帰国
侍女は父の方を向いた。
「侯爵様、どういたしましょう」
呆然と見守る周囲の者たちが、我に返ったようだ。
まず父が叫んだ。
「医者を呼んでくれ。レーヌとミシェルをベッドに寝かせて」
それから、突っ立ってうろたえている侍女の一人に言いつけた。
「床の猫を何かに入れて、デビッドと一緒に運んで行ってくれ」
レーヌは父が手を貸し、ミシェルのベッドに寝かせた。顔や髪の毛を掻きむしられている。
もう一人の侍女が、顔をハンカチで拭おうとしたが、痛がって触らせようとしない。
シャロンは声をかけた。
「ばい菌が入るかもしれないから、消毒したほうがいいわ。私がやるから薬を持ってきて」
侍女が、「はい」と答え、動こうとすると、レーヌがそのスカートを掴んだ。
「怖いわ。ここにいて」
「大丈夫ですよ。すぐにお医者様が来ます。それまでに、できるだけ傷の手当てをしましょう」
そう言い、手を剝して走り去った。
レーヌは、血だらけの顔を動かし、室内を見回した。その目がシャロンに止まると、「ひっ」と声を上げた。
それから父にすがるような目を向ける。
「侯爵様。お助けください」
父は妙に表情の失せた顔付きで、シャロンたちの方を向いた。見たことのない奇妙な顔だ。
「とんでもないことになってしまいました。お二人は部屋に戻っていただけるだろうか。しばらくバタバタしますから」
モリスはシャロンの腕を示した。
「シャロン嬢も怪我をしている。すぐに医者を寄越してほしい。腕に傷跡が残ってしまう」
「承知しました。すぐに向かわせます。シャロン、部屋で待っていなさい」
モリスは不服そうな表情だったが、血だらけのレーヌを見ると口をつぐんだ。
部屋に戻ると、シャロン付きの侍女たちが、水を張った洗面器やタオルを運び込み、急いで腕の手当てにかかる。
傷口からは赤い血が盛り上がり、腕を伝わって床に滴っていた。
「早く消毒をしないと」
モリスも侍女たちと一緒になって慌てている。
「お嬢様、この部屋の化粧棚に確か消毒液があったはずです。先にそれで傷口を消毒いたしましょう」
元シャロン付きだった侍女が化粧室に走った。
彼女が手にして戻った瓶を見て、シャロンは思い出した。
それは神経に作用する毒だ。確か何かの蜘蛛から採取されたもの。
二度使ったのだった。
母には傷口に塗ってみた。
体と共に心臓も動かなくなったようで、そのまま死んだ。心臓麻痺と診断されたらしい。
当時、社交界の花と言われた伯爵令嬢には、飲み物に垂らしてみた。彼女は体だけが動かなくなった。
その時に介抱したという男性と、急に結婚が決まった。
それだけだった。
この毒は面白みに欠けるので、そのまま忘れていたのだ。
「私は軽い怪我だからいいわ。乳母とミシェルに持っていってあげて」
シャロンが微笑むと、周囲の者たちは感動したようだ。
お嬢様は心までが美しすぎると口々に言い、涙を滲ませる。
シャロンはその様が面白くて、小さく声を出して笑った。
モリスがシャロンの肩を抱き寄せる。
「君の笑い声は、天上の鈴のようだね」
シャロンの笑顔が深まった。
そんなシャロンをモリスはうっとりと見つめる。
その後医者がやってきて、腕の治療をしてくれた。
包帯を巻きながら、バイセン伯爵家の侍女たちに今後の手当てについて指示している。
傷は思っていたより軽いらしい。三カ月もしたら跡は消えると言う。
「傷が浅くてよかったです」
「ミシェルと乳母の様子はどうですか」
「私はちらっと見ただけですが、ミシェル様たちはもっとひどい傷のようです。治療には時間がかかるでしょう」
シャロンの消毒薬を持っていった侍女が、戻ってきた。
「ミシェル様は泣いているし、レーヌ様は気を失うし、あちらは大変な状態でした」
「怪我の具合は?」
「水でレーヌ様の顔を洗ったようでしたが、額が傷だらけでした。お気の毒です」
「額だけで済んだのね」
「ミシェル様を身体で庇っていましたから、御自身のことを構う余裕はなかったのでしょうね」
シャロンは眉をひそめた。
「薬は渡せた?」
「はい。侍女に渡してまいりました」
◇ ミシェルの部屋 ーテイル侯爵視点
主治医がやってくる少し前に、シャロン付きの侍女が消毒薬を持ってやって来た。
「こちら、シャロン様からことずかってまいりました。消毒液です。お使いください」
侍女として働いている密偵が、その消毒液を受けった。
「ありがたいです。どちらにあった物ですか?」
「シャロン様の化粧棚に入っていたものです。この数年ずっと置いてあったのを、私が思い出したのです。シャロン様が、自分はいいから二人に届けてあげてとおっしゃいました」
言いながら感動している様子の侍女に、密偵の女は微笑みかけた。
「ありがとうございます。助かります」
シャロンの使いの侍女を見送ると、密偵はそれをエプロンのポケットにそっと仕舞い込んだ。
侯爵はそれを目にして、更に気が重くなった。
まさか、この騒動がシャロンの企てのはずはないし、せっかく届けてくれた薬を仕舞い込むとは、と怒りを覚えた。
だが、もうそれを言う自信が無くなっていた。
心の中で、もう一人の自分が、「こんなにタイミング良く、こんなことが起こるはずがない」と囁きかけるのだ。
だが、何故ミシェルを狙う?
