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8.3 シドの白昼夢


 残った六人が、アンジーへ向いた。


 狭い道でよかった、と後でヴァルターは言った。幅が人ひとり分なら、六人がかりでも同時に殴れるのは二人だ。


 だが、二人でも十分に重かった。


 最初の一撃は、棒だった。盾の縁の上を狙って、アンジーの兜の側面へ。金属が鳴り、視界が一瞬だけ白く飛んだ。二撃目は下からで、盾と床の隙間へ棒の先を差し込み、こじ開けようとした。


「痛い!」アンジーは怒った。「痛くないけど、うるさい!」


 盾を押し戻す。棒が跳ねて、相手の腕ごと壁へぶつかった。骨の折れる音がした気がしたが、アンジーは追わなかった。追うな、と言われている。一歩も追うな、と。


「あたし、追わないからね!」誰にでもなく宣言した。


 三人目が、盾の脇を抜けようとした。壁と盾の間の、拳が入るほどの隙間。手の早い、小柄な男だった。ロットンの両腕を壁へ押さえたのはこいつかもしれない、とアンジーは思わなかった。そういうことは考えない。ただ、隙間へ体を入れようとした肩を、空いた左の拳で殴った。


 拳の当たった肩が、通路の反対側の壁までぶつかった。男は起きたが、その腕はもう上がらなかった。


「一人!」


「数えるな」アレイの声が後ろから飛んだ。


「数えるよ、だって二百三十四まで数えたもん!」


 ──二百三十四。


 アレイは暗がりで自分の掌を見た。何も来ていない。喉の奥の苦さだけがある。三分は百八十だ。アンジーの数え方が速いのだろう、と思うことにした。そう思わないと、勘定が合わない。


(遅い)


 そう思った瞬間、指先が痺れた。悪い方の痺れではない。




 ヴァルターは、盾の向こう側で働いていた。


 六人を一列に並べておくのが、彼の仕事だった。並んでいれば、殴れるのは先頭だけになる。だから、二番目以降が前へ回り込もうとするたびに、足元へ物を投げた。


 最初に投げたのは、鉄の撒き菱を三つ。安物で、革底なら貫く。頭巾の一人が踏んで、体重をかけたまま呻いた。


 次に投げたのは、油の瓶だった。火はつけない。狭い道で火を使えば、逃げる先を全部塞いでしまう。ただ、床が滑れば、前へ出るのに一手余る。


「四層側は縄だ、五層側は壁だ」ヴァルターは暗がりから声を投げた。姿は見せない。声だけを、壁で反響させる。「上へ抜ける道はねえぞ。三日前から測ってある」


「──誰だ」


「答えると思うか」


 七人のうち、指図をしていた一人が、崩れた柱の隙間へ体を向けた。あそこは人ひとりが匍って抜ければ、四層下段の別の枝へ出る。ヴァルターはその隙間の存在を知っていて、だから昼のうちに、木の楔を三本打ち込んでおいた。


 男が隙間へ肩を入れ、詰まって、抜けなくなった。


「五層の細道は、五本ある」ヴァルターは言った。「お前らはそのうち一本しか使ってねえ。俺は全部歩いた」


 それは、シーカーとして言える中で一番自慢に近い言葉だった。言った本人が、少し照れた。




 アンジーは、盾の後ろで泣きそうになっていた。痛いからではない。


「あたしのうしろ、行かせないから!」


 棒が兜へ落ちる。肘が盾の縁へ噛む。誰かが盾の下端を蹴り上げ、板金の隙間へ短刀の先を差し込んで、脇腹の布を裂いた。血は出た。出た瞬間に止まった。裂けた皮膚が、見ている間に閉じていく。


