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第二十章

 自分の顔が歪んでいるのが判る。

 飛び散る赤い液体に、瞳孔が弛緩する。

 ベッドの中身を確認して驚きの色を隠せない殺人鬼たちを見やると、僕たちはそっと立ち上がり、会議室から再び運び込んだモニター群と布団を敷くスペースを作るために無造作に積み上げられたスーツケースを後に、移設された第二会議室こと物置部屋を出た。

 第二会議室を設置したのは涼華の提案によるところが大きい。

「ここは危険でござる」といきなり自身の髪を手で縛って頭の上に載せた侍スタイルで言われた時こそとうとう壊れたかと思ったけど「むむむむむ」心の声が聞こえたのか涼華が不機嫌フェイスで両の頬を抓り上げてきた。

「ぐぎぎぎぎぎぎ」痛い痛い痛い痛い痛い! 両手にナイフを持っているから危なっかしくて相当な力で頬を捻り続ける涼華の手をどうにかすることが出来ない。

 と言うか、これから殺人鬼二体との対面が待っていると言うのに! と言うかと言うか本当に痛い! このままだと、いざご対面という時に頬に爪と涙の跡を残すという非常に残念なクライマックスになってしまう。

「ぬぬぬぬぬぬ」しかしそんなの涼華のあずかり知ったところでは無いらしい。涼華はそのまま微妙に力を弱めつつも、僕が抵抗できないのをいいことに廊下へとぐいぐい押しやる。

 最初こそ両手もじたばたと暴れていたが、僕の中で最終防衛線が突破されるとぶらりと重力に負けて垂れ下がった。両腕の抵抗には期待していたのに。

 片頬の痛みが遠のきドアノブが回されると、無くなった痛みの代わりに第一会議室が近づいてくる。

「あああああああ…………」

 このままでは危惧していた最悪の対峙シーンに。

 

 

 かくして第一会議室。

 わずかばかりの理性を残して狂気に呑み込まれてしまった二体の殺人鬼が予想外の現状に硬直しているところに、僕は涼華に押されるかたちで背中からの入場と相成った。

 場合が場合ならそのまっま背中をざっくり刺されても文句の言えない入場シーンだっただけに、僕の心中は極めて穏やかではなかった。

 大層間抜けな顔をしているであろう殺人鬼を尻目に、僕は未だに抓られている両頬をくるりと反転することで――ブチブチッ――無理やり引き抜かれた洗濯物の気分を顔面で味わいながら『あ』だか『う』だかうめいている殺人鬼二体とようやく向き合った。

 痛みが遠のき、全身を興奮が支配する。自然と地面に接触していた踵は浮き上がり、スカートの中で軽く膝を曲げる。次いで気持ち右足を後ろに下げる。手を小指側に引き、ナイフの先端を前腕に規則的に当てる。小さな痛みが心臓の鼓動と同じ拍で体を巡る。