何のために?
医者がやってくると、治療をして二人に痛み止めの薬を飲ませてくれた。それで、やっと落ち着いた。
レーヌは額に酷い傷を負っている。
傷跡が残るだろうと医者は言う。
侯爵は二人が寝ているベッドの横に椅子を置き、どさっと座り込んだ。
その夜、レナルドがミシェルの侍女役の密偵と共に執務室を訪れた。
嫌な予感しかしない。
「シャロン様が届けさせた消毒薬には、筋肉を弛緩させる薬が入っていました。これで消毒すると、多分心臓まひのような症状で死亡するでしょう」
「まさか、そんなことがあるはずない」
「もしこれを傷に使えば、シャロン様は亡くなっていたでしょう。つまりご自身には使っていないのです」
レナルドは青くなっている侯爵から視線を逸らした。
「見せていただいたリストからして、薬の入手は侯爵夫人が亡くなった時期と重なります」
侯爵は驚いて顔を上げた。
体が冷たくなっていくような気がする。
デビットがすぐに駆け寄り、「大丈夫ですか」と声を掛けた。
しばらくして侯爵が声を出した。
「出て行ってくれ。これ以上は聞きたくない」
二人が執務室から出ると、侯爵を顔を両手で覆い、背中を丸めた。
◇ -シャロン視点
次の日、父がシャロンを訪ねてきた。
深刻な表情をしている。何かあったのだろうか。
「具合はどうだね」
「大丈夫です。それよりミシェルと乳母の加減はいかがですか?」
「治療して、今は落ち着いているよ」
「……そうですか」
シャロンはため息をついた。
何事もないなんて、つまらない。
「お嬢様、よかったですわ。昨夜は、ずっと心配されてましたものね」
侍女が嬉しそうに声をかけるのに、シャロンは力なく答えた。
「よかったわ。心配しすぎて疲れたみたい」
侍女たちがわっと声をあげる。
「お嬢様はこれだから。やはり本当は天使なのではないですか?」
侍女たちが嬉しそうに言うなか、シャロンは父に問いかけた。
「ナナは?」
「医者が連れて行って、病気がないか調べている」
「まあ、せっかく会えたのに」
父は憔悴した様子でシャロンを見つめている。
「どうかされました?」
父は情ない表情で笑う。
「わかるかい。お前と離れるのが辛い。明後日には帰国するのだからね」
父は背中を丸めて部屋を出ていった。急に十歳も老けて見える。
その後姿を見て侍女が呟く。
「天使のミシェルさまが伏せっていて、天使のシャロン様が帰国するのだもの。お辛いでしょうね」
次の夜に会った父は、すっかりいつもの快活な父に戻っていた。
「モリス王太子殿下、今回の訪問ではお騒がせしてしまい、申し訳ありませんでした」
モリスが、それに礼儀正しい応対をし、男二人のやりとりは予定調和で進んでいく。
そこにシャロンが口を挟んだ。
「最後にミシェルの顔を見ていきたいわ。長く会えないのだし、子供の顔はすぐに変わってしまいますから」
父が残念そうに言う。
「まだ寝込んでいるから無理だよ。今度姿絵を送ろう」
モリスがシャロンの肩に手を置いた。
「今回はあきらめよう。体に障るかもしれない」
二人に止められ、シャロンはしぶしぶ諦めた。
帰国の当日は快晴だった。青空の下、王宮前の広場で大々的なセレモニーが行われた。
王は友好条約の再提携について述べ、両国の更なる発展を、居並ぶ貴族や国民に約束した。
大歓声の中、モリスと共に、シャロンは王に帰国の挨拶を行い、次にサムエル殿下の前に進んだ。
モリスが型通りの挨拶をして握手をしている。シャロンが前に建つと、サムエル殿下はいかにも外交用という笑顔を浮かべる。
「久しぶりにお会いできてよかったです。結婚式にはぜひ出席させていただきたい。楽しみにしております」
