Story.88【暴走】
時間は、少し前に遡る。
大森林の奥―――身を潜めるアジェッサは、今か今かとその瞬間を待ち焦がれていた。
「はぁ……そろそろですわ」
頬を微かに紅潮させるアジェッサは、ビオニアに苦戦するヨウの姿を映す“千里ノ鏡”を華奢な指でなぞる。
「私の魔導知識の粋を集めた魔術式が、遂にその成果を見せる時が来ましたわ」
《自己陶酔している所邪魔をするが、あの術式には妖魔老師も手を貸している事を忘れるな?》
興奮気味なアジェッサに水を差す氷の様な冷たい声音。
“加虐の魔王”アザミが“遠隔会話”を通して、アジェッサと同じく“千里ノ鏡”を覗く。
アジェッサはお淑やかに「失礼…」と小さく咳払いをした。
《よくもまぁ、あの術式を“半人半魔”に呪印出来たものだな?》
「お褒め預かり光栄ですが……こればかりは、あの方があまりにも不用心過ぎましたわ」
アジェッサの施した術式。
それは、逃走者としてヨウ達に保護された際にアジェッサがヨウに呪印させていた。
「あそこまで警戒心が無いのでしたら、あの首飾りは不要でしたわね」
アジェッサがヨウに渡した深い紅玉色の首飾りは、“それに魔術が仕込んである”と思わせる為の誘導だった。
本物の術式は、その首飾りを手渡す際に、ヨウがアジェッサに触れる事で呪印されていたのだ。
《アジェッサよ。疑いたくは無いのだが、上手く行くのだろうな?》
「お任せ下さい。アザミ様もご存じの通り、あの術式は一度発動すれば解除の術はありませぬ」
《ふん…》
アザミは「確かにな」と肯定する様に鼻を鳴らせた。
アジェッサもまた、絶対的な自信を持って計画を遂行している余裕からか、厚い唇に指を添わせながら“鏡”越しのヨウを冷たく見下すのだった。
「“精神の混乱・魔力の暴走”を呼び起こす呪印―――これにより、意思も感情も無く暴れるだけの存在となった貴方様の手によって、人馬族も鬼人族も女蛇族も滅ぼされる。貴方様が護ろうとする存在全てを、貴方様の手で壊す。この事実を前に、貴方様の心は平常で居られるはずが御座いませんわよね……?」
―――愛する者全てを、ご自分の心を失った貴方様を私の“操り人形”にして支配する。“加虐の魔王”が四方国戦争を制覇し、この世界を統治する為の“兵器”として―――
・
・
・
―――意識が……闇へ沈んでいく……
俺の体に廻る“黒い花”。
全身を包む頃には、俺の意志に反して、俺の“魔力”が暴走を始めた。
「―――……」
言葉を発したい……
今すぐ、傍に居るサクラに「逃げろ」と叫びたいのに……
「ヨ……ヨウ、さま……ッ」
肺を痛めて思うように動けないサクラが、必死に絞り出す声で俺を呼ぶ。
「………」
だが、今の俺にはその声に応えてやる事が出来ない。
―――何だ? 何が起きた? どうして体が言う事を利かない?
自由が利くのは“脳”だけ。
けれどその機能は全て、この状況に対する問い掛けしか思いつかない。
―――止まれ! 止まってくれ! このままじゃサクラが……!
「ヨウ様…! ヨウ様ぁ!」
俺の願いも、サクラの叫びも虚しく、暴走する魔力が更に跳ね上がった。
「キャッ…!」
「ッ―――」
魔力の波動に圧され、地面を転がるように飛ばされるサクラ。
そして、四足と大槍で全身を支えて留まるビオニア。
「はぁ…はぁ…」
ビオニアの姿は元の人馬族の姿に戻っていた。
しかし、先程話していた“副作用”の所為か、先程までの迫力も魔力も感じられない。
全身の節々が、立っているのがやっと…と言わん限りに震えていた。
呼吸も荒く、汗も滝のように掻いている。
「ッ……これは……まだ、これ程の力を、隠し持っていたのか……!?」
「いいえ…ッ! これは、この禍々しさは…ヨウ様の御意志ではありません…!」
ビオニアは此処へ来て初めて俺に対して憂倶した表情を見せた。
ビオニアの言葉に空かさず反論するサクラだが、紛れも無く俺自身の魔力が二人を脅かしているのは事実だ。
「―――ぁッ…ぐぁっ…」
俺は必死に口を開く。
「逃げろ」「離れろ」と警告したい。
―――頼む逃げてくれ! このままじゃ……!!
俺の手で……大事な者を奪ってしまう……
二年前のアングの母親の様に……
何の罪もない存在を……
「ッ……ま、れぇ……止ま……くれぇ…!!!」
誰に対しての懇願なのか……自分自身の体なのに何も出来ないもどかしさと、仲間を危険な目に遭わせるという不安が無意識化でそうせざるを得なくなっていた。
―――こうなったら……仕方ない……!!
俺は最終手段に打って出た。
「ッ―――」
―――舌を噛んで、死ぬ!
“半人半魔”だから出来る最大にして最終手段。
“死”だ―――
幸いにも、口の開閉だけは何とか出来る。
俺は強い支配に抗い、大きく口を開く。
だが―――
【 そ れ は ダ メ 】
「あッ……んぅう…!!」
脳に直接語り掛けられる様な“声”が聴こえた。
いつもの“もう一人の俺”の“声”じゃない。
女性―――聞き覚えのある“声”だ。
―――アジェッサ…!!!
