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10+301 慰留

「走られんな!! 止まれま、イシ!!」


 蹴飛ばされた救急箱を片付けながらシマヘビが怒鳴るが、その声もイシガメには届かない。


「クサ…」


 涙目のシマヘビに頷いてクサガメは兄の背を追った。


しかしごった返した戸口で足止めを食らった。駅の頭首に向かっていく波を乗り越えてクサガメがようやく通路に出た時には、既にイシガメの姿はなかった。


「ヤモリ!」


 クサガメは声泣く号泣する少女を呼んだ。ヤモリは泣き続ける。真っ赤な顔で力いっぱい目を瞑って、上着の裾を握りしめて涙を流し続けている。


「ヤモリ、ヤモ…、ヤモリッ!!」


 少女の肩を掴んだ。ヤモリが目を開ける。状況がわかっていないような顔でクサガメを見上げ、その顔に落胆したように再び眉尻を下げると、再び号泣体勢に入る。


「ヤモリ、イシはどっち行った?」


 ヤモリは答えない。ただただ泣き続ける。どんなに呼んでも揺さぶっても、駄々をこねるように首を横に振るばかりだ。カメの中では年下の方だったクサガメは、自分よりも幼い子どもの扱いに慣れていない。


 だから自分がヤモリだったらどうしてほしいかを考えた。


 母親とはぐれて、周りは血だらけで死傷者が出ていて、誰も自分を気遣ってくれなくて、心細くて寂しくて、


「怖かったな」


 クサガメは膝をついて言った。直前まで苛まれていた記憶の中の自分が、目の前の少女に重なった。ヤモリの目線まで屈みこんで、覗きこむようにヤモリを見上げる。


「怖いよな? 俺も怖かった」


 誰かにそばにいてほしかった。兄の手を片時も離せなかった。


「でも大丈夫だ」


 ヤモリが少しだけ目を開ける。クサガメは細い腕を包みこむようにして力強く掴む。


「大丈夫だ、ほら…」


 何が? 何が大丈夫だ? クサガメは振り返って安心材料を探す。青い顔で震えるヒメウミガメ、血まみれのヘビたち、涙を流す女たちと真剣なヤマカガシが見下ろす先には、


「ほら! シュウダだって生きてたべ?」


 ヤモリが目を見開いた。クサガメの後ろを見ようと背伸びしてひょこひょこと覗きこむ。シュウダが死んだとでも思い込んでいたのだろうか。クサガメはヤモリを抱き上げてやった。


「な? 大丈夫だったべ?」


 クサガメの呼びかけにヤモリが初めて同意した。頷きながら、ヤモリはクサガメに抱きついてくる。幼子とは言え、生まれて初めて親族以外の異性に密着されたクサガメは一瞬緊張したが、そこは年上の沽券にかけて平気なふりを装った。


「クサ!」


 ようやく出てきたシマヘビに呼ばれた。


「イシは!?」


「そうだヤモリ! イシどっち行った?」


 ヤモリは首を横に振る。シュウダの無事にも気付いていなかったのだ。走り去ったイシガメなど見ていなかっただろう。


「ヤモ、トカゲは?」


 次にシマヘビがヤモリに尋ねた。ヤモリは向かって右手を指差す。返事もしないでシマヘビは駆け出した。


 クサガメもシマヘビの後を追う。ヤモリを床に下ろして足を踏み出そうとしたが、手を離してもらえない。仕方なくヤモリの手を引いて速度も控えめに、トカゲの行方を追った。


 走りだして気付いた。目頭の奥が熱い。汗だと思って拭ってみれば指先には血がついていた。腹の痛みばかり気にしていたが、どうやら自分も相当負傷していたらしい。クサガメはくらくらする頭に渇を入れ、気を抜けば周辺から暗くなっていく視界に目を凝らして走った。


 鉄扉の音に足を止める。シマヘビは地上に出たか。ヤモリが自分の手を振りほどいて階段を駆け上り、眩暈に負けそうになりながらクサガメも何とか後を追う。息切れと吐き気と頭痛に頭を振りながら肩で扉を押し開けると、明るさに顔をしかめた。朝だ。


 原動機の音がした。這うように地上に出ると、一台の原動機付自転車が残り少ない夜に向かって走り去っていくところだった。


「トカゲッ!」


 シマヘビの悲鳴の方に顔を向けた。見るとトカゲが原動機付自転車を持ち出している。その原動機付自転車の正面に躍り出たのはイシガメだ。驚いて声さえ出せずに身を乗り出したクサガメの目の前で、イシガメは唸る原動機と力比べを始めた。後頭部が赤い。巻きかけの包帯は既に意味を成していない。


「どけ!!」


 トカゲが怒鳴る。クサガメはその声でようやく動き出す。トカゲの横に回り込んで原動機付自転車を横取りするように体を捻じ込み、操縦桿を奪い取る。原動機の電源を落とすとトカゲが片足を地面に落とした。


イシガメが大股でトカゲに近づく。おもむろに左腕を掴むと、無理矢理運転席から引き摺り降ろす。


「触るな! 放せ!」


 左腕を掴まれながら、トカゲは喚き散らしてイシガメに抵抗した。足を振りあげてイシガメの側頭部に蹴りかかる。

イシガメは左目を若干瞑ったが、すぐに真顔をトカゲに向けた。その頭に巻かれた包帯と、そこに滲んでいた赤い染みに気付いて、トカゲがようやく動きを止める。


 ヤモリがトカゲに駆け寄った。母親の胴回りに両手を回し、振りほどかれまいとでも言うようにひしとしがみ付いた。


「ヤモリ置いてどこ行くつもりだった」


 イシガメが低い声で言った。娘を見下ろしていたトカゲは息を飲む。


「トカゲ! あんた『トカゲ』やろ!? ヘビの駅の『トカゲ』やろお!!」


 シマヘビも声を裏返してトカゲを揺さぶる。何を言っているのかクサガメにはよくわからなかったが、必死なシマヘビの形相を見つめるトカゲは目を見開いていた。


 答えないトカゲを一瞥してイシガメは踵を返し、そのままトカゲの手を引いて改札に向かって歩き出した。


「い……」


 兄のあまりの見幕に、クサガメは何も言えずに見送る。兄に引きずられるように連れて行かれたトカゲと、母にしがみつくヤモリ。その後に続いたシマヘビをクサガメは呼び止めて、何があったかを聞いた。


「『あいつ』が原付盗んでネズミと一緒に逃げた。追いかけようとしとったトカゲをイシが止めたが」


 クサガメは原動機付自転車が走り去っていった方を見やる。


「トカゲ……、ヘビの駅(ここ)出てくつもりやったが?」


 シマヘビが独白とも質問ともとれる言い方をした。質問と受け止めたクサガメは反対に尋ねる。


「ここ出てどこ行くっつんだよ。行く宛なんてないべや」


 半ば叱責のような口調でまくしたてると、シマヘビは顎を引いて唇を噛んだ。

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