宝玉の護り 2 ~神に愛されし王子~
王子は急いでいた。
イザベルが王子の微笑に応えて語った内容を、彼は俄かには信じられなかった。
その話の真偽を確かめるために、アイリス園へ――はやる気持ちを抑えきえれない王子の足は見る間に早足から小走りへと加速し……
常にはない王子の行動に、何事かと駆けつけようとしている庭園警備の者たちを後目に、彼はとうとう最後には走っていた。
東翼の庭――「春」を象徴するその庭園で、アイリス園は王宮庭園でも屈指の名園である。
もっとも一年ほど前までは、その規模の大きさと品種の豊富さを誇る薔薇園の影にすっかり隠れてしまっていた。貴賓客の接待や祝賀行事などで庭園の一部が開放されるときも、薔薇園で人々の足はとまってしまい、そこからやや奥まった場所にあるアイリス園にまで足を運ぶ者はごくわずかであった。
二年前の春に、第三王子シャルルがカトリーヌ侯領にあるレムを訪れた折、滞在先の屋敷の庭に咲くアイリスをいたく気に入った。
エルガー伯爵夫妻からなかば強引にアイリスの株を譲り受けて戻ったシャルルは、王宮の庭園に移植しようとして、自身の二親でもある国王夫妻にある打診をした。
――レムのアイリスを植えて育てる庭が欲しい。
国王夫妻もレムのアイリスには、殊のほか愛着がある。
――王宮庭園に咲くアイリスの株も、庭師の手入れも何ひとつ不足はない。
それでもレムの庭園にくらべ見劣りしてしまうのを、国王はかねてから少々残念に思っていた。
サグレーとイシュワンとの戦争が終わり、かなり遅れてではあったが王子の要望にのっかるかたちで、本格的にアイリス園を含む一帯の庭園の整備と改修がはじまった。
アイリス園は大幅に拡張され、その周辺には池がつくられ、アイリス園を一望できる場所には小さな丘が築かれ瀟洒な四阿が設えられた。
植えられているアイリスの数も種類も充実し、アイリス園はただ美しいだけでなく見応えのある庭園へと生まれ変わった。
全ての改修を終え、アイリスの花々が咲き競う圧巻の景観を披露したのは、この春からのことである。
「気分はどう? フランソワ」
三兄のエリックの問いかけに、フランソワは力なくうなずいた。
身体の弱いフランソワが長旅に耐えられるよう設計された特別製の馬車には、移動中でもフランソワが横になって眠ることができる寝台が設置されている。
大きさも形も数あるクッションを並べ変えれば、寝台から座り心地のよいソファーとなる重宝なものだ。
体力に自信のないフランソワにとって、疲れればいつでもすぐに手足を伸ばして休むことができるというのは、旅の不安を軽減する上でなによりの効果がある。
兄たちの乗る馬車と大きさも外観もさほど変わらないが、その構造と乗り心地は兄たちが「まったくの別物」と感嘆するほど、フランソワの旅が少しでも快適であるよう細心の注意を払い様々に工夫をこらしたつくりとなっていた。
いつものカトリーヌにある屋敷から屋敷への移動の旅ではおおいに役立ってきたそんな馬車も、今回の旅ではその主な役割を寝台へとシフトしていた。
今も、王都へと向かう街道沿いにある開けた場所に移動してから止まったままだ。
そこは途中休憩をしようと踏み込んだ旅人たちによってしだいに出来上がった閑地で、周辺をかこむ木陰以外になにもない。
ハーネスははずされていないものの、御者も仲間から呼ばれて馬車を離れており、いっこうに動きだす気配はなかった。
最愛の妹の青ざめた顔、血の気のひいた口許にあてられたほっそりとした白い指が、痛々しくて見ていられない。
エリックはフランソワのために運んできたスープをいったん寝台脇に仮置きされた小卓に置くと、その手前にある一人掛け用のソファーに腰をおろした。
そうして、あらためてフランソワに向き直る。
寝台に横たわるフランソワのちょうど胸の位置で彼女の介助がしやすいよう設置されたコンパクトな椅子は、最近また成長したエリックの身体にはいささか窮屈そうである。
「…ごめんなさい。エリック兄様。…さっきよりはもうだいぶいいの。だから、出発するようにお父様に伝えて」
この旅の間、フランソワがもう何度も繰り返してきた言葉だ。幾度となく繰り返すうちに、どんなに具合が悪くても朦朧とした意識のなかでも、フランソワは自分に呼びかける者があれば呪文のように口にすることができるようになった。
これだけはきちんと自分の意思を、意味のある言葉として伝えられた。
――これは……思っていたよりずっとひどいな。
