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Rule of Scramble  作者: こーたろー
第七編 夏の活劇
200/220

???? Line 偽りなる者たち 4.夢は現となりたりて



































〝破滅の天で(えつ)に酔え〟


〝汝を縛る恥を捨て、ただ(ユメ)を貪る人になれ〟


〝我らの道に苦難を置くな〟


〝博識な石榑(いしくれ)など脇によけ、お菓子のねぐらに帰ろうか〟


〝悲嘆を晒す(うつつ)に価値はなく〟


〝夢を()け、夢を()め、夢を()け〟


〝汝が奥に棲まう、無謬の天国(ユメ)に心を任せよ〟


()なるものなどどこにもない〟


〝法は消えた、最後の自由に別れを告げよ〟


〝鎖は消えた、奴隷の焼印に別れを告げよ〟


〝どうか魔法よ、流れ出せ。目をあけろ。ここがあなたの桃源郷〟




































☆ ☆ ☆


 ああ。

 こんなにも簡単に、人間は壊れる。


「ちょっ、もう友介それマジでヒド過ぎっしょ! あたしにだって拒否権とか……ッ」


 どれだけ心を奮い立たせ、赫怒を抱いて立ち向かおうとも、結局力がなければ人間は負ける。


 人は、願望(ユメ)には勝てない。

 人は、誘惑(ユメ)には勝てない。

 人は、幸福(ユメ)には勝てない。


 ユメは全てを呑み込み、偽りの真実を弱き者に与える。


「う、うぅ……別に嫌じゃない。けど、さあ……。むしろ、そっちのが好きってか……って、つか、ば、んなこと言わせるなし!」


 あるいは、ユメは人を弱くする。




 虚空へ向かって、幸せそうな笑顔で話しかける四宮凛のように。




 凛の隣には誰もいない。彼が『友介』と呼ぶ誰かは、ここにはいない。

 だが、少女はまるで、あたかもそこに安堵友介がいるかのように、日常を謳歌していた。

 左腕を不自然に青く腫らし、鼻からは未だ血を垂らしながら。目をそむけたくなるほど悲惨な傷を負った顔を、今はひまわりのように明るく染めて弾んだ声で話しかけていた。


「ちょっ、ほんと馬鹿っしょ! 何で何も言い返さなかったし! 別に喧嘩しても負けないっしょ!? …………いや、まぁ、そうだけど、さ……」


 ポケットからハンカチを取り出し、まるですぐ目の前にある誰かの顔を吹くかのような仕草をする。その顔は今は暗く沈んでいた。

 折れているはずの左腕を何事もなく動かし、いもしない誰かの髪を優しく撫でた。まるで泣いている子供に母がするように。髪を梳くその動作にこもる慈悲と愛情は、本物だ。

 彼女の笑顔も、悲しみも、愛情も、心配も――その全ての感情は、本物だ。


 あるいは、彼女にとってしてみれば偽りのものなどないのかもしれない。

 なぜならそれは、確かに四宮凛にとっては真実以外の何物でもないはずだから。

 四宮凛の脳が認識した現実だから。

 たとえ物質世界における凛は虚空へ話しかけているのだとしても、四宮凛という個人の世界は完結している。ユメは紛れもない真実であり事実であり現実である。少女の閉じた宇宙は、四宮凛という少女の中に限っていえば完璧なバランスで成立し、完成しているのだ。ならば誰にもケチをつけることなどできない。


 狂い一つない理想郷。

 あるいは、楽園の一つの形。

 四宮凛の、黄金の宮殿(ヴィーンコールヴ)


「――――――――」


 今目の前に広がっているこれこそが、春日井・H・アリアの醜悪なる染色の真実。

 六百年前、少女が愛した故郷を堕落都市へと変えた、忌むべき桃源郷。




 ――――『魔女は破滅の(ヴィーンコールヴ)偽天を歌う(ストレーガ)』――――




 周囲一帯、彼女の知覚範囲に存在する人間を『偽りの桃源郷』へと誘う染色。

 人は誰しも弱い。誰もが甘い幻想に浸かり、届かぬとわかっていても(ユメ)を求めて手を伸ばす。

 欲しい、欲しい、あれが欲しい。

 何もできないけど、絶対に手に入れられないけど、あれが欲しい。

 あの人の恋人になれたらいいのに。

 大金持ちになれたらよかったのに。

 誰かを助けられる英雄になりたい。

 自分を認めてくれる誰かが欲しい。


『諦観ゆえの願望』の創造。対象の脳に直接干渉し、幻惑を現実へと変換してしまう外法。


 望んで手を伸ばし、届かなくて諦めたからこそ、より一層欲しいと願った叶わぬユメを叶えてしまう、人間の尊厳を奪うかのような(ユメ)

 今はまだ不完全だが、やがて黄金宮(ユメ)が完成すれば、もう戻ることは出来ないだろう。

 しあわせな夢に浸っている人間が、逃げたいと願う現実(いぶつ)を認めるはずがないのだから。彼女も例外なく目を逸らす。そして――堕ちる。完全に。夢を閉ざして桃源郷で新たな生を謳歌することは確定しているのだ。


「うん。あたし、友介の彼女になれて、ほんと幸せ……」

「うっ――、おぇ、お……うぅぅぅうう、……っ!」


 うっとりと、まるで熱に浮かされたかのようにそう口にした凛の笑顔を目にした瞬間、アリアは臓腑を掻き乱されるかのような嘔吐感に襲われ、胃袋の中身を全てぶちまけた。

 黄緑色のグロテスクな吐瀉物が床を汚し、ツン、と刺すような異臭が周囲に立ち込めた。


「ぅ、うぶっ!? げ、うぁ……おぇええッ!」


 異臭が脳を刺激し、不快感が増幅され嘔吐は止まらない。自己嫌悪に身体的不快感が相乗され、吐けば吐くほど悪化する悪循環に陥った。

 固形物がなくなって、胃液だけになっても嘔吐感が消えることはない。


「ちょっ、笑うとか最低過ぎじゃね!? せ、せっかく彼女が勇気出して告白してんのに!」

「う、ぅぅうううっぅぅぅぅううううぅぅううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううぅぅぅうううぅぅううううううぅぅぅうううううううううううううううううううううううううううぅぅぅぅううううううぅぅうぅうううぅううっ!?」


