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188 幕間 魚 水槽の部屋 ……僕はずっと孤独だった。そして、これからも孤独だろう。

「これでよしっと」

 星はそう呟いて前にいる澄くんの背中を見た。

「どう星。ちゃんと巻けた?」後ろを振り向いて澄くんが言う。

「う、うん。一応、巻けたけどさ……。ねえ、澄くん。これって、やっぱり本当につけなくちゃだめ……、なのかな?」

 星は恥ずかしそうに自分の腰回りを触っている。

 そこには一本の太いロープが巻き付けられている。そのロープは澄くんの胴廻りに巻いてあるロープと繋がっている。それは同じロープだ。二人は太いロープによって、しっかりと一つにつながっている。

 二人の目の前には滝がある。

 二人は滝壺の側面から、滝の真横まで移動して(なんとかそこまでいくことのできる足場のようなものがあった)激しい滝の、まるでかみなりみたいな流れ落ちる音の中で、冷たい水しぶきを全身に浴びながら、そんな会話をしている。

「だめだよ。滝の中の洞窟は危険そうだし、星は無茶ばっかりするし、……それに星は目を離すと、すぐにどっかに走っていっちゃうからだめだよ。せめて、この洞窟を抜けるまでは、そのロープは絶対に外しちゃだめだよ」と少し強い口調で澄くんは言った。

 それは滝の音に負けないためであるのかもしれないけれど、日頃の自分勝手な行動ばかりをしている星に対する不満も、もしかしたらあったのかもしれない。

 珍しく澄くんに叱られて(澄くんは怒ってるわけではないけど、星はそう感じた)星はしゅんとする。

「……はい。わかりました」

 星は小さな声で、小さな子供みたいに澄くんに返事をした。

 それから二人は滝の裏側に移動する。

 滝はとても冷たくて、痛くて、びっくりするくらいに水量があったが、前を歩く澄くんが先に滝をくぐり、星の手を引っ張ってくれたおかげで、全身びしょ濡れになったし、大変な行為であったことは間違いないけど、それほど苦労することなく、星は滝の裏側の洞窟まで移動することができた。

 すると世界は驚くほどに真っ暗で、驚くほどにしんとしていた。

 暗闇の中に青猫の緑色の宝石のような瞳が二つ、小さな星のように浮かんでいた。その瞳は星をしっかりと見ていた。

 やがて、青猫は前に移動する。それから星も腰に巻いたロープに体を引っ張られるようにして、前方に移動した。

 澄くんにはお世話になっているし、頼りにもしているので、(それに澄くんが星を心配してくれている気持ちは本物だと思うし、星が澄くんに心配ばかりかけてることも本当のことなので)星は大人しくその力に従うが、これでは私の扱いが首輪のリードに繋がれた青猫と同じではないか、と星は澄くんに引っ張られながら少し不満に思った。

 私は猫ではないんだぞ! ……っと思って澄くんの見えない背中を見つめると、澄くんの肩の上にいるであろう青猫の瞳が、またじっと星の目を見つめ返してきた。

 やがて真っ暗闇の中にぼんやりと明かりが灯った。それは澄くんの持っている黒いカンテラの明かりだ。

 すぐに明かりをつけなかったのは、まずは周囲の様子を暗闇のまま、手探りで確認して、安全にカンテラの明かりをつけることができることを確かめてから、明かりをつける、という澄くんの慎重な行動のようだった。

 久しぶりに丸いオレンジ色の光の中に、澄くんと青猫の姿がきちんと見えた。

「星も明かりはライトがあるんだよね?」

 澄くんが後ろを振り返って、星に声をかける。

「ええ、あるわ」

 星は澄くんに引っ張られながら、肩にかけている真っ白なボストンバックの中からあらかじめ取り出しておいたライトのスイッチを入れて、その光を振って澄くんに大丈夫とアピールをする。

「じゃあ、どんどん先に進むよ。星は前を進む僕のあとをついてきてね。いいかい? 絶対に勝手に行動したり、僕からはぐれたりしたらだめだよ」

「子供じゃないんだから、そんなに念を押さなくてもわかってます」

 星はふてくされながら言う。

「……本当かな?」

 澄はそう独り言を呟いてから黒いカンテラを右手に持って、暗い洞窟の中を進んでいく。

 滝の裏の洞窟は狭く、腰を低くしないと先に進むことはできなかった。でも四つん這いになるほど狭くはない。

「うわ、凄い濡れてるね、ここ」

「うん。本当。じめじめしてる」

 澄くんの言葉に続いて、星がそう呟く。

 滝の裏にある洞窟だけあって、洞窟の中は湿気が強くて、全体的に水気を帯びていた。足元の岩も滑るし、明かりの中には時折、分かれ道のような場所や、下に落ちる崖のような景色も見えるし、真っ暗な夜の森の中よりも、洞窟のほうが、危険度は確かに高いかもしれない。