フランソワの深刻な容態に、エリックは声にならない呻き声をあげた。
フランソワがかろうじて保っている意識を今しも手放すかもしれないと見て取ったエリックは、身をのりだして彼女の背中と寝台の間に右手を滑り込ませる。
「まずは、これを飲んでからだよ、フランソワ。そう言って、もう何度も俺たちはだまされているからね」
支えるフランソワの背中の軽さと薄さに、エリックは今さらながらに思い知らされる。
今回の旅がいかに、病弱な妹に過酷な負担を強いているか。
――こんなになっても……
侍女のエマと母が、今日も何度もこの馬車に足を運んだ。
滋養こそあるが、それ故にやや風味に独特のクセのあるスープは、エリックも子供の頃に幾度か世話になった。
幼い子供がとても好んで飲むような代物ではなかったが、フランソワのために用意されたそれは、薄めただけでなくかなり飲みやく調味されている。
それでも、フランソワは半分も飲めなかった。
今回エリックがここに来たのは、父の厳命を受けてのことだ。
「母上でさえダメだったものを。そこに、俺を差し向けるってのは……つまり?」
手にした盆の上に載ったスープをしげしげと眺め、エリックが誰にともなく呟く。
――これがフランソワの元気な時で、彼女の大好きなお菓子であったなら、どんなに気が楽だろう。
そんな彼に長兄のシャルルを除くアルティエ家の兄弟たちから、とりあえずといった調子の反応が返ってくる。
彼らはフランソワの乗る馬車の近くまでエリックのあとをついてきていた。
「……つまり?」
「力尽くでも、全部飲ませてこいってことだろう」
相変わらず次兄のユルグが弟にかける言葉は、端的でありかつ容赦がない。
エリックがわざとらしく肩をおとす。
ユルグの隣で、末弟のアレンが同情のなかに微妙に安堵が入り混じった視線を彼に寄越した。
――俺じゃなくてよかったーー。
その目が雄弁に語っていて弟のあまりの率直さに、エリックは今度はわざとらしく大きなため息を吐き出す。
「こーいうの一番うまくこなせるのシャルル兄上のはずなのに。なんでこんな時にいないんだ、あの人は」
自棄になってもらした泣き言に、薄情な弟がすぐさま、皆が分かり切っている答えを返してくれる。
「このままだと予定より到着が遅れるかもしれない、ってんで先に王都に行ったんだろ」
苦り切った表情でエリックがアレンをにらむ。直後に、彼は大きく息を吸い込んだ。
「だから。なんで今回は父上、じゃなくて、シャルル兄上が行ったんだ? ってことだろ」
エリックが言わんとしていたことをわかっているとばかりに、アレンが急いで言い足した。
兄弟たちの間に沈黙がおちる。
今回の旅は、異例なことずくめだった。
旅慣れているはずの古参の従者でさえ、疲労の色を隠しきれない程に。
あの事件があってから、フランソワは心身ともに不安定な状態が続いている。
元から身体が弱かったが、以前には平気だったストレスにもより繊細に、そして過剰に反応するようになった。
受けるダメージが大きい分、回復に至るまで時間がかかる。
いや――むしろ、幼いフランソワのうちでは消化しきれなかった澱がほんのわずかでも残っているのかもしれず、そうした物が少しずつ時間をかけて溜まってゆき、フランソワの身体を音もなく蝕んでいるのかもしれない。
それを、周囲は回復していると思い込んでいるだけかもしれなかった。
身体の弱いフランソワに、この旅は、なおさらこたえているだろう。
父であるエルガー伯爵は、今回の旅でまだ一度もフランソワを見舞っていない。
伯爵のこと娘に対する過保護ぶりは、そのスケールもさることながら、盲目的と言っても過言ではない程である。
その伯爵が今のフランソワを見たら、いやたとえ見ずとも、もっと早い段階で即座に決断し、実行に移すだろう。
フランソワにこれ以上の無理を強いるのは、酷というものだ。
であれば、フランソワを妻であるカトリーヌ侯爵に任せ、最低限の供だけを率いて伯爵が先に王都へ行くか。
それとも、フランソワのある程度までの回復を待って、皆で共にカトリーヌへ引き返すか。
つまりは、そのいずれの選択肢も選べない、何が何でも王都へーー
前進するしかない旅。
「ほら。ちゃんと飲まないと、俺が父上に叱られるんだから」
我ながら情けないやり方だとは思うものの、正攻法による試みは、エマもカトリーヌももはややり尽くしているだろう。
エリックはフランソワに飲んでもらうためなら、手段を選ばないと心に決めた。