 食道が傷つき朱色が混じったところで、ようやく嘔吐は止まる。


「はあぁあ、っ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、ぁ――――、ぅ、」


 滝のように汗を流し、死人のように顔を蒼白に染めた。

 己が成した人倫にもとる行為がすぐ目の前にあるその事実。これほど醜悪にして不快極まる光景を、他でもない春日井・H・アリアの歌でもって成し遂げてしまったその事実に、少女の心が耐えられない。


 壊した、壊した、壊した。壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した壊した。


 四宮凛の心を、壊した。


 もう彼女は戻らない。

 あの強い少女は、己が敵と定めた卑劣な女の外法に掛かり、破滅の偽天(ユメ)に堕とされた。


 しあわせな世界。

 しあわせな日常。

 しあわせな毎日。

 しあわせな人生。

 しあわせな人間。


 しあわせ、しあわせ。ふわふわ、ふわふわ、わたがしみたいにあまいしあわせ。


 すきだといって、すきなひとが、すきだよとかえしてくれるしあわせ。


 きみだけがたいせつだよといってくれるしあわせ。


 きみのことがすきだよ、だからきみさえいればおれはそれでいいんだと。


 ああ、しあわせだなあ、しあわせだなあ。


 うれしい、うれしい、ありがとう!


 ありあちゃん、ありがとう!


 ありあちゃんはしょうらい、ゆうめいなかしゅになりそうだねえ。


 ありあちゃんのうたはせかいいちきれいだなあ。


 ありあちゃんのうたをきいていると、しあわせなきもちになれるなあ。


 ありあちゃんは、すごい!


 ありあちゃんは、かみさま!


 ありあちゃん、ありあちゃん、ありあちゃん、


 ありあちゃん

             ありあちゃん

    ありあちゃん         ありあちゃん

                          ありあちゃん

ありあちゃん

         ありあちゃん   ありあちゃん              ありあちゃん

  ありあちゃん

ありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃんありあちゃん















 ありあちゃんのうたが、だいすき!




「もうやめてよぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!?」




 こえがきこえる。

 みんなのこえが。

 ありあがだいすきだったみんなのこえが、きょうもきこえた。

 いつもいつもきこえるの。

 わたしがうたうと、うれしいうれしい、ありがとう。あなたのうたはせかいいち! って、ほめてくれるみんなのこえが、きこえるの!

 うれしいなあ、うれしいなあ、うれしい!


「ぅううううぅぅうううううううううううッ!? ああああ、あああああああああ……ッ!?」


 うれしくないうれしくないうれしくない、こんなにぜんぜのうれしくない。

 まただ、また――


 また、ひとをこわした。


 あのおんなのこを、こわした。

 だれよりもつよい、ありあがあこがれた、あのむかつくけどとてもつよいおんなのこを。

 もうかえってこない。

 もうしのみやりんはもどってこない。

 だいすきだったみんなとおなじ。

 あのこも、もうてんごくへいったままかえってこない。

 さよならばいばい、またらいせ。


☆ ☆ ☆


 アリアは歌うことが好きだった。歌が何よりも誰よりも大好きで、一人で歌っているだけで幸せな気持ちになれた。

 歌を聞いてくれた人が喜べばもっと嬉しいし、自分の歌で誰かを感動させたり、助けられたりできたらどんなに嬉しいかと思った。

 アリア・キテネにとっても春日井・H・アリアにとっても『歌』は特別なもので、この世界で一番大切なものだった。

 歌い続けられるのならば、それで誰かを笑顔にできるのならば、それ以外は何もいらないと思えるほどに、少女の想いは純だったのだ。


 だけど、彼女の声には人を惑わす魔法が宿っていた。

 アリアの歌を聞いた者は皆が皆、かつて己には不相応だと見切りをつけ、諦めてしまった願いを実現した幻想の世界へと誘われてしまう。虚構の楽園にその身を囚われ、永劫現実に帰ることはできず、ただ廃人のように甘い夢の世界で揺蕩う。永劫、永遠、永久に終わらない砂糖味のしあわせ。破滅色の天国。心に弱さを飼った人間は当たり前のように偽りの桃源郷からは逃れられない。


 それは、少女が生まれつき持っていた染色だった。それこそが、少女の世界(ウタ)だった。(ユメ)だった。

 人生を歌い続けて終えられるのならば他には何もいらないとすら思っていた少女の声は、そんな始末に負えない最悪の救い(ユメ)をぶら下げていたのだ。

 そんなことも知らず歌い続けていた少女は当然、大好きな村の人たちを全て廃人にした。誰も彼も、老若男女の区別を問わず、桃色の偽天へと沈めたのだ。


 彼らは帰らない。帰ってこられない。諦めてなお諦めきれない夢の世界に移住した人間が、そこから出られる道理がどこにあろうか。


 諦観ゆえの願望。

 絶望ゆえの理想郷。


 現実を知っているからこそ、桃源郷から逃れる術は存在しない。

 壊れた、壊れた。みんな壊れた。

 大好きだった人たちが、自分の歌を好きだと言ってくれた人たちが、虚空へ向かって幸せそうに話しかけている。満足が、充足が、幸福が、享楽が、ただそれで満たされた世界が、人を捕えて離さない。

 彼らを元に戻すことはアリアにも不可能だ。だってアリアにできるのは案内だけなのだから。彼らの手を引き、各々の桃源郷へと誘い込むだけ。それ以上のことはできない。


 アリアの染色に侵され、目の前に現れた現実をも拒絶し目を逸らしてしまえば、それから先、もう二度と現実を見ようとはしないのだ。しあわせを求めて際限なく堕ちて行く。人をやめ、ただ幸福を貪る獣以下の何かになる。あるいは、理性や知性を備えているぶん、獣よりもなお醜悪かもしれない。