 短刀を差した男が、その傷を見た。手が止まった。


「……なんだ、こいつ」


「アンデッドアンジー!」本人が名乗った。嬉しそうだった。「知らないの?」


 男は答えず、盾を押した。四人がかりで押した。板金の靴底が石の床を擦り、アンジーの体が半歩、後ろへ滑った。


 半歩だ。半歩でも、後ろは囮の三人がいる。


「ヴァル!」


「押し返さなくていい!」暗がりから返ってきた。「そこで止まってろ! あと十数える!」


「十!」アンジーは復唱した。「じゅう、きゅう、はち──」


 数える必要はなかった。


 六まで来たところで、彼女の後ろで、誰かが立ち上がる音がした。


 板金ではない。だらしなく着崩した長袖が、擦れる音だ。


 アンジーは振り向かなかった。振り向かなくても分かった。空気の温度が変わる。八層でも、五層でも、この男が薬を入れて立ち上がる時は、いつもそうだった。


「アンジー」


 声が違う。歯の奥で噛み潰したような、低い声だった。


「盾どけろ。半歩だけだ」


「まだ二人しか殴ってない」


「……じゃあ、どけてから好きにしろ」


 アンジーは笑って、盾を斜めに引いた。


 通路の口に、人ひとり分の隙間ができた。


 その隙間へ、なまくらの剣を提げた男が足を踏み入れた。


 さっきまで丸まっていた背が伸びていた。落ちていた肩が開き、沈んでいた顎が上がる。


 床にこぼれた星涎脂の乳色の光が、下からその顔を照らした。


 歯を剥いて食いしばった口。定まらないまま大きく開いた目。首から肩へ走る筋は、何本もの縄を張り詰めさせたように浮いている。


 頭巾の六人が、初めて後ろへ下がった。


 三人のうち一番手前の男が、棒を短く持ち直した。手慣れている。突きに来る。狭い道で棒を振り回さないだけの分別がある男だった。


 アレイは剣を裏返した。刃を上へ向け、峰を下にする。


(こいつは何も切れねえ)


 強く、そう思った。安物のなまくらだ。鉄くず同然だ。紙一枚も切れない。だから斬れない。斬れないものは、殺さない。


 代わりに、この鉄くずは鉄くずの重さで人を叩く。


 棒が突き出された。アレイは避けなかった。左の肘で棒の中ほどを内側へ払い、そのまま峰を男の手首へ落とした。骨の鳴る音は聞こえなかった。木の折れる音のほうが大きかったからだ。棒は二つになって床へ落ち、男は自分の手首を抱えて壁へ背をつけ、そこから座り込んだ。


「一人」アンジーが盾の後ろで数えた。


「数えるなっつってんだろ」


 二人目は逃げようとした。逃げる先がないことを、この男は分かっていた。それでも体は後ろへ向いた。アレイは踏み込んだ。三歩ぶんを一歩で詰めて、男の襟を掴み、通路の壁へ叩きつけた。板金を着ていない体が、壁の砂を落とした。二度目は加えなかった。膝から落ちて、それきり動かなかった。呼吸はしている。アレイは一瞬だけ、その呼吸を確かめるように顔を近づけた。


 三人目が短刀を投げた。アレイの肩を掠めて、後ろの壁で跳ねた。


「……そういうのはよせ」


 アレイは剣を持ち替え、柄頭で男の顎の下を突き上げた。首が反り、膝が抜け、男は自分の吐いたものと一緒に床へ倒れた。


 三人が三人とも、まだ息をしていた。それだけを確かめて、アレイは崩れた柱の隙間へ向かった。


 楔で詰まった男の脚が、隙間から突き出ている。アレイはその足首を掴み、麻袋のように引き抜いた。肩が擦れて頭巾が捲れ、素顔が半分出た。三十過ぎの、どこにでもいる男の顔だった。


「あんたが指図役か」


 男は答えず、腰の後ろへ手を回した。


 アレイはその手首を踏みつけた。


「まだ隠してんだろ。ゆっくり出せ」


 アレイが足をわずかに緩めると、男は腰帯の内側から細身の錐を抜いた。武器として研がれたものだった。

 アレイはそれを奪い、床へ置くと、剣の峰を叩きつけて折り曲げた。




 ヴァルターが暗がりから出てきたのは、それから十数える間もあとだった。撒き菱を拾い集めながら、床に転がった七人ぶんの位置を確かめる。指図役の上着を改めると、内ポケットから四つ折りの紙が出た。人数、荷、時刻、道。酒場でトラヴィスに聞かせた内容が、そのまま四行で並んでいた。


