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……記憶喪失。
それはもちろんとても大変なことなのだけど、澄くんはそのことをさもなんでもないようなこととして星に話をした。
森にやってくる前の自分の過去の記憶を全部ではないけれど、(たとえば澄くんは葉山澄という自分の名前をちゃんと覚えていた)ほとんど失ってしまっている、覚えていないということだった。
澄くんの家で小さな箱を見つけたときから、……もしかしたらそうなのかも、と星は思ってはいたけれど、その話を聞いて納得した。でも、やっぱりちょっとは驚いた。
それから覚えている断片的な記憶から、それらをできるだけ正確に再構築して、澄くんは自分の昔の話をしてくれた。その話を聞いて、星は今度は本当に驚いた。
なんと澄くんは、今ではそんな風には全然見えないけれど、昔はよく人に暴力を振るってしまう男の子だったのだそうだ。
澄くんは自分の思い通りにならないことや、他人にいろんな悪口のようなものを言われると、はじめはずっと我慢しているのだけど、なにかのきっかけで自分の感情が爆発してしまうと、まるでダムが崩壊でもするように怒りの感情が溢れてしまって、自分でもどうしようもなくなってしまうというような暴力性や凶暴性を持った男の子だったそうだ。
そのせいで澄くんはだんだんと周囲から孤立して、学校でいじめを受け、家の中でも家族からも距離を置かれるようになって、やがて澄くんは学校へ通うことをやめて、誰とも話をしなくなって、滅多に家の外に出なくなってしまった。
「……それは、もちろん僕が悪いんだ。当時は周囲の人を恨んでいたんだけど、今は全然、僕の周囲にいる人のことを恨んだりはしていない。でも、そういうことができるようになったのは、森にやってきてからだったんだ。
僕は、……ずっと、僕は弱い僕が嫌いだったんだと思う。だからきっと、僕は記憶を失ってしまったんだと思うんだ。自分の大切な人たちのことをみんな忘れてしまったんだと思うんだよ」と澄くんは言った。
星はずっと、その澄くんの話を真剣な表情で聞いていた。
「私、澄くんと出会ったこと、絶対に一生忘れないよ」と星は言った。
「……うん。僕も星のことは絶対に忘れない」と、少し悲しそうな声で澄くんは言った。そのやり取りをしたあとで、星はいなくなった海のことをとても強烈に思い出した。
話を終えた澄くんは、ずっと動かしていた足を止めて、正面から星の目を見つめた。星も足を止めて澄くんの大きな目を真っ直ぐに見返した。




