醒井峡谷
翌朝。
一行は再び山道を歩いていた。
空は高く澄み渡り、風は少し冷たい。
伊吹の山々は近づき、木々の色も少しずつ濃くなっていた。
先頭を歩いていたガンジが足を止める。
「着いたぞ」
わらびが顔を上げる。
「どこだ?」
目の前には深い谷が広がっていた。
切り立った岩肌。
木漏れ日。
そして透き通るような清流。
川底の石まで見える。
「……きれいだな」
思わず口から漏れた。
「醒井峡谷だ」
ガンジが答える。
「長生郷へ続く谷だよ」
「ここ通らないと行けねぇのか」
「ああ」
ガンジは笑った。
「昔から流れの門って呼ばれてる」
「流れの門」
わらびが呟く。
その時だった。
「……そう呼ばれています」
花蓮がぽつりと言った。
わらびが振り向く。
「知ってるじゃねぇか」
花蓮は少し黙る。
「有名ですから」
「絶対それだけじゃねぇだろ」
「気のせいです」
「気のせいじゃねぇ」
花蓮は答えなかった。
一行は峡谷へ足を踏み入れる。
水の音が響く。
鳥の声。
風の匂い。
岩には緑の苔が広がり、小さな花々が咲いている。
「みずいっぱいケ〜」
よしろが川を覗き込んだ。
「落ちるなよ」
「だいじょうぶケ」
その直後。
足を滑らせた。
「ケッ!?」
どぼん。
「落ちたじゃねぇか!!」
「つめたいケ〜!!」
よしろが流されていく。
ガンジが腹を抱えて笑った。
「ははははは!!」
一方。
おねむは岩の上に寝転がっていた。
「きもちいいやん……」
「歩け」
「むりやん……」
「まだ始まったばっかだぞ」
「ねるやん……」
すでに寝ていた。
わらびは川を見つめる。
その瞬間。
腹の奥が小さく震えた。
「……?」
何かがおかしい。
わらびには見えていた。
川の中を流れているもの。
それは水じゃない。
感情。
薄く淡い光のような流れが、川の中をゆっくり巡っている。
「なんだ……これ」
花蓮が振り向く。
「どうしました」
「見えるんだ」
わらびは川を指差した。
「流れてる」
「感情が」
花蓮は目を細める。
ガンジだけが頷いた。
「見えたか」
「知ってんのか?」
「ああ」
ガンジは川を見る。
「伊吹の水は特別なんだ」
「流れを育てる」
「だから長生郷ができた」
わらびはもう一度川を見る。
悲しみ。
喜び。
安心。
怒り。
数えきれない感情が、水と共にゆっくり流れていた。
「……変な場所だな」
「いい場所だぞ」
ガンジは笑った。
その日の夕方。
一行は峡谷入口近くの茶屋へ立ち寄った。
そこで妙な話を聞く。
「また出たんですよ」
店主の男が不安そうに言った。
「また?」
ガンジが聞き返す。
「人が消えるんです」
空気が変わった。
「旅人が?」
「ああ」
「川へ行ったきり戻らない」
「昔からあるんです」
「水蛍に誘われると帰れないって」
わらびが眉をひそめる。
「水蛍?」
男は小さく頷いた。
「夜になると現れるんです」
「青い光が」
その時。
おねむがぴくりと反応した。
珍しく目を開いている。
「どうした」
わらびが聞く。
おねむは少し黙り込んだ。
「……あれ」
「ついていったらあかんやん……」
全員が振り向く。
「知ってるのか?」
おねむは答えない。
ただ川の方を見ていた。
夜。
峡谷の川辺。
青い光が現れる。
一つ。
二つ。
三つ。
やがて無数。
蛍のような光が、川面を漂い始めた。
あまりにも綺麗だった。
だが。
その光を見つめた旅人が、ふらりと立ち上がる。
一歩。
また一歩。
吸い寄せられるように川へ向かう。
よしろの仮面が鳴った。
カタン。
「だめケ」
おねむは静かに呟く。
「……まだおったやん……」
次の瞬間。
無数の青い光が、一斉にこちらを振り向いた。
峡谷の夜風だけが、静かに吹いていた。