「三人立ってた、二人腕が上がらねえ、一人が隙間、一人が縄。七だ」


「合ってる」奥からジョンジーの声が返った。「こっちは括った。斬ってねえぞ」


「殺してねえよな」


「言われた通りにしたよ」ロットンの声は少し掠れていた。「一番手の早い小柄なのはどれだ」


「肩が壊れてるやつだ」アンジーが答えた。「あたしが殴った」


 ロットンは何も言わなかった。しばらくして、「そうか」とだけ言った。


「レミー、ディクスン、マーキー。見たな」


「見た」三人が順番に言った。「布を捲った。革袋を掴んだ。棒を首に当てた」


「よし」ヴァルターは三人の顔を順に見た。「言葉は変えるな。ギルドの前でも同じ順番で同じことを言え」


 星涎脂の瓶は三つとも割れていなかった。ディクスンが床の窪みから拾い上げ、袋へ戻した。マーキーは砕けたランタンの残骸を蹴って端へ寄せ、代わりの蝋燭に火を移した。狭い道が、久しぶりに橙色になった。


 七人の手首は、前ではなく後ろで括られた。二人ずつ長縄でつなぎ、脚は縛らない。歩かせて上げるからだ。頭巾は取らせた。取らせたところで、誰の顔も知らなかった。


「顔を覚えとけ」ヴァルターは言った。「掲示板に名前が出たとき、名前と顔を合わせられるのは俺たちだけだ」




 アレイが崩れたのは、四層下段へ抜けてすぐの広間だった。


 前触れはなかった。歩いていて、次の一歩で膝から下がなくなったように沈み、壁に肩をぶつけて座り込んだ。剣が手から落ちた。拾おうとした指が、床を二度掻いた。


「来たか」ヴァルターは捕虜の縄を封鎖役へ渡してから、アレイの脇へ膝をついた。「使うか。もう一回分あるだろ」


 アレイは首を横に振った。振ったつもりだった。実際には頭が壁を擦っただけだった。


「……いらねえ」


 喉が渇いて、声が砂の音になっていた。全身の筋が抜けて、内側から冷たい水を注がれているようだった。指の先が痺れ、腹の底に穴があいている。この穴を埋める方法を体が知っていて、頭がそれを繰り返し提案してくる。


 消えたあと、また同じ穴があく。


「担ぐ?」アンジーが覗き込んだ。


「お前が担ぐと、こいつの背骨が折れる」


「折れないよ、優しく持つもん」


 結局、空になった囮の荷袋へ石を抜いてアレイを座らせ、アンジーが片手で荷紐を引いた。板金の女が、片手で男を一人吊って歩く。捕虜の一人が振り返って、それを見て、また前を向いた。


 道はヴァルターが選んだ。魔物と会わない道と、捕虜が走り出せない狭い道を、両方満たす順番で繋いだ。丸一日と半分、灯りの油を二度替えて、八人と七人は地上へ出た。




 地上の段取りは、七人が現れるより先に動いていた。


 襲撃予定の時刻の翌朝、ギルドの奥の卓では、グレンとディーディーがトラヴィスを札遊びの席に座らせていた。前の晩から続けていた。負けが込んで、トラヴィスは何度も「そろそろ帰る」と言い、そのたびにグレンが「一回だけ取り返させてやる」と言って卓へ戻した。借金のある男を卓に縛るのに、脅す必要はない。


 六時の鐘のあと、クックが職員二人と用心棒を連れて酒場へ入ってきた。肋に布を巻いているせいで、背筋だけが妙に伸びている。


「トラヴィス。ちょっと腰のもん見せろ」


「……何だよ」


 ディーディーが先に手を伸ばした。ベルトから外された方位磁針は、蓋のちょうつがいが緩んで、持ち上げただけで半分開いた。ディーディーは開いた盤面を覗き、指で北を確かめてから、蓋を閉めて親指で二回押さえた。