――どうしよう。
フランソワは弱り果てていた。
……また、無理に飲もうとしてこぼしてしまったら。エマにすっかり迷惑をかけてしまったのに。
吐物で汚れた寝具の後始末など屋敷にいても大変だろうに、まして今、馬車を止めているこの場所は町の中ですらない。
遅れている分を取り戻すために、ずいぶん早くに町を出た。
街道をゆっくりと進み――それでどのくらいの距離を稼げたのか、フランソワにはわからない。
なぜなら、馬車のなかで彼女はずっと横になっていたのだから。
――それなのに、わたしのせいでまた、馬車が止まってしまった。
目の前に差し出された液体は、とてもフランソワの食欲をそそるものではなかった。
もう何度も供され、その都度味わいが微調整されているのだが、今のフランソワの口にそんな些細な違いなど感じとれるはずもない。
「エリック兄さま」
絞りだした声は、細くかすれていた。
「……わたし、王都へは……」
「フランソワ」
フランソワは、最後まで言葉を紡ぐことができなかった。
それは、自分の顔を覗き込む自分に甘い兄の眼に、「否」を感じとったからではない。
途中で呼吸があがってっしまったからでも。
『――今度は、きみのほうから、会いにきて』
出発前、今回の王都行きを誰よりも楽しみにしていたのは、フランソワだった。
今回は家族皆がそろって王都に行くと聞いたとき、フランソワは嬉しくて嬉しくて舞い上がった。
両親や上の二人の兄たちに王都のことを聞いてまわって、浮かれていた。
そうしたら、夢をみた。
王子との思い出が、万華鏡のようにくるくると……記憶にある時間の流れもでたらめに。
とっても世話好きな王子様の――
とりわけ同じ夜のうちにも、繰り返し登場したのは……
フランソワの間近にあった王子の顔――つかの間とても真剣な瞳で、フランソワの胸がどくんとはねるほどに射抜いてきた。
それはもう、びっくりして。
今も――そのときの王子のあのサファイアの瞳を思い出すだけで、顔が、身体が熱をもってしまう。
落ち着かなくて妙な気分だけれど、といって熱っぽいのに頭が痛いとか、気持ち悪くなったりということもない。
王子のことを思い出すと、フランソワはいつもこんな調子なのだ。
こんな調子で……抜け落ちてしまっている。
――王子様はいっぱいいろんなお話をしてくれたのに……
いっぱいいろいろ気が散って、それどころではなくて、フランソワは聞き逃してしまっていた。
気がつかなかったことも――
フランソワは王子からとても綺麗な宝玉を受け取っている。
とろりとした緑色をして、それでいて光を受けて透き通っていた。
フランソワはきらきらと光る玉より、それを見つめる王子の青く輝く瞳のほうが綺麗だと思った。
その眼差しにこもる熱を受け止めきれずに……
王子の甘やかな表情が、そのときは――雰囲気が違っていて、なぜか、とても王子を近く感じた。
もどかしげに小箱の蓋を開ける手つきに、フランソワもなぜだか一緒になって緊張してしまうくらい……そのくらい大切な大切な宝玉。
……どうしよう。
夢をみればみるほど、フランソワは眠れなくなってしまった。
……どうしよう。
目許が、熱をもちはじめる。
フランソワの眼に、大粒の涙が浮かび、流れ落ちた。
「フランソワっ?」
最愛の妹の、それも弱り切った姿の妹の涙にエリックの決意は、あっさりと崩れ去った。
狼狽した彼の両手が、フランソワのか細い肩に食い込む。
「ごめん。俺はなにもお前のせいにするつもりではなかったんだ」
肩の痛みよりも慌てた兄の言葉が、フランソワに突き刺さる。
……どうしよう。違う!
「王都に……行くんだろう? このスープは確かに美味しいとは言えないかもしれないが、それでもずいぶん飲みやすくはなってるんだ。これを飲めばお前の身体も今よりきっとよくなるし、旅をするにはなにより体力をつけるのが一番だからね」
すんでのところで王子のことを持ち出しそうになって、焦った挙句続けた言葉の不甲斐なさにエリックは自己嫌悪に陥った。
エリックとて、フランソワが王都行きを楽しみにしている要因のその大部分を、あの小憎らしい王子が占めているとわかっている。
幼い妹の頬を流れる涙を拭いているエリックの手を振りほどこうとでもするかのように、フランソワの顔が横に振られる。
「……違うの」
「違う? 違うってなにが? フランソワ」
「わたしの……せい」
――わたしが、大切な宝玉をなくしてしまったから!