「星、本当にそのバック、僕が持たなくてもいいの?」

 澄くんが星に聞く。

「ええ。大丈夫よ。これ見た目ほど全然重くないし、なにより私の荷物だから、ちゃんと自分で持つわ」

 星は笑って、澄くんにそう返事をした。

(本当はバックはとても重かったけど、それを澄くんに持たせるわけにはいかない)

 澄くんが言葉を話しているのは、きっと私の存在の確認と、それから私を安心させるためだと星は思った。

 真っ暗な森の中を一人で歩いたときは心細かったけど、でも、今はあのときと違って、ちゃんと澄くんがいてくれる。それがすごく嬉しかったし心強かった。

 あとはこれで、魚もいてくれれば完璧なんだけどな……、と星は暗闇の中でずっと沈黙している魚のことを思った。

「みゃー」

 唐突に聞こえてきたその鳴き声を聞いて星はびくんとする。

 それは青猫の鳴き声だ。

 その声はまるで青猫が星に、しっかりと周りを見なくちゃだめだよ。そうじゃなきゃ、この真っ暗闇の中で、君は本当に迷子になってしまうよ、と(なんだかまるで魚みたいだ)言っているように、星には聞こえた。

 そう思って、星はちょっとだけ笑った。

 そうだね。

 あなたも一緒にいてくれるものね。

 私たちは大丈夫だよね。

 そう青猫に心の中で話しかけてから、別にあなたのことを忘れていたわけじゃないのよ、と星は再び心の中でつぶやいて、言葉を持たない青猫にそんな言い訳をした。


 第九幕 星 終演


 幕間


 魚 水槽の部屋


 ……僕はずっと孤独だった。そして、これからも孤独だろう。


「……お腹すいたな」と魚は独り言を言った。

 場所は暗い水の底にある小さな魚の部屋。その部屋の中にある椅子の上に魚は一人で座っている。

 じりりりー、じりりりー、という電話の音がした。その音を聞いて、魚は少しだけびっくりした。

 見ると部屋の中にある古い形をした黒い電話が音を立てて鳴っていた。その電話はつい最近まで、この部屋の中にはなかったものだ。(そして必要になったからこそ、こうしてその形があらわれたのだ)

 じりりりー、じりりりー。

 ……。

 魚はじっと黒い電話を見つめていた。電話はいつまでたっても鳴り止まなかった。

 魚は電話が苦手だった。

 でも、あまりにも電話のベルが鳴り止まないので、その電話に魚はついに出ることにした。椅子から立ち上がって、部屋の隅っこにある黒い電話のところまで魚は移動する。近くで見ると、その黒い電話はまるで、丸まった形でうずくまっている黒い猫みたいだった。

 そして数秒の間、気持ちを落ち着かせてから、その電話の受話器をとった。

「もしもし」魚は言う。

 受話器の向こう側で、相手が声を出す。

 その声に魚は聞き覚えがあった。その声は間違いなく、魚本人の声だった。

 魚は始め、その電話の相手が自分自身だと思った。でも、それはどうやら違うようだった。相手はただ本当に魚の声だけを、必要として、使用しているだけだということに魚は声との会話の途中で気がついた。

 声のかけてきた電話の内容は、かいつまんでいうと、『もうそろそろ時間切れだ』という内容だった。

 それはつまり、魚に残されている時間がもうあとわずかしかないことを告げる電話だった。

「わかりました。ありがとうございます」

 そう言って、魚はがちゃんと電話を切った。

 魚は椅子のところに戻って、そこに力なく座り込んだ。魚はなんだかとてもぼんやりとしてしまった。……でもぼんやりしている場合じゃないと、(なにせ時間がないという電話がかかってきた直後なのだ)数分後くらいに判断をして、魚は行動を開始した。

 魚の起こした行動。

 それは、自分のパートナーである本田星にお別れの手紙を書くことだった。

 魚は部屋の壁際にある自分の机に移動した。古風な形をした木製の、お気に入りの勉強机だ。

 机の引き出しを開けて、その中にある便箋と黒い万年筆を取り出した。

 そのとても綺麗で真っ白な便箋は、黒い本の中に挟まっていた、きらきらとした光の粒子となって消えてしまった、あの一枚の便箋だけの手紙とまったく同じ材質の紙に思えた。その便箋の一枚を使って試し書きをすると、万年筆は水色っぽいインクをしていた。

 魚は星に手紙を書いた。

 僕は、星さんと出会ったことを絶対に一生忘れません。という内容の魚は手紙に書いた。宛名のところは本田星様と書き、差出人のところには、魚、と書いた。

 このころになると、魚はだいぶ、自分の魔力と比例して、自分の過去の記憶を取り戻していた。(黒い本は、もう八割以上、埋まっていた)