「まあ、私も楽しみですわ」
シャロンはサムエル殿下の目を覗き込むように見上げ、微笑んだ。
「サムエル殿下、またお会いしたいですわね」
サムエル殿下の瞳が揺れた。視線を外さず、見つめていると、一歩後ろに控えていたリネット嬢が、サムエル殿下の横に並んだ。
そしてシャロンと目を合わせ微笑んだ。
「私も楽しみにしております」
やはり今までと違う。
控え目な雰囲気が消えた。
丁度、今の立ち位置と同じく、サムエル殿下と二人で一つだと主張するかのようだ。
突然リネット嬢の姿が、くっきりと浮かび上がってきた。
二人目だ。
けれどサムエル殿下と違い、不快な物のようだ。
(こういうのを敵と言うのかしら)
シャロンはにっこりとリネットに微笑みかけた。
楽しみが増えたわ。
やはりこの国は面白い。
帰国の馬車の中で、興奮が冷めやらない侍女二人が、声高に喋っている。
それをぼんやりと聞き流し、シャロンは考えていた。
楽しかった。
でも、後二年待たないと、サムエル殿下に会えないのはつまらない。
「モリス殿下。やはり実家はいいものですわね。少し里心がついてしまいました」
モリスが手を伸ばし、シャロンの手を握る。
「そうだろうね。スール国に来るときは、追われるように出てきたと聞いている。その時は、考える余裕もなかったのだろうね」
シャロンはその手を撫でながら首を傾げた。
「テイル侯爵家は女主人がおりません。家政や、ミシェルの教育が心配になってしまいました」
「そうかい? 華やかさは少ないけど、きちんと整った屋敷だと思ったよ。執事がしっかりしているのだろうね」
「私、たまにこちらで過ごすことはできないでしょうか。思いがけず、王や貴族たちが好意的でしたので」
「ああ、それは私も思っていたけどね」
シャロンは、頬に指を当てて考えてから言った。
「私が王の言葉を重く受け取りすぎたのかもしれませんわね。こちらで過ごしても、何ら問題が無さそうです」
モリスは甘い目をシャロンに向けた。
「神が君と僕を引き合わせようとされたのかもね。僕にとっては、最高に幸運なハプニングだよ」
シャロンは声を上げて笑った。
「本当に、そうかも。では時々こちらに滞在しようかしら」
モリスが少し困った表情になった。
「王太子妃教育がこれから始まるから、長期間の旅は難しいと思う。結婚したら、またゆっくりと訪問しよう」
シャロンはがっかりした。
サムエル殿下に会えないのに加えて、難しい勉強が待っているなんて。
スール国に帰国するのが嫌になってきた。
それで少し膨れてモリスに言った。
「礼儀作法と社交関連については、今さら習う必要はありませんわ」
「そうだね。政治と経済、歴史、語学辺りが中心になるだろう。軍事、防衛に関しても学んでもらわないといけない」
むっつりしていたら、モリスが機嫌を取るように、明るい調子でいった。
「とはいえ、次世代も安泰だよ。友好条約も結んだことだし、スール国とフォルビア国の友好関係は盤石だ。野心満々の隣国への牽制には十分さ」
「まあ、……」
シャロンの中で何かが首をもたげた。とても面白そうだと感じたのだ。
二国が手を組んで、より大国からの手出しを阻んでいるわけね。
そのバランスをいじったら……薬で反応を見るより面白そう。
喜びが湧き上がり、シャロンは微笑んだ。
「興味が湧いてきましたわ。周辺国を含めて、防衛力と軍事力について学ばないといけませんわね」
モリスは眩しそうにシャロンを見つめ、称賛を浴びせる。
「目がくらみそうな微笑みだね。わが国には天使が付いているのかな」
完