“声”が聴こえたと同時に、俺の口は強制的に塞がれた。
塞がれたと言っても、閉じたのは自分自身だ。
“声”の命令に逆らえない。
―――クッソォ…! やっぱりアイツの仕業かぁ…!
後悔した所で後の祭りだ。
今は自分自身の沈静化を急がねば…!
―――けど…どうする!? 全く言う事聞かない…!!
抗えば抗う程、反動で魔力が更に跳ね上がった。
その都度、周りに居るサクラとビオニアが吹き飛ばされるのに耐えている。
―――ッ……落ち着け……自決が出来ないなら、周りに頼むしかない……!
俺は視線をサクラに向け―――……すぐ逸らした。
―――馬鹿か……サクラにそんな事頼めるわけ無いだろ……!
そんな残酷な事をサクラにやらせたくない。
……となれば、もう一人にしか頼めない。
俺の頼みを聞いてくれる補償は無いが、この状況がマズい事ぐらい分かってくれているはずだ。
「……ッビオ…ニア…!!」
「!」
名を呼ばれたビオニアは目を見開いて俺を見つめ返した。
「き…緊急…事態、だ…! 頼む…! 俺を……止めってくれ……!!」
「ッ…」
さっきまで敵対してた相手の頼みなど、簡単に聞き届けられないだろうが、今はビオニアにこの状況の沈静化を託すしかなかった。
「………」
「ビオニア…ッ」
「………無理だ」
そう言うと、ビオニアは地に四足の膝を着いた。
「“昇華”の発動で、私ももう魔力が無い。その上、副作用で身体機能も碌に機能していない……一撃でお前を止める事は不可能だ」
「……ッ」
―――ダメか…! どうすりゃあ……―――
その時、俺の右手が勝手に天に向かって伸びた。
何事かと視線を向ければ、詠唱も無しに、掌にどす黒い魔力の塊が出現した。
その魔力の塊は徐々に姿を変え、巨大な鎌を構える餓者髑髏に変貌を遂げた。
「!!」
―――これは……闇魔術の“死神ノ鎌”……!!
髑髏がその鎌を振り下ろせば、周囲に生息する生命体の魂を刈り取る魔術。
周囲の魔素も刈り取る為、“防盾”を展開しても意味が無い。
つまり―――完全不可避の魔術だ。
「こ……ンのぉお!!!」
―――どうする!? サクラの“妖人魚ノ波紋”でも塞げない魔術をこんな至近距離で発動する訳には……!!
正に絶体絶命の状況。
その時―――
「マスター!!!」
「!!」
危機的状況の空気を換えたのは、俺の“相棒”の登場だった。
「アング……!」
「マスター!」
先程、ビオニアの攻撃で吹き飛ばされた影響か、その身は切傷だらけでボロボロだった。
それでも必死に戻って来てくれた……
「―――……ッ」
―――……頼みたくない……アングに……俺の家族に……だけどッ!!
事態は急を要していた。
俺は意を決し、アングに向かって精一杯の懇願をする。
「アング!! 俺を…―――」
操られる右腕に爪を立て、痛みで意識を保つ。
閉じられそうになる口を、顎を外す勢いで開きながら叫ぶ。
「殺せぇえ!!!」
「!!」
アングの目が見開かれる。
サクラとビオニアも驚きの形相に変わる。
こんな頼み……常識で考えて応えられる訳がない……
だが、“相棒”は違う。
「―――ッ御意!」
アングは銀狼特有の牙を剥き出して、目にも止まらぬ速度で一直線に俺に向かって来る。
しかし荒れ狂う魔力の旋風に圧され、それ以上近付く事が出来ない。
―――アングでも近寄れないか…!
「ッ……サクラ…!」
「えっ…?」
状況に追い付けていないのか、サクラは俺に突然名を呼ばれて大きく肩を跳ねらせた。
「アングの……通り道を……!」
「は―――はいっ!」
サクラはその意味をすぐに理解した。
ボロボロな身体に鞭打って起き上がらせ、アングと俺との間に盾を張った。
「ッ……ウ…“妖人魚ノ……波紋”……!!」
サクラが魔術を発動したと同時に、俺とアングの間に魔力の旋風が及ばない無風空間が生じた。
「アングちゃん…!」
「応!」
障害が無くなったと同時に、アングが速度を上げる。
万全の状態でないサクラの魔術は徐々に綻び始める。
所々にヒビが入り、そこからまた荒ぶる魔力の旋風が侵入してくる。
「急げ…! アング!!」
「ッ…!」
アングも限界まで速度を上げる。
【 邪 魔 で し て よ 】
アングの接近を拒む“アジェッサの声”。
今度は俺の左手の自由を奪われ、アングに向かって腕を構えた。
―――アングに攻撃を…!?
予想通り、血だらけの左手に魔力が集まる。
只の魔力弾の様だが、真面に喰らえば致命傷になりうる。
俊敏なアングだが、“妖人魚ノ波紋”で狭められた空間内を逃げる事は出来ない。
「クッソォ…!」
―――アジェッサ…! 何処までも邪魔しやがって…!
しかし、俺の魔力弾が放たれる直前―――俺の左腕に大槍の刃が突き抜けた。
肘から下の部位を斬り飛ばされ、形成された魔力弾は霧散した。
「ッ…!」
大槍を飛ばしてきた主―――ビオニアが、ヒビ割れた“妖人魚ノ波紋”の隙間から中に入り込み、渾身の力で俺に大槍を放ったのだ。
そのお陰で、アングは難無く俺の許に駆け寄り―――首筋に牙を立てた。
噴き上がる鮮血、首筋に走る鋭い痛み、俺に噛み付く銀狼の姿……
身に覚えのある光景を最後に、俺の意識は遠退いた。