 呪われた声。

 魔女の歌。



 ――〝クハハッ、テメエの声は呪われてんだとよッ。声を聞いただけで、歌を聞かされただけで、雑魚い人間どもはどいつもこいつも頭ん中のお花畑に引きこもるのさッ! あうー、あうーって言葉を忘れたサルみてえによ〟――



 ケラケラと軽薄に笑いながら、悪意を隠そうともしない笑顔を浮かべてそう言った男の言葉を覚えている。



 ――〝だァーかァーらァー、テメエの歌は人の心を壊すんだよ。おら、よく見てみろ。あれのどこがまともな人間なんだよ。ろれつが回ってロクに会話もできやしねえ。ありゃ廃人だ廃人。ほら、吸血鬼に噛まれた人間がグールになってあーあー言ってンの見たことねぇか?〟――



 そしてようやく理解したのだ。

 自分の声がどれほど忌まわしいものかを。

 己の歌がどれほどの人間の心をしあわせで壊したのかを。

 この身が、喉が、声が、どれほど汚れているのか。穢れているのか。

 汚い、穢れている、気持ち悪い、今すぐ死にたい。もう何も聞きたくない、見たくない。お願いだからもう黙って、みんな死んでよ怖いと助けて。

 もう私、歌は、もう――――


「―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」




 けれど。

 それだけは、無理だった。




 贖いきれぬほどの罪を重ねて。

 どれほど穢れているのかも自覚して。

 己の声の醜悪さまでも突き付けられて。

 それでも。

 歌わないという選択肢だけはなかった。


 誰も自分の歌なんて聞いてくれない。誰にも私の声なんて届かない。歌えば人を不幸(しあわせ)にする。誰も彼もを桃色の楽園へと叩き落としてしまう。

 だけど歌うことをやめるという選択肢は最初から用意されていない。



 ならば――捻じ曲げるしかないだろう?



 たとえ何よりも大切な歌を悪用しようとも。彼女の中で絶対不可侵であるはずの、ただ一つの煌めく光に泥を塗ることになろうとも。汚泥を、糞尿を、終わり腐った人の命を塗りたくることになろうとも、それでも決して止まることはない。

 己の意思で〝障害〟と定めた者を排除するため、望んでもいないのに無理やり桃源郷へと押し込んで、道を開く。目の前で人が壊れて空虚な笑みを浮かべたところで、それがどうしたどうでもいいし関係ない。自分の声を取り戻すために。私自身の声を。誰にも何にも邪魔されず、何の虚飾も魔法も卑怯もない、どこにでもあるような平凡な声を取り戻すために。


 いつか必ず、思い切って歌えるように。

 いつの日か、曇りない満天の笑顔で、空に向かって叫ぶように歌えるように。

 神様にも自分にも胸を張れるような歌を奏でるために。


 アリア・キテネは悲劇の少女を演じることをやめ、醜悪で劣悪で陰悪な魔女――春日井・H・アリアとして新生した。

 新生した、はずだったのだ。

 だが結局、少女はなり切れなかった。

 その少女の心は、中途半端に善良だったのだ。




 そして――それこそが、〝アリア〟の唯一にして最大の不幸だった。




 春日井・H・アリアは悪ではなかった。その性根はどこまでも善良で、ただ歌を愛するだけのどこにでもいる少女だった。

 悪辣な声も、犯した罪も、掲げた決意も、全て総て――そもそも、選択肢などなかったのだから。


 少女は狂えるほどに強靭な意思を持っていたわけではなかった。

 少女は己の悪を許容できるほどの図々しさも持っていなかった。


 剥離していく、乖離していく。少女の善性が少女の願いを糾弾する。お前の歌は穢れている。お前の声は血にまみれている。汚らしい、汚物にも劣る糞尿以下の存在が。

 そしてそれほどの自己嫌悪に苛まれながら、しかしそれでも夢を諦めない。願いのために他者を食い散らかすことを、是とする。

 何だかんだ言って、やることはやる(・・・・・・・)

 どれだけ己を責めたて、その醜悪さに嘔吐して血を這いつくばることになろうとも、結局少女は止まらない。自身の夢のために、最終的には人を操り、誰かを壊す。

 そして悪を一つ成すごとに自慰のように己を責めたて、しかし目の前に障害が現れればまた同じように歌を使って誰かを操る。その繰り返し。永劫、少女はその螺旋の牢獄から逃れることはできない。

 これまで重ねてきた罪の数々、それら全てが無為になることだけは許容できないから。


 真っ当に生きる道を捨てた。人間として真っ当に生きることを拒否し、自分の願いのために他者を食い物にする左道を選んだ。

 もう逃げられない。もう止まれない。

 そもそも、最初から止まる気などない。

 己の声を取り戻すために。

 好きなだけ歌うためだけに。

 ただそれだけのために、アリアは災厄を撒き散らす。

 そのためならば何でもする。人を操る。人を壊す。心の均衡を保つためなら、安易な自己嫌悪で感傷に浸ることすら是としよう。


 もはや少女は自分で自分の心がわかっていない。雑多無数の要素が入り乱れ、ぐちゃぐちゃのキメラのように極彩色の奇形と化した。

 だが、構うものか。

 自分の声で歌う。

 ただそれだけがわかっていれば、後のことなんてどうせどうでもいいのだから。






「…………、」


 己を取り戻す。壊れて剥がれて融け落ちそうになった意識を拾い集め、罪の意識を願いへの執念で塗り潰すことで、春日井・H・アリアは再起動した。

 口内には未だ胃酸が残っており、鼻をツンと刺すような匂いを孕んだ酸っぱい味が広がる。食道が傷つけられたせいか、喉の奥が痛みを発していた。

 意思とは関係なく瞳からぼたぼたと落ちるしずくを服でぬぐい去り、荒い息を吐きながらも立ち上がる。己の成すべきこと、己が願いへの道筋を見定め、後悔や自己嫌悪、罪の意識――それら余計な塵を無理やり意識の外へと捨て去って、荒い息を吐くアリアはようよう立ち上がった。