 だから魚は自分自身の運命を自然と受け入れることができていた。

 魚はこれから、ずっと昔に人間から魚に変わったように、今から魚から人間に、つまり元の姿に戻らなければならない運命にあった。

 ある種類の魚が、生まれた川を遡って、産卵をするために冷たい水の中を自分の生まれた場所に向かって泳いでいくように、魚も自分自身の元に帰ろうとしていたのだ。

 手紙はすぐに書き終わったが、魚は少しして、そのせっかく書いた手紙をぐしゃぐしゃに丸めて、ゴミ箱の中に投げ捨ててしまった。……なんとなく、文面が気に入らなかったのだ。

 それから魚はなんども手紙を書き直した。

 手紙はなかなか書き終わらなかった。完成しなかった。

 ゴミ箱の中には、丸まってボールみたいになった便箋がたくさん投げ込まれることになった。

 実を言うと魚は本田星と離れ離れになりたくなかった。お別れの、さよならの手紙なんて本当は書きたくなんてなかったのだ。

 そんな隠れていた自分の本当の気持ちに、手紙を何度も書き直している間に、魚は思い至ることができた。

 いつの間にか、魚の頭の中は本田星のことでいっぱいになっていた。


 しばらくして、ようやく魚は星への手紙を書き終えた。

 結局手紙には自分の本心を書いた。できれば星と別れたくないこと、でも、どうしてもさよならをしなければいけないことなどを手紙に書いた。

 でも一番最初に書いた一文は(星のことを一生忘れないという文だ)恥ずかしいので削ってしまった。その代わり、魚は星に僕と友達になってくれてありがとう、と手紙に書いた。

 魚はその手紙をテーブルの上に置いてある黒い本の間に、手紙を隠すようにして、そっと挟み込んだ。

 星への手紙なのだから、星と海の手紙のやり取りの方法の真似をしてみたのだ。

 魚は満足した。

 すると魚のいる部屋に大きな変化が訪れた。

 部屋の周囲の壁が、上も下も、前後左右もすべての壁が、音を立てて崩れ始めたのだ。でも、そのことで魚が自分の身の心配をする必要はなかった。

 なぜなら、魚の体は、魚の心は、きらきらとした光の粒子となって、あるいは透明な無数の泡となって、空に向かって、あのとても高い場所にある水面に向かって、ゆっくりと上昇するようにして、昇って行こうとしていたからだ。 

 魚は冷静な心で、自分と周囲の状況を見て、自分に時間が残されていないことを、つまり電話で告げられた、自分の最後の時間がやってきたことを理解した。魚はにやっと、いつものようにひねくれ者の笑顔で作り笑いをした。

 それから真顔に戻ったあとで、もう一度、今度は素直は表情で、にっこりと魚は満足そうに笑った。

 自分が今からいなるなるという気持ちは、それはそれで、思っていたほど、悪くはない経験だった。

 椅子の上で魚はばたばたとその両脚を動かした。

「さようなら、星」と魚は言った。

 もちろん、この場にいない星から、さようならの返事は帰ってこなかった。でも、このとき、確かに魚の中にいる本田星は笑っていた。

 その輝くような、太陽みたいな笑顔は、まるで半人前の魚のことを星が認めてくれているような気がした。

 ……きっと星は、僕にとっての太陽だったのだ。

 自分の憧れの存在に、そんな風に思ってもらえることは、たとえそれが魚の独りよがりの錯覚であったとしても、とても嬉しいことだった。

 最後の瞬間は泣かないと決めていたのだけど、魚はこのとき泣いてしまった。一度溢れると、涙は止まらなくなった。それからずっと魚は暗い部屋の中で一人で泣き続けた。

 それはいろんな感情の色がごちゃ混ぜになった涙だった。

 やがて魚の部屋は音を立てて完全に崩壊して、魚の姿も完全に暗い水の底からなくなるときがきた。

 目をつぶっている魚の体がゆっくりと水の中に浮かび上がり、それから魚はきらきらとした光の粒子、あるいは透明な無数の泡に変わった。

 自分の意識が失われる直前に(それは眠りにつく前の状態に似ていた)魚はもう一度、最後に星に「さようなら」を言った。

 それが魚の生涯最後の言葉だった。

 孤独な、ひねくれ者の生意気な魚は、そんな言葉を最後に残して、この世界からいなくなった。

 魚がいなくなって暗い水の底の世界はとても深い静寂に包まれた。


 ……ねえ、星。星は今も、僕のことをちゃんと(忘れずに)覚えていますか? と暗闇の中で魚は思った。

 その思いは確かに、時間と空間を超えて、森の中で山田海を探して迷子になっている本田星の元にまで、きちんとたどり着くことが、……できた。


 幕間 終わり

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