 後は涼華のゴーサインを待つだけの体勢でその時をじっと待つ。極限まで昂ぶった興奮は、時間の流れが遅く感じるほどに思考を鋭くクリアにさせる。

 僕の臨戦状態に何秒か遅れて、二体の殺人鬼も体勢を整える。

 涼華が発言する。

「ムッツリ氏。不倫カップル。オーナー。従業員B」

普通に忘れられているヒッキーの存在に、僕はなんだか鼻の奥がツンと痛んだ。

「…………とヒッキー」あ、思い出した。

「「「……………………」」」涼華以外の三体の間に微妙な沈黙が流れた。

 一連の流れを最初に体験した時に思ったのは、世の少年少女の夢をすべからく打ち砕く残酷な現実。

 ヒーローものや魔法少女ものなどに絶対にある変身シーンの間、敵は何をやっているのか。と言う有史以来の謎の答え。

 眼前に繰り広げられている光景がその答えを、雄弁に語っている。

 鬼に成り果てた彼女らの十把一絡げの理性でも判断できるような、世の真理にして絶対。ヒーローが破ることはあっても、敵対するものにとっては禁忌。

 変身シーン、謎解き。どれをとってもおよそ見せ場では守らなくてはならない掟。

 二体の殺人鬼は涼華の発言をただ黙って聞いている。

 そう。変身シーンの間。敵は絶対に待たなくてはならない。

 最初にその真理に気付かされた時、僕はやるせなさに鼻を啜った。

 ……いや、そんな些細な話はどうでもいい。

 僕の後ろに控えていた涼華が、すっと足を運び僕の横に立つ。

「犯人は……」

――すぅぅ――

 たかが一人の名前を言い忘れたくらい、取るに足らない。とばかりに涼華は最後の台詞を前に鋭く息を吸った。

 探偵を自称するには余りに荒々しい。

 暴いて晒して裁く。

「お前だ!!!」

 今思ったけど。この台詞って相手が二人の時はなんとも間の抜けたものになるなぁ。本家はそのあたり、どうやって対処してるんだろう。

 ちなみに涼華は犯人が二体いるので人差し指と中指をそれぞれに向けている。

 ……なんとも微妙なポーズ。

 同じ事を思ったのか、涼華はふるふると頭を振って中指を折りたたんだ。揺れる髪の隙間から見えた耳は茹で上がっていた。

 軽く床を蹴って体を浮かせる。

 お決まりがようやく終わった所で、場を殺意が席巻する。

 放ったのは人間の成れの果て。二体の殺人鬼。

 こういった場面で慣れ親しんだ展開と言えば、なんらかの現象を機に三人の膠着状態が解かれ戦闘に移ると言うものだけれど……それでは甘い。

 彼女らの殺意が場を取り巻くころには、既に僕の足は地を蹴っていた。

 涼華は邪魔にならないように扉のすぐ近くまで後退している。

 世間からの扱いとしては、痴情の縺れで二、三人殺した彼女らより十件を優に超える無差別(行為の意図なんて、第三者からしたら無いにも等しい)殺人をしたあの頃の僕の方が余程凶悪なのだろう。

 それもそうだろう。機を窺うことこそあっても、いざ対象を目の前にして逡巡など僕は一度もしなかった。涼華が僕に立葉と名づけた由来。彼とは違って僕は一度も目撃されてなどいないけれど、だからこそ〈切り裂き魔〉として、〈殺人鬼〉として、彼以上の恐怖を殺意など微塵も感じていない人々にまで無差別に与えた。マスコミは僕のことを、そのまま、遥か昔海の向こうで起こった出来事を現実のものとして知覚して、こう呼んだ。

 ジャックザリッパー。

 眉根が寄る。

 あの名前は、響きこそ良かったものの、僕個人としては非常に不愉快なものだった。誰かに告げた訳ではないのだから仕方がないのかもしれないけれど、僕は最低限の誓いとして、善人良人に関しては殺すどころか傷一つ与えようとはしなかったし、僕の行動を勝手に無差別と決め込んで報道したマスコミに踊らされる必要は微塵もなかったのだ。

 と言っても、本家も無差別では無かったらしいけれど。

 百年以上前の出来事なんて知ったこっちゃない。

 僕は殺人鬼になりたい訳ではない。

 だから、元同属を殺すのに心が痛むことはない。

 一瞬で眼前まで迫った僕に何を見たのか、二体の殺人鬼の顔には、人間であった頃の恐怖が張り付いていた。

 『ぐ』だか『ぎぃ』だか間抜けな唸り声を発している間に僕の右手は元OLの顔面へと伸びる。

「がアァ!」どこから出したんだ、その声。

 衝撃を受けた鼻を中心に、元OLがたたらを踏む。倒れなかったのは及第点といったところかな。

 それにしても、もうちょっと可愛げのある声は出なかったんだろうか。『きゃあぁ』とか言われても別段何も思わないけど。

 ナイフの柄を握りこんでの右ストレートだったから、それどころではなかったのかもしれない。鼻血が床にぼたぼた落ちてるし。

「おぉぉ~」パチパチパチ。

 扉の前で涼華が拍手をしている。……のんきだなぁ。

 牽制はこれくらいにしておいて、と。

 右手にならい、垂れ下がっていた左手をあげて構えをとる。特に武術の心得がある訳ではないけれど(というか以前はまともに構えたことなんかなかった)涼華に『絶対に顔は怪我したらいけませんっ』と言われて以来、最低限顔だけは傷つけまいと、何となくではあるけれど顔面への攻撃には対処できるような構えをとるようになった。そんなに顔が重要か、と思わなくはなくなくないけれど――これは思ってるのだろうか、思っていないのだろうか――ヒモたるもの飼い主の命令は忠実に守らなくてはならない。