 滝のように凪がれる汗を無理やり意識から除外し、いくらか汗を吸ったことで重量の増したドレスを苦も無く身に纏う少女の瞳に、既に凛への関心は皆無だった。


「私の勝ちです。さようなら、哀れな子羊さん」


 もはや戦いは終わった。春日井・H・アリアにとっての敵は何一つ劇的なことを起こさず、凡人らしく奇跡の一つも起こさないまま、あっけない幕引きの元ここに哀れな終わりを晒す。

 そしてアリアは、壊れたものに興味・関心を割くほど暇ではない。たとえ数分前までは不倶戴天の敵で、是が非でもこの世から消し去らねばならない〝敵〟であったのだとしても、今のアリアからしてみれば、凛は己の歌で廃人になった哀れな被害者の一人でしかないのだから。

 故にもはや、凛は一ミリたりとてアリアを引き留める枷とはならない。後ろ髪をひかれるような思いも皆無。今はただ、前を見据えるだけ。まずは安堵友介。ジブリルフォードがどこまで掴んでいるのかは知らないし、アリア自身教会の謎や〝城〟の仕組み、時間跳躍の件の根本的な理論などはわからない。自分たちがどこを根城にしているのかも知らされていない。


 そんな当人たちですら知らない情報を、敵に渡せばどうなるか――

 最悪の場合、あの黙示録の処刑人に奇襲される可能性すらあるかもしれない。

 無論、奇襲されたからとして、枢機卿が総出でかかればそれだけで友介を抹殺するのは容易い。教会が敗北することはない。

 だが、万が一ということもある。

 何よりそれで自分が死んでしまえば、たとえ教会への被害が小さかろうとアリアにとっては関係ないし、最悪だ。

 己が死んでは意味がない。アリアは己の声で歌いたいのだ。ただ、自分の声を取り戻すことができればいい。


 ああ、そのためならば――

 そのためならば、教会すらも利用してやろう。奴らもまた、少女にとっては道具のようなものでしかない。忠誠は誓った。あの銀色の秩序に膝を屈した。だがそれは、得られる恩恵が少女の望んだものだったから。それが与えられないのなら、別にあそこにいなければならない理由もない。


「……何はともあれ、安堵友介くんを……」


 少女は歩き出す。

 後ろで虚構のしあわせの中に微睡む廃人を捨ておいて、求めた世界を手に入れるための次なる一歩を踏みしめた。


「――――――――っ」




 そして、悪寒が稲妻のようにうなじから全身へと走り抜けた。


☆ ☆ ☆


 凛の家でにゃんこプレイをしたその次の日、友介と凛は一昨日に来た図書館の最寄り駅で待ち合わせをしていた。

 時刻は午前十一時。すでに太陽は中天に差し掛かり、灼熱の黄金色でギラギラと街を熱し――もとい、照らしている。

 水を飲んだそばからそれら補給した水分を根こそぎ蒸発させられるかの如き灼熱の中、友介と凛は今日も今日とて引っ付きながら歩いていた。


「暑い」

「はぁー? またそんなこと言ってるし。彼女がくっ付きたいって言ってんだから喜べば?」

「喜んでるけど暑いんだよ。もう帰らね?」

「帰らねえわ! まだ何もしてないじゃん! あとデート中に帰りたいとか言う普通!? 自由過ぎっしょ」

「それより昼飯どうすんだよ。飯食い過ぎたらクレープ食えねえぞ」

「だぁああああー!? 聞いてねえよこの陰険どSッ!」

「うるせえぞ明るいどM。ちょっと黙ってろ、もう二度と首輪付けねえぞ」

「まだ付けられたことないっての!」

「いつかは付けられる予定なのかよ……」


 己の彼女ながらなかなかぶっ飛んだ性格をしていた。

 結局こうなった凛が絶対に離れないのは知っているし、友介としても暑いと言ったのは照れ隠しでしかなく、何だかんだと言って凛と密着するのは好きなので、それ以上は何も言わなかった。


 昨日のにゃんこプレイが抜けきっていないのか、匂いをこすりつけるかのように頭を腕に摺り寄せてくる凛。夏で汗をかいているはずなのに、どうしてか甘い香りが茶色に染めたポニーテールから漂ってきて友介の鼻腔と脳髄を刺激してくる。

 逃れようにも凛の両腕が絡みつくように友介の右腕をがっちりホールドしているため、漂ってくる女の子の匂いに抗うすべがない。


「……(ニチャァ)」


 わざとだった。完全にわざとだった。もうこの性格の悪い笑みったらなかった。

 この笑顔は悪巧みが成功し、なおかつ友介が狼狽していることに気付き二重の意味で嬉しくなっている笑顔だ。もう完全にわかる。凛はわざと友介にこの甘い女の子の匂いをかがせているのだ。


 加え、凛の刺激的すぎる服装もあまりよくなかった。

 白色のノースリーブVネックシャツに、ふとももが惜しげもなく晒された紺のミニスカートという出で立ち。歩くたびにひらひらと舞うミニスカートは危うく、ともすれば中が見えてしまいそうなそれは、友介の視線をふとももやその上へと強制的に向ける力を持っていた。加えて、Vネックシャツというのも良くない。カップ数にしてE以上はありそうな形の整った少女の果実が友介のすぐ至近にあるせいで、否が応にも視線がそれを捉えてしまう。谷間もはっきりと友介の眼前にある。

 しかも、その柔らかい感触が彼の二の腕に当たっているのだ。むにゅりとやわらかい感覚に全身が麻痺しそうになる。腕に押し付けられたことで煽情的な果実は淫靡に潰れ、心もとないVネックシャツの襟から零れ落ちそうになる。