捜したけど見つからなかった。
あんなに捜したのに、見つけられなかった。
何度もエマに訊こうとしたけど。
何度もお母さまにお話ししようと思ったけど。
フランソワはついにそうすることができなかった。
――聞くのが、確かめるのが怖かった。
本当に失くしてしまったのだと、フランソワが一番怖れる現実を突きつけられるのが、どうしても。
怖かった。
――わたしに、初めてちゃんとお願いをしてくれた方。
わたしの話を、なんでもちゃんと聞いてくれて。
王子はたちまち、フランソワにとって「大切な存在」になっていた。
まだ五歳だったフランソワにも、とても貴重なものだとわかるくらいの宝玉を――
なにより王子の態度が、物語っていた。
そんな宝玉を、大好きな王子が大切にしていた宝玉を失くしておいて。
――王子様に会うなんて、できるわけない。
わたしが、いけない娘だから……
「……こんなにいっぱい、よくないことが起きるのは……わたしのせいなの」
泣きながら唐突に妹が話し出した内容に、エリックの肝が冷える。
「えぇ?」
「……レムを出発してすぐに大雨が降って、動けなくなって……それから橋が壊れてて馬車が通れなくなってたから、違う道を探して……」
「いや。フランソワ。大雨が降れば、橋が壊れることもある。そもそも天候の不順は誰のせいでもない」
エリックの背中を嫌な汗が伝う。
これは今朝、馬車のなかで兄弟で話していたことだ。
――まさかフランソワまで気にしていたとは。
「……その道も通れなくなってて、やっと着いた街は大雨のせいで食べる物に困ってて……」
――その街で補給するはずだった食糧は十分に手に入らず、皆の食事の中身を変えざるをえなくなった。
おまけに街を出てから飢えた賊にも狙われた。
成り行きで襲われていた商人の一行を助けたことも……
「わたし……失くしたから」
フランソワの嗚咽はとまらない。
「それなのに、内緒にしていたから」
「フランソワ、失くしたってなにを?」
フランソワが掛け具におおいかぶさるようにして、黙り込んでしまった。
漏れてくる嗚咽が、エリックをたまらない気持ちにさせる。
彼は優しくフランソワの背をさすりながら、辛抱強く妹を見守ることにした。
「……見つからなくて。大切な…もらったのに失くしてしまって」
待つこと暫し、フランソワがようやく、のろのろと上体を起こした。
顔はうつむけたままだ。
「わたしがいけない娘……だから、神様が怒っておられるの」
「それは違うよ、フランソワ!」
エリックはつい口を突いて出そうになった言葉を飲み込んだ。
――フランソワが気に病んでいる原因は、どうやら彼女が失くした物にあるらしい。
それは理解した。だが……
フランソワを連れての旅だ。相当の余裕をもってカトリーヌを出発したはずだった。
普通なら――道中何事もなく進むことができていたなら、もう王都に入っていてもおかしくない。
馬車のなかで兄弟たちと交わした会話が、エリックの脳裏にまざまざとよみがえる。
「まったく。天は我らを行かせたいんだか、行かせたくないんだか。ここまできたら、もう行かなくてもいいんじゃないかって気にもなるよね」
「行かない。に賛成」
エリックのこぼした愚痴に、迷うことなくアレンが賛同する。
エリックもアレンもここのところ、ある噂が、頭について離れない。
上の二人の兄が王宮で耳にしたという――聞いたときには、エリックもアレンも驚きはしたもののさして気にも留めていなかったのだが。
王家にあって、類稀なる美貌をもって生まれた王子。
その彼にまつわる噂と、二つ名を。
――神に愛されし王子。
そして、それが故に伯爵は今回の旅で、最愛の娘の傍を決して離れることはしないだろう。
「無理だな」
最後の次兄の一言は予想外だったらしい。エリックもアレンも同時にユルグの顔を見る。
「引き返せるものなら、父上がとっくにそうしている。引き返すのは無理だな」
「そっち、かぁ」
落胆を隠そうともせず、アレンが大袈裟にため息をついてみせる。
「もう。なんかこの旅、最後までなにか起こりそうで……」