 ああ、ヒモから恋人にランクアップとかしないかなぁ。昇給試験とかあればいいのに。

「あれ、ヒモって恋人のことか」「立葉ちゃん、思ったことが口から漏れてるよ?」「やばいやばいやばいやばい」「ていうか立葉ちゃん。恋人じゃ……なかったの?」「やばいやばいやばいっ!」そんなことないよ!「…………後で話しがあります」「ぐぅ」「がぁ」「ぎぃぃ」

 涼華の剣幕に新旧含めて三体の殺人鬼が一斉に後ずさった。

 恐るべし涼華。

 そして本当に後が怖い!

 そしてそして、焦って心の声と発言を間違えた自分が一番恨めしい。

 完全に場を涼華が支配してしまったので、仕切り直しという訳ではないけれど、僕に発言権が与えられた。誰にって、それは後ろで怖い顔をしているあの方ですよ。涼華さん。

「二人とも、殺し過ぎたね、うん。痴情の縺れだかなんだか知らないけど、どんどんペンションの住人を減らしてくれちゃって。っとに

 死ねばいいの……にッ――」

 言いながら徐々に湧き上がっていた苛々は、あっという間に僕を沸騰させた。今なら臍どころか頭の角で豆腐を沸騰…………元はどんな言葉だったっけ。

 精々、僕が英雄になるのを手伝ってくれれば、いいか。

 勧善懲悪見敵必殺。

 恨み言を言ってしまえばきりのない、OLちゃんから遊んでもらおうとしよう。

 どうやら、従業員Aに涼華を傷つける意思はないようだし、ちょっとくらいなら放っておいても大丈夫だろう。

 殺したい解したい。ぐちゃぐちゃにしたいバラバラにしたいどろどろにしたい。

 すぐ後ろにいるというのに、OLさんが僕の居場所を見つけた様子はない。監視カメラでさえ影しか残らなかったみたいだから、仕方ないけど。殺人鬼にしてはあまりにもお粗末だ。成り損ないの出来損ない。鬼になりきれず人を捨てられず。それでも、

「ちょっとくらいは、遊び相手になってよ?」

 逆手に持ったナイフでOLさんの首筋をすっと撫でる。やたらに切れ味の良い業物だから、薄皮くらいは裂いただろう。顔の前に持ってきたナイフには、OLさんの血が付着している。出来損ないの血はどんな味がするんだろう。

「ああぁぁぁっ!」

 Olさんは血が流れてからやっと切られたことに気付いたらしい。悲鳴交じりの喚き声で右手に持ち替えた包丁を振り回した。軽く上体を反らせて簡単に避けられる程度のスピードだった。それこそ、僕がナイフに付いた彼女の血を舐める時間が十分にあるほど、緩慢な動作の攻撃だった。

「ぺっ。なにこれ、まっずぅ」「立葉ちゃんが……他の女の人の血をのんでる」

 まっずぅ!

 涼華にはばっちり見られてしまったらしい。涼華からすると、他の女性の血を飲むのは浮気に分類されるのだろうか。なんというか、どこまでも守備範囲の広いご主人様だった。

「怒られちゃった……」

 これ以上遊んでいたら、それこそ僕の命がいろんな意味で危ないかもしれない。

「立葉ちゃん」

 涼華から話しかけられると同時に、何を考えたのかOLさんは何も武器を持っていない左手を思い切り、会話に集中していては避けることが難しい程度の速度で僕に向かって叩きつけた。バックブロウとしては及第点だろう。

 だけど、涼華が話しかけているのを邪魔することは許さない。

 同じく左手に持ったナイフを、OLさんの拳が向かってくる位置にあわせる。

「いいぃぃぃぃぃぃ!!!」

「なに、涼華。弁明をさせてもらうと、涼華の血の方が美味しかったよ」

 手の甲にナイフが刺さったままのOLさんを放って、僕は涼華の会話に耳を傾けた。

 涼華の表情は随分と誇らしげなもので、なんとか機嫌は治ったようでほっとした。

「そう。なら、後三分で我慢してあげる。あのねっ、次は箱根辺りの温泉に行こうとおもうんだけど……立葉ちゃんはどうかな?」

 温泉かあ。

 左手のナイフを捻って引き抜いた。

「賛成っ! そろそろ寒いところも飽きたことだしね。それに、僕、冷え性だし」「立葉ちゃんベッドの中でいつも手足寒そうにしてるもんねぇ」「涼華はいつも体あったかいからいいよねぇ」「うむ。くるしゅうない」「ははぁ。ところで、あと何分?」「二分四十秒」「あいさー」