「おまえ……っ」

「えへへ、怒ってる怒ってる~! つか友介、今日のあたし、かわいい?」

「……まあ、な。そこそこ可愛いんじゃねえの?」

「えぇ~! そこそこじゃわかんない~~~! どれくらい可愛い? 世界一? 地球一? それとも宇宙一っ?」

「小学生かよお前……」


 呆れたとでも言いたげに息を吐いた友介だったが、やがて顔が赤くなってくるとそっぽを向き始めた。

 不思議がり、顔を覗き込もうとさらに密着して下から覗き込むようにして凛が友介の顔を見たその瞬間、


「……まあ、宇宙一だ」

「……ほぇ?」

「だから、宇宙一可愛いっつってんだよ。な、何回も言わせてんじゃねえよボケ」

「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」


 フリーズ。硬直した凛は数瞬息をすることすら忘れた。


「おい」


 反応のない凛に、今度は友介が焦る番だった。こっちはせっかく勇気を出してこっ恥ずかしい小学生みたいな台詞を口にしたのに、なぜくっ付いているこの彼女は何も言わないのだろうか。辱めているのか? 弄んでいるのか? なら今ここで仕返しを――


「…………ふへっ」


 ――しようとしたところで、変な声が聞こえてきた。


「ゆ、友介がでれた……可愛すぎっしょまじで。何コレ、なにこれ……ツンデレ過ぎっしょ。何か目覚めそう……やばっ、これまじでヤバッ。あ、ちょ、待って見ないで……」


 真っ赤に染まり、ニヤけきった気持ちの悪い笑顔を見られないよう顔を逸らしたのだが、なぜか両腕はがっちり友介の右腕をホールドしたままだったせいで逃げられなかった。

 ちらりと視線だけを寄越した友介と、にへらとだらしない笑みを浮かべる凛の視線が交わる。

 一秒、二秒、三秒……固まってようやく友介が口を開いた。


「……とりあえずクレープ食うぞ」

「う、うん……そうだね。行こっか」

「……人多いからはぐれんなよ。ちゃんとくっ付いてろ」

「……うんっ、離れない」


 搦めた腕の先、少女は最愛の少年の手のひらを両手できゅっと包んだ。


☆ ☆ ☆


 クレープ屋ではカップル割引をしているらしく、友介と凛は特に照れなどもなく当たり前のようにイチャイチャしながら割引価格でクレープを手に入れた。


「ねえねえ友介、カップルだって! あたしらカップルに見えるって!」

「あっそ。だから何だよ」

「えぇ~、嬉しくないの友介ぇ~」


 ちぇー、と面白くなさそうにリスのように頬を膨らませてむくれる凛は、ぷいっと怒ったようにそっぽを向いてしまった。どうやら友介のそっけない返事がお気に召さなかったようだ。とはいえ、そのわりにはきっちりと友介を左腕でホールドし、さらには肩に頭まで乗せているなど、機嫌と態度の乖離が大きいためすぐにこれが演技だとわかった。

 本来なら無視して放っておくのだが、今日の友介は少し気分がいいので彼女の遊びに乗っかってやることにした。友介は空いた手に持ったクレープを口に運びつつ、


「嬉しくないわけじゃねえよ。ただ別に、俺は他人からどう思われてるとかは別にいいんだよ。お前さえ俺の隣で笑ってくれるなら、それ以外は別にいらねえ」

「ゆうすけぇ~!」

「お前がそうやって馬鹿のまま俺と一緒にいてくれるだけで、俺は充分救われてるし幸せなんだ。他は特に、まあ……別にどうでもいいっての」

「…………」

「……? どうした? 急に黙んなよなお前、恥ずかしいじゃねえか」

「え、あ、いやごめん。何でもない! つか友介に恥ずかしいとかいう感情あったん」

「お前いま俺のこと馬鹿にしたよな」

「……てへっ」

「てへじゃねえよ」


 友介の言葉にどこか引っ掛かりを覚え、ほんの一瞬反応が遅れた凛だったが、すぐに友介を抱きしめる腕にさらに力を込めて二人の世界へ戻っていった。むぎゅ、と左の頬をつねられ、それがなぜか嬉しくなってにへらとだらしのない笑みを浮かべる。


「つかそれナニ買ったん」

「イチゴ生クリーム」

「普通じゃん、つまんない~」

「うるせえ。なら凛は何にしたんだよ」

「あたしぃー? あたしはバナチョクリーム」

「ばなちょ……は? そんなんあったか?」

「まあただのバナナチョコ生クリームなんだケド」

「お前も普通じゃねえか。つまんねぇ女だな」

「それはさすがに言い過ぎじゃない!?」

「口にクリームついてるし」

「え、ウソまじ!? どこ? 取って!」

「はいよ」


 あごについたクリームを人差し指で取り、それを口に運ぶ友介。


「ん、うめえなこれ」

「でしょー? 別に普通でいいんだって」

「先につまんねえとか言って馬鹿にしてきたのがお前だってこと忘れてねえか?」

「忘れたし。何言ってんの友介、馬鹿なん?」

「ぶっ飛ばされてえのかクソアマ」

「クソアマっ!? 今彼女にクソアマって言ったの!?」

「やかましい。んなことよりそのクレープもうちょいくれよ。美味い」

「はぁー? まじ納得いかないんですケド……まあいいや、はいっ」


 ついっ、クレープを友介の口元へ持って行き、食べさせてやる。友介に密着しているのとは反対の手に持っているため当然密着度は増す。凛の柔らかな胸が友介の腕に密着しむにゅりと、妖しい感触が返って来るのに加え、何より道の真ん中で抱き合うような格好になっているため自然頬が熱くなる。

 動揺を悟られないよう表情を押し殺し、惜しげもなく晒された胸元を見ないよう視線を外すし必死にポーカーフェイスを装う。

 だが、やはり友介も健全な男子高校生。腕に押し付けられたこのマシュマロという言葉ですら形容することのできない感触に抗えるわけもなく、ちらりと視線がそちらへ向いてしまう。


「あれぇ~? 友介どこ見てんのーっ? えっち」

「……ッ、てめっ、」

「はい、あーん」

「んぐっ」


 目を細め、口角を釣り上げた生意気な笑みを浮かべる凛が、それはもう嬉しそうな声でからかい始める。友介の視線を遮るように、クレープを彼の目と自分の胸のちょうど中間地点でふりふりと左右に振り始めた。


