピースをする二人。
夏の海で水をかけ合って笑う二人。
浴衣姿でりんご飴をかじる結愛と、それを見つめる俺。
どの写真の結愛も、俺の隣で、この世の全てを手に入れたような、幸せそのものの笑顔を浮かべていた。
LINEのトーク履歴も開く。
他愛のない会話。
スタンプの応酬。
そして、毎日のように送り合っている『おはよう』と『おやすみ』、そして——『大好き』の文字。
(こんなに……こんなに仲が良かったのに。こんなに愛し合ってたのに)
俺は、これを全部忘れてしまったというのか。
画面の中の幸せそうな自分たちを見ていると、胸の奥がギリギリと締め付けられ、視界が滲んだ。
ポツリと、スマホの画面に冷たい水滴が落ちる。
自分が泣いていることに、その時初めて気がついた。
彼女の愛が深いほど、記憶のない今の俺は、彼女を縛り付け、傷つけるだけの鎖でしかない。
「……結愛、ごめん……っ」
誰もいない部屋に、懺悔のような声が響く。
俺なんかのために、彼女の貴重な時間を使わせるわけにはいかない。
いつ戻るかも分からない記憶を待ち続けさせて、彼女の人生をすり減らさせる権利なんて、俺にはないんだ。
強く唇を噛み締めながら、俺は一つの悲壮な決意を固めていた。
第16話をお読みいただき、ありがとうございました。
次回、湊の優しさが少し空回りしてしまいます。
引き続きよろしくお願いいたします!