「これ、あんたのか」


「拾ったんだよ」


「どこで」


「……忘れた」


 クックは職員へ紙を渡した。シドたちから奪われた品の一覧である。傷や焼き印まで、持ち主たちの証言どおりに書き込んであった。


 同じ頃、ニッキーは北東の口の近くで、新しい錠のついた蔵の前に立っていた。錠は開けていない。開けたら盗みになる。ギルドの職員が来てから、立会のもとで錠が切られた。


 中には、鍔の欠けた剣と、焼き印のある斧と、弓と矢筒があった。それだけではなかった。奥の棚には、見覚えのない紋の入った手甲や、三月前に行方の分からなくなった連中のものらしい水筒が、種類ごとに分けて積まれていた。分けて積んである、というのが一番悪かった。慣れていて、続けていて、今後も続ける気だった者の並べ方だった。


 ニッキーは棚の前で少し黙ってから、職員へ「数えるのに人がもう二人要る」と言った。




 そのあと一日で、話は片づいた。


 七人と一人は、パンテラ収容所へ入った。七人は襲撃の現場で武器を手にしたまま拘束され、囮の三人が、布を捲り、革袋を掴み、棒を首に当てたところまでを同じ順番で証言した。指図役の懐から押収された四行の紙には、その日の人数、荷、時刻、道が正確に書かれていた。グレンとディーディーは、トラヴィスが同じ大きさに折った紙を北東の口の階段へ差し込むところを見ていた。蔵の中身は過去の被害届と繋がり、トラヴィスの腰からはシドの方位磁針も出た。トラヴィスは筆跡について言い争ったが、紙を置いたところを二人に見られていたことまでは覆せなかった。


 ギルド長のオジーは、詰所の廊下でヴァルターとすれ違ったとき、色付きレンズを少し下げて笑った。


「看板は壊れてねえな」


「壊してませんよ」


「上手いことやったな。──今度は俺も混ぜろよ」


 翌朝、掲示板に紙が張り出された。七人の名前と、迷宮内での待ち伏せ、暴行、略奪の罪状。その下にもう一枚、トラヴィスの名前と、情報提供および盗品の換金と保管の罪状。二枚を読んでいく者の中には、自分の失せ物の名前を見つけて声を上げる冒険者もいた。


 ヴァルターは卓で勘定をした。星涎脂は売り直して三十六万戻り、持ち出しは九万。十二等分で一人七千五百ペル。アンジーは「あたし八千って聞いた」と言い、五百ペル返されて機嫌を直した。


 アレイは自分の分の負担金を払い、それとは別に、消えた一万二千ペルを頭の中で計算した。二回分持って、一回で足りた。残りの一回はポーチの中で、まだ紙にくるまれている。


「上乗せしとくか、次の仕事に」


「いらねえ」アレイは長袖の袖口を引き下げた。「ガキの磁針が二千ペルにもならねえのと、同じ話だろ」


 ヴァルターは何も言わず、卓の上の方位磁針を指で回した。傷だらけの真鍮の蓋が、酒場の灯りを一度だけ返した。




 襲撃から十六日目の朝、救護堂の光の帯が寝台の足元へ届く時刻に、ローレンは包帯を替えにきた。


 右脛の添え木を外し、継いだ骨の上の皮膚を指の腹で押す。腫れは引いている。熱もない。あとは骨が自分の時間で固まるのを待つだけだった。ローレンは新しい布を巻き、添え木を戻し、留め紐を二度結んだ。


 枕元の台に、荷物が置いてある。


 2日前、まだ暗いうちに三人が来て、置いていった。板金の女は廊下に盾を立てかけ、寝台の脇で音を立てないように膝を折った。胡散臭い装いの男は、荷を置く前に台の埃を袖で拭った。長袖の男は何も持たず、掛布の皺を手の甲で一度押して、それだけで出ていった。誰も名前を言わなかったし、ローレンも聞かなかった。聞かなくても分かっていた。


 置かれていたのは、留め具を新しい革に替えたベルトと、水筒と、火打ちと、それから傷だらけの真鍮の方位磁針だった。腰へ下げるには傷が多すぎる品で、蓋のちょうつがいが緩んでいる。ローレンは並べ方を変えなかった。腰の高さに合わせて、元の場所へ戻すように置かれていたからだ。