「クレープ美味しいっしょ? つかアレ、どしたん? 何でそんなちょっと残念そうな顔してるん」

「あァッ? んな顔してねえよっ」

「~~~! ~~~~っ! ~~~~~~~~っっ! ちょ、友介まじ可愛すぎっ!」


 拗ねてそっぽを向く友介に悶えた。心底嫌そうに口の端を歪めるその表情が、凛の嗜虐心を煽る。少女の押してはならないツボを押してしまい、胸がキュッ、キュッ、とひきつけを起こしたように跳ねた。その多幸感たるや、形容することができぬほど。


「ああー! もうゆうすけぇー! もう、ちょうかわいい~!」

「ああクソ、うっぜえなマジで……ッ」


 不機嫌になる友介に、さらに気を良くする凛。際どい衣装でぴょんぴょん跳ねているせいで、その攻撃的なマシュマロが地震を起こす……友介は頭がおかしくなりそうだった。

 凛は上機嫌でさらにもう一つ「あーん」と言って友介にクレープを食べさせてやる。


「じゃあ次あたしね」

「わかった。じゃあ好きなだけお前をからかう」

「いや、別にからかわれる順番を交代するとかじゃないし! 今日はずっとあたしがからかうから!」

「あ? ふざけんなお前」

「えー、そんなちらちらおっぱい見ながら言われても説得力ないんですケドー」

「んの……っ」

「そうじゃなくて――」


 青筋を浮かべて凛を睨まれるもそれを全く無視し、凛はさらに身を寄せて、


ほっひ(こっち)


 はむ、と彼が左手に持っていたクレープを歯を立てず唇だけで咥えた。


「あむあむ」


 お行儀悪く、友介の食べさしを何度も何度も甘噛みする。ただでさえ柔らかいクレープの生地に唾液が染みこみ、口を離せば淫靡な糸が引く。


「おいひぃ……」

「……まだ、食ってねえだろ」

「えへっ」


 可愛らしく微笑んでようやくぱくりと一口。


「~♪」


 もう気は済んだのか、あるいは単にクレープが美味しかっただけなのか、凛はようやく身を離した。鼻歌まで歌っている。幸せそうなふやけた笑みはそのままだ。お尻を小さく振っているため、太ももが少し危ういことになっているが……まあ、こんな間抜けでもギャルだ。凛も計算してスカートを揺らしているのだろうし、自分の彼女の下着が他の男に見られる心配なども特にしなかった。

 ただやはり、こうして頬にクリームをつけていることにも気づかず鼻歌を歌っているところを見ると、不安を覚えないと言えば嘘になる。

 友介は溜息を吐きつつ、仕方なさげに本日二度目のほっぺクリームをぬぐい取った。


「ありゃっ?」


 急の刺激に驚いた声を上げるも、人差し指を咥える友介の姿を認めるや、少女はすぐに事態を悟った。


「赤ちゃんプレイ?」

「妊娠させてやろうか」


 何も悟っていなかった。


「うそうそ、クリームまたついてた? あんがと」

「下らねえ冗談言いやがって……」

「そんな友介もほっぺについてるけどね」

「あ、まじ?」

「うん」


 今度は凛が人差し指で友介の頬をなぞり、それを自分の口に咥えた。


「これも食べ合いっこになるん?」

「知るか。ならねえだろ」

「なるっしょ」

「どっちだよ」




「きゃーっ! 誰か、誰か……ッ、誰か助けてください……っッ!」




 刹那、甲高い女性の悲鳴が大都会の真ん中で響き渡った。明らかに切羽詰まった声。聞く方の心すら引き裂くような悲痛なそれを聞き無視をできるほど、友介も凛も薄情ではなかった。


「……凛、ここで待ってろ。とにかく一人にならないように逃げろ。出来るなら駅まで走って今すぐ帰れ」

「ちょっ、」

「俺は今から悲鳴が聞こえたとこへ行く」

「ちょっ、だから待ってって!」


 一方的に言い終え、凛をその場に残し走り出そうとした友介の腕をさらに強く抱きしめ、無理やり引き留めた。ぐいっ、と後ろから引っ張られた友介はバランスを崩し、あわや凛の額に後頭部をぶつけるその直前で何とか体の制御権を取り戻し、怒ったように見上げる凛へと視線を戻した。

 普段はチャラチャラしている凛の瞳は、今この時ばかりは真摯な怒りを宿していた。


「なに勝手に一人で行こうとしてんの」

「お前を一人にするのは悪いと思ってるけど、それでも早く逃げねえと危ね、」

「そうじゃないし!」


 不安がっている凛を納得させようとした友介だったが、それを遮るようにして凛が否定を返した。普段は聞くことのない怒りに満ちた声に、友介は疑問符を浮かべる。


「そうじゃなくて、何であたしを置いて自分だけ危ないとこに行こうとしてんのって言ってんの。あたしが逃げても、友介が死んだらあたしには意味ないし。友介のいない世界なんて絶対無理だし、もし死んだら自殺するから」

「なっ、お前ふざけん――」

「だから、それがヤならあたしも連れてって。あたしだって心配だし、何より友介一人だけ置いてくなんて、殺されるよりそっちの方が無理」


 揺るぎない意思を宿した瞳に射竦められ、友介はばれないように舌打ちをするしかできない。

 今から向かう場所に何があるのかわからないし、何が起きているのかもよくわかっていない。ただ、確実に高校生が首を突っ込んで良いほど事態は軽くないことだけは確かだ。

 それらの考察を踏まえれば、凛を連れて行くなど考慮するにも値しない愚劣の極みだ。愚策ですらない。愚挙。

 よってここは無理やり腕を振り払ってでも凛を突き放すべきなのだが――


「……っ」

「……ッ」


 真っ直ぐにこちらを睨む凛の視線に宿る不滅の覚悟を前にしたところで諦めた。こうなった凛は止まらない。普段はおチャラけている凛だが、こういう友介の危険の際は譲らないのだ。