 Olさんの絶叫をBGMに交わされていた会話にしては随分とのほほんとしたものになってしまった。僕たちだから、仕方ないと言ってしまえば仕方ないのだけれど。

 放っておいた従業員Aはというと、さすがに狂気より恐怖が勝ったのか、僕たちのやり取りを怯えた目で見つめている。なんだろ、まるで、殺人鬼じゃないみたいだ。

 まるで、殺人鬼じゃないみたい?

 んんんんん。

「あ! なるほ「がぁぁぁっ!」チッ」

 何秒か目を離していたうちに、OLさんは痛みを乗り越えたようで、果敢にも左手に持った包丁で僕に刺突をしてきた。

 速度こそ段々とそれなりにはなってきているのだけれど、いかんせん狂気のままに行動しているので、動作に無駄が多い。その証拠に不意打ちなら髪くらいはもっていかれてもおかしくなかった今の刺突も右手に持ったナイフで防御することが出来た。

 これからの伸びしろを考えると、殺しておくのはもったいないんだけれど、僕らに憎悪を抱いている以上、生かしてはおけない。そろそろ時間も少なくなってきたし。

 柄で止めていたOLさんの包丁を、刃の部分でスライドさせて、指を裂く。

 彼女は、悲鳴を上げなかった。

 もう、人間には、戻れないのだろう。

 千切れこそしなかったものの、右手の指の傷は浅くはない。それを理解しているのか、指を切りつけられても離さなかった獲物を、両手でしっかりと握り締めた。

 僕は、従業員Aへ視線をやった。

 彼女は、ここを狙ってくれ、と言わんばかりに包丁をだらりと下げ、胴体のガードを手薄にしている。

「アアアアああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 正面では、元OLが両手で握った包丁体に寄せて突撃してくる。

「猪じゃないんだから」

 距離にして二メートルと少し。彼女が僕にたどり着くまで、優に二秒はかかるだろう。

「後一分」

 時間も、もうない。

 両手に持ったナイフのグリップを軽く握り締める。

「これで、終わりに、しますかッ――!」

 左手に持ったナイフを投擲すると、床を強く蹴った。

 最初の一瞬で、ナイフが体の横を過ぎていく。

 次の一瞬で右手に持ったナイフを、元OLの首へ這わせる。

 後は、スピードに任せて引くだけ。

 ぷしゅうぅぅぅぅうぅぅ。

 止まる勢いに任せて、ダンスのようにくるくると回る。

 大きく広がった、真っ黒なスカートに、床に、踊るように血が点々と付着する。

 ロンド。輪舞の名が付いた涼華お気に入りにの殺し方。

 ――ダンサー。

 日本に現れた二人目のジャックザリッパーは、その華々しい殺し方から、一部の人間からそう呼ばれていた。

 この呼び名だけは、マスコミに感謝してもいい。

 結構、お気に入りなんだ。

 最初に投擲したナイフ。深々と従業員Aの腹部に刺さったそれは、重ね塗りのように床に血のアートを描いた。

 最初に飛び散った元OLの血は、あまりの勢いに涼華の頬に数滴撥ねてしまった。

 涼華は頬から口に流れてきたそれを、そっと下で舐める。

「うー。立葉ちゃんの言う通りだ……おいしくないや、これ」

「でしょう?」

 床に描いた絵を汚してしまわないように、血を飛び越えて、僕は涼華の隣に降り立った。

「じゃあ、いこっか」

 右の手のひらを、涼華に差し出す。

「うんっ」

 涼華は、僕の手の上にそっと左手を置いた。

 ぎぃぃぃぃ、と重々しい音を立てて、扉、幕が下ろされる。

「「解決解決っと」」

 十人いて、八人死んで、

 そして、

 誰もいなくなった。

次でラストです。

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