 光の帯が寝台の縁まで上がったとき、シドの指が掛布を掻いた。


「──っ」


「動かないで」ローレンは肩を押さえた。「右足は折れています。起きないで。名前を言えますか」


「……シド」


「ここはどこですか」


「……教会だ。天井の梁の数が、ギルドの二階と違う」


 ローレンは息を吐いた。数え方が生きている。それだけ確かめれば充分だった。


「ずっと眠っていました。後頭部を打っています。今日は座るところまでです」


 シドは天井を見たまま、しばらく口を開かなかった。それから首だけを横へ倒し、枕元の台を見た。


 磁針が、そこにあった。


 手を伸ばして、掴んだ。蓋が半分開いた。指が勝手に北を確かめ、蓋を閉めて、親指で二回押さえた。緩んだ蝶番が閉じたままになる。癖だった。買った日から、ずっとそうしてきた。


「……これ」


 声が出なくなった。




 昼前に、三人が来た。


 先に入ってきたクックは、肋に布を巻いているせいで背筋だけが不自然に伸びていた。ロットンの左目の腫れは引き、目尻に薄い痣だけが残っている。ジョンジーは口の端に細い傷跡を残したまま、入口で靴の土を落としていた。


「起きたって聞いたぞ」ロットンが寝台の脇の椅子を蹴って引き寄せた。「十六日だ。飯代が浮いたな」


「二層のスライムが寂しがってた」ジョンジーが言った。「お前の弱点を突ける相手がいなくてな」


 クックは何も言わず、壁に立てかけてあった松葉杖を一本、シドの手の届く位置へ動かした。それだけした。


 シドは磁針を握ったまま、三人の顔を順番に見た。


「これ、どうやって」


「掲示板に紙が張ってある」ジョンジーが答えた。「七人ぶんと、おまけに一人。待ち伏せと暴行と略奪だ。読みたきゃ足が治ってからにしろ。二階まで階段がある」


「誰が」


 三人は顔を見合わせた。ロットンが肩をすくめた。


「先輩方が数を数えて、順番を決めた。俺たちもその数のうちにいた」


「それだけ?」


「それだけだ」


 シドは、それ以上聞かなかった。聞いても同じ答えが返ってくることが分かる程度には、この連中と一緒に潜っていた。


 ロットンが膝を叩いた。


「で、足が治ったら次はどこまで潜る」


 何気ない声だった。昼飯の相談と同じ調子だった。だからシドは、そこで崩れた。


「……俺のせいで、ごめん」


 喉が詰まって、声が半分になった。


「近道は俺が選んだ。避けろって言われてたんだ。ちゃんと聞いてたんだ。それを、行けると思った。荷が重いから楽にしてやりたくて、それで、自分が上手いって思いたくて」


「知ってる」ロットンが言った。


「殻も全部捨てさせて、装備も、稼ぎも──」


「知ってるって言ってんだよ」


 ジョンジーが水差しから杯へ水を注ぎ、シドの手に押しつけた。クックは腕を組んだまま、天井の梁を見ていた。誰も、いいよとは言わなかった。よかったことにはしなかった。


 三人はただ、答えを急がせなかった。


 シドは水を飲んだ。飲み込む音がやけに大きかった。それから、寝台の脇に置かれた松葉杖を見た。木の握りの部分が、まだ誰の手垢もついていない色をしている。しばらく、この二本と一緒に歩くことになる。


「……まず二層から」


 磁針の蓋を、また親指で二回押さえた。


「今度は遠回りで行こう」


 ロットンが鼻で笑った。ジョンジーが「二層で遠回りするやつがいるか」と言い、クックが初めて口を開いて「いる」と言った。


 笑い声が救護堂の低い天井で潰れて、隣の寝台の労役者が寝返りを打った。ローレンは咎めず、包帯の桶を持って廊下へ出た。




 シドは、三人が帰ったあとも磁針を離さなかった。


 奪われた。折られた。眠っていた。稼ぎはゼロになり、装備は一つも残らなかったはずだった。それが、腰の高さに合わせて枕元へ並べてある。ベルトの留め具だけが新しくて、そこだけ革の色が違う。


 誰かが、この二千ペルにもならない品を、どこかから取り返して、元の場所へ戻すように置いていった。


 白昼夢だ、とシドは思った。窓の光の帯が床を移っていくのを目で追いながら、そう思うほうが筋が通ると思った。


 それでも夢の中で、次に選ぶ道だけは、もう決まっていた。

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