 凛自身昔はこうじゃなかったのに、と言っていたので友介と付き合ってからこういう性格になったのだろうが、彼氏の友介としては嬉しさを感じると共に、やhりどうしても厄介だと思わざるを得ない。

 とはいえ、ここで凛を置いて向かったところでこいつは勝手についてくるだろう。それも友介の目の届かないところに。


 それは単についてこられるよりもっと厄介だった。

 平凡極まる高校生でしかない友介が付いていたところで、危険から凛を守り切れるかどうかはわからない。最悪の場合目の前で最愛の少女を失うことになるのかもしれない。それが嫌だから凛には逃げてほしいのだが……


 繰り返すが、凛は絶対に引き下がらない。

 となればもう、友介に選択肢は残されていなかった。


「……絶対に俺から離れんな」

「ん、おっけ」


 そして方針が決まったのなら、あとは行動あるのみだ。友介は凛の手をぎゅっと握り、騒ぎの中心部へと走り出す。

 人々が多少なり奇異の視線を向ける中、気にせず一直線に突っ走る。

 果たして、二人が辿り着いた先にあったのは――


「誰か、誰か助けてください……ッ。息子が、息子が中にいるんです!」


 炎。

 五階建てのビルの一階が燃えていた。パチ、パチッ、と火花が弾ける音が周囲に響き、揺らめく赤い威容が何者の侵入をも拒んでいる。おそらくまだ燃え始めたばかりで、窓から炎が凄まじい勢いで噴出しているということはないが、危険であることに変わりはない。

 そしてその建物から少し離れたところで泣き叫ぶ女性が一人。歳の頃は三十代前半といったところか。女性の叫びの内容からするに、この火事の中小さな子供が一人、中に取り残されているのだろう。まだ消防隊も到着していないため、子供を助けようという人間はいない。

 女性からさらに少しばかり離れたところには、野次馬たちが半円を成して並んでいた。皆一様に端末やらカメラやらを取り出して、燃えるビルを撮影するなり友人に連絡するなりSNSに投稿するなりしている。当然誰も中に入って子供を助けようとする人などいない。その中には凛と同じ学校の生徒もいた。ちらほらとクラスメイトの姿も見える。


「……、凛」


 振り切るように口を開き――直後友介は、凛の思考を吹っ飛ばすような言葉を聞いた。


「俺は今から中に入って子供を助けてくるから、お前はここで待ってろ。絶対にビルに近づくな」

「な、ちょっ――」

「大丈夫だ、絶対にすぐ戻る。お前を一人にして勝手に死なないから」


 くしゃ、と茶色に染めた髪を撫で、何かを言おうとした口を自身の口で塞いだ。凛が不意打ちに呆気に取られているその隙に、友介はくるりと反転して炎が揺れるビルへと駆け出した。


「は、ぅあ――ちょ、駄目だって友介マジ危ない――っ」


 凛の叫びは間に合わず、ハンカチで口を押えた友介は飛び込むように炎の中へと消えていった。


☆ ☆ ☆


「あのさぁ~~~!」

「……、」


 服の所々がちりちりと焦げ、体にも数か所火傷を負った友介に、凛がそれはもう不機嫌な声で詰め寄っていた。じとりと非難がましい視線を向けつつ、指を突き付けてくどくどとお説教をしている。


「何でいきなりああいう危ないことすんのっ? 彼氏が突然キスして火事の中に飛び込んで行くの見るあたしの気持ち考えてくんない!?」

「いや、でもちゃんと生きて帰って来ただろ。しかもわりとすぐに」

「そういう問題じゃないから! あんたマジで死ぬかもしれなかったんだから気を付けてよね! もう、ほんっと! ほんっっっとに気が気じゃなかったんだから!」


 結果だけ言えば、友介は無事子供を助け出すことができた。まだ小学生に上がる前のその男の子には目立った外傷もなく、助けに入った友介も制服を焼かれ軽く火傷する程度にとどまった。

 ただ、凛が怒っているのはそこではない。まず、突然火の中に飛び込んだことを咎めているのだ。


「でもあそこで誰かが行かなきゃ中のガキが死んでたかもしんねえだろ」

「それは、そうだけど……」

「別に消防隊がいたら俺だって無理しねえよ。誰が好き好んで熱い火の中に飛び込むかよ。でも、あん時は誰もいなかっただろうが。なら、誰かがやるしかねえだろうが」

「うぅー、納得いかない! そもそもあたしは、状況とか関係なく勝手に中に飛び込んで行ったことを怒ってるんだし!」


 母親のお礼も聞かずにその場を立ち去った二人は、今は当初の予定通り図書館へと向かっている最中だった。まだ現場からそう遠く離れてもいないため、わらわらと近所で起きた火事に向かって人々が歩いて行く。

 二人はその流れに逆らうように歩きながら、きーきーと言い合いを続けていた。


「そんなことより」

「そんなことより!?」


 凛の怒りの叫びが都会の真ん中に響き渡る。

 何がそんなことより、だ。今この時、友介の説教以外に大切なことなどない。


「お前宿題持ってきたのかよ」

「あ」


 間抜けな声を上げた理由は、察しの通りなにも用意を持ってきていなかったからだ。


「お前……今日どうすんだよ。宿題ねえのに図書館行ってなんか意味あるか?」

「あ、あぁー……っていや、そうじゃなくて! 今はそれより大事な話してるっしょ! なに話題を逸らそうとしてんのっ」

「ちっ」

「ちっ、じゃないから」


 ズビシ、という効果音が鳴りそうな勢いで指を再度突き付ける凛に、友介が辟易したようにため息をつく。

 説教をしたところで、既に己の行動の問題点を理解している友介には意味がないことだ。また同じ状況に陥れば友介は同じように行動するし、曲げるつもりもない。

 ただ、やはり彼女を不安にさせたのは男として頼りないというか、至らなかった点でもあるなと反省もしていた。


「まあ、何だ。悪かったな、今度は――」




「あっれぇー? 凛と……うわ、安堵じゃん。やっぱさっきのって安堵だったんだ」




 明るい無邪気な声が聞こえ、その後声の調子は百八十度変わり悪意と嫌悪の混ざったものへと変質した。

 振り返ればそこに、二人のクラスメイトである甘屋美夏と伊藤ヒカリ、さらには新谷蹴人を始めとした男連中まで揃っていた。

 凛が属しているグループの友人たちだった。気の良い奴らで、常に明るく面白いため凛自身そこまで嫌っているわけではない。凛の軽い性格もあり、話もノリも良く合うため、学校ではもっぱら一緒にいることの多い人間たちだった。


 ただ……今こうして会うのは、絶対に嫌だった。

 凛は嫌悪や怒りを必死に押し隠した笑顔を浮かべながら、まるで友介を守るようにぎゅっとその腕を抱きしめて友達たちと相対した。


「あ、オヒサ~。みんな今から図書館で宿題?」

「そそー、凛も来る?」


 美夏が友介など眼中にないと言った風な調子で、凛を遊びに誘う。まるで、今すぐそこの少年を捨ててこっち側へ来いと脅すかのように。


「私たち今からみんなで分担して宿題やって、それを最後に見せ合いっこすることになってるんだよね。凛がいたらもっとはかどるし効率いいから」


 ヒカリもそれに賛同し、凛を誘う。

 が――


「ごめん、あたし友介と一緒にやるんだー。だからまた今度」

「いや、別に俺なんか放って行って――」

「うっさい」


 小声で馬鹿なことを口走る友介の腕をつねり黙らせる凛。その表情には先とは異なる種類の怒りのようなものが滲んでおり――しかし、どこか頼りなかった。


「んじゃ、ごめんね。あたしら行くわー」


 そう言って苦笑いを浮かべて手を振り、もう片方の手で友介の腕を引いてその場を立ち去ろうとする。

 その直前に、こんな言葉が聞こえた。




「正義の味方気取りキモいんだよ、犯罪者」




「…………ッ」

「――」


 凛が悔しそうに歯を噛み、友介は軽く瞑目する。二人は何も反論しないまま、言われるがままになっていた。


「クラスメイトの前で子供助けて好感度上げようとしてんのかもしんないけど、まじキモイからやめろって。誰もあんたなんか認めてやらないから」


 友介も凛も、何も言い返さなかった。

 見当違いの悪意が少年に注がれ、そして少年は何も口にしない。

 結局、友介と凛は図書館へ行くことをやめた。


☆ ☆ ☆


 結局宿題は、図書館からはだいぶ離れたところにあるカフェですることになった。

 凛は宿題を忘れたため、友介の持ってきた宿題を凛が今日代わりにやり、後日それを写すという段取りだ。

 そうして勉強デートも終わり、今は帰り道。


 茜色の斜光が街を照らし、今日という一日の終わりを告げていた。

 今日の夕焼けは、嫌いだった。

 赤く染め上げられた街は明日への希望よりも、今日の終わりへの寂寥を掻き立てる。

あの時何も言えなかった悔しさや、友介のために何もできない自分の不甲斐なさを思うと、どうしても気分が沈んでしまう。


「……悪かった」

「ちょっ、何で友介が謝んのっッ? 別に友介は何も悪くないじゃん! 人殺しがどうだとかだって、あんなの嘘なんでしょ? なのに友介が謝ること……っ」

「んなもん関係ねえよ。お前に嫌な思いをさせた……俺はそれが嫌なんだよ」

「……、」


 その一言で、沈んだ気分に一条の光が差す。その謝罪に込められた友介の愛情を自覚して、凛の口角が僅かに緩んだ。

 友介の精神的ショックは凛のそれよりも遥かに大きいはずだ。ただ子供を助けただけで、あれだけ言われたのだから。態度には出さないが、ただの高校生に耐えられるものではないだろう。


「……なあ、凛」

「いや」

「は……? いや、まだ何も言ってねえだろ」

「どうせ別れるとか言うつもりだったでしょ。友介と一緒にいたら、あたしまで友達いなくなるから……とか」


 凛はそこでいったん言葉を切ると、その顔を明るく染めて、


「むーりぃー! あたし絶対友介と別れないから」

「……」

「あたしがいなかったら友介ほんとに一人になっちゃうじゃん。あたしがいるから今友介はしあわせなのに、そのあたしが消えて友介は耐えられるん?」

「それは、まあ……」

「無理でしょ? だからあたしは絶対別れてやんない」


 断固とした意志だった。

 安堵友介の味方は、きっと世界に四宮凛しかいないから。

 この脆くて弱い強がりの少年の隣をこうして歩いてあげられるのは、自分一人しかいないから。


「……なら、まあ。そういうことなら、ずっと一緒にいてくれ。俺は……お前がいれば、それだけで幸せだからよ」

「うん、ずっと一緒だし!」


 ぎゅっと握る手が熱い。手を握っているだけで、どうしてこんなにも嬉しい気分になるのだろうか。

 ああ、愛しい。

 この少年が、何よりも誰よりも大切だ。

 ずっとずっと一緒にいたい。離れたくない。


「あたしが、ずっと一緒にいてあげる」

「……っ」

「世界が終わっても、無人島に取り残されても、人類が絶滅しちゃっても、あたしは最後まで友介と一緒だから」

「う、うるせえな……恥ずかしいことばっか言いやがって」

「あっれぇー? 友介恥ずかしいん? あたしに抱き着かれて恥ずかしがってんの!?」

「だからうぜぇってのボケ」


 ずっと、ずっと一緒だ。この特等席は誰にも渡したりするもんか。

 安堵友介の隣は四宮凛だけのもので、誰にも渡したりなんかしない。

 この愛しい少年と、一生一緒に生き続けるんだ。

 皺だらけのおじいちゃんとおばあちゃんになっても、ずっと二人でこうやって手をつないで……


 だけど、どうしてだろう。

 凛はひとつだけ、何か大切なことを見落としているような気もするのだ。

 それが何なのかはわからない。

 ただ、いつの日か思い出せたら、それもまた友介に話してあげよう――少女はそう心に決めて。






 ――――そして、たった一人で、颯爽と街を歩く赤い少女とすれ違った。


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