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Rule of Scramble  作者: こーたろー
第七編 夏の活劇
196/220

???? Line 偽りなる者たち 2.砂糖味のしあわせ

「おい」

「むにゃ……」

「おいコラ」

「んもう……どこ触ってんの友介ぇ……でへへ……あたしのスカートが短いのは見せるためだっつのぉ~……触んなしぃ~」

「は? 黙れ起きろ」

「――――ッ!!?!?!????!?!? いっっっっったぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」


 頭部に強い衝撃を受け、夢の世界へとリップしていた女子高生四宮凛の声が図書館中に響き渡った。ただでさえうるさい大声が、静謐かつ広大な空間ではより一層喧しく響き、一緒に勉強していた友介の心に良くない影響を及ぼす。若干顔を赤くして、怒りを押し殺しながら周りに頭を下げている姿を思い浮かべてもらえば、彼が今どれほど心に負荷を受けているかがわかるのではないだろうか。

 遅れて凛もやらかしたことの重大性に気が付き、友介の隣に並び頭を下げ始めた。


「……お前な」

「ま、まじごめん……」


 一通り頭を下げ終え、もうここにこれ以上滞在することはできないと悟った二人は勉強道具を片付け、図書館を後にした。

 外に出ると茜色の陽光が二人を出迎えた。

 哀愁を纏う光に照らされる街を見ていると、この幸せだった一日も終わるのだな、と柄にもなく寂しい気分になってくる。

 どうしてか凛は、人が寝静まった夜よりも夕暮れの街に『終わり』を実感させられる。きっと明確な終わりである夜が来る前触れだからなのだろう。楽しかった一日の終わりを突き付けられるその景色が、昔はたまらなく嫌だったのを覚えている。

 ただ、今は違う。


「ねえ友介っ」

「あん? つか暑い。夏なんだから引っ付くなよ」

「はぁー? こんな可愛い彼女捕まえといてその言い草はなくない? つぅーか腕におっぱい当たってどうせ喜んでんでしょ?」

「ちっ……ったく、うぜえな」

「そんなん言って離さないあたり、やっぱ友介ってあたしのこと大好きだよねぇ~」


 確かに今日は終わる。やり残したことはたくさんあるし、この少年ともっとずっと一緒に話したいしずっと触れ合っていたいという気持ちが暴れ回っている。

 だけど、凛は知っている。

 今日は確かにお別れかもしれないが、明日はまたこの少年と顔を突き合わせることになるのだ。

 今日できなかったことは、明日やればいい。だから明日はきっと、今日よりももっと幸せな一日になるだろう。

 だって、この少年が隣にいるのだから。

 二か月前に告白し、OKを貰い晴れて両想いとなったことで、正式に四宮凛の彼氏となった安堵友介。

 みんなの嫌われ者で、友達なんて一人もいないような男だが、四宮凛だけは知っている。この少年はたとえ、彼を嫌っている誰かが助けを求めた時でも、当たり前のように手を差し伸べるのだと。

 そしてそんな心優しく、小物くさいくせに妙に器が大きいこの少年が、明日も明後日も同じ時間を過ごしてくれる。それを知っているから、凛はもう夕焼けが怖くなかった。


「つか全然宿題進まなかったんだけど……」

「そりゃあんだけグースカ寝てたらな。俺はお前が寝てる間に数学の宿題終わらせたから」

「うっそマジっ!? 見せてよ!」

「考えとく。一ヶ月待ってくれ」

「それ夏休み終わってるんすけどー。けどー」

「知るか。お前が悪い。……てかお前、四時くらいまでは普通に起きてただろうが。何でそれで何も終わってねえんだよ」


 瞬間、ビクッ、と凛の肩が小さく震え、無理やり作ったような引き攣った笑顔を浮かべた。まだ付き合って二ヶ月程度しか経っていないが、これが何かを隠そうとしている表情だということは、すでに友介は知っていた。


「え……なにが?」


 案の定とぼける凛だったが、それが友介の嗜虐心を煽った。口の端を邪悪に歪め、目を逸らす凛に顔を近づけ、至近距離から問いかける。


「お前、何か隠してるだろ」

「はっ? ぜ、全然隠してねぇーし! ばっかじゃないの!? あたしが何でそんなことするわけっ!?」

「いいや、何か隠してるだろ。付き合ってから毎日一緒にいるんだぞ。ずっとお前のこと見てんだからそれくらいわかるっての」

「――――ッッ」

「――?」


 逃げ道を塞ぎ凛を追い詰めるために発した言葉に、凛はなぜか爆発するように顔を真っ赤に染めた。

 まさか今さら顔を近づけた程度で照れるような清い関係を続けてきたわけではないはずだが、いったいどうしたのだろうか……?

 友介はより注意深く監察しようとさらに顔を近づけ、首を傾げながら端正に整った凛の顔を凝視する。

 凛はプルプルと小動物のように震えながら、しかし口角はなぜか上がっていた。それを必死に抑えようとしているようだが、どうやら無理なようで、何とも幸せそうな気持ち悪いニヤケ顔が浮かんでいる。


「……一緒」

「は?」

「だから、友介と同じ。あたしも、ずっと友介のこと見てたら、時間経っちゃって……その、全然集中できなかった」

「え、あ……? お、おう……っ。そう、か」

「うん、そう」


 凛が応えたところで、二人の間に奇妙な沈黙が降りてしまう。至近距離で見つめ合ったまま固まってしまい、お互い相手の瞳に吸い込まれそうになる。

 帰路につくサラリーマンや部活帰りの高校生たちが過ぎ去る中、まるでそこだけ別の世界の法則が働いているかのように時間が止まっていた。


「そう、なのか」

「そう、なのだ」

「お、おう」

「うむ……」


 照れて赤くなった顔を隠すように、友介が顔を離しそっぽを向いてしまった。凛も気恥しくなり、くっつけていた体を離し明後日の方向へ視線を向けた。もう恋人同士なのだから気にする必要はないのだが、互いに不意打ちで心臓を刺し抜かれたせいか、気まずいというか恥ずかしいというか照れるというか……とにかく言語化しがたい奇妙な感触が胸を満たしていた。

 それを悟られないよう、お互いなんでもない風を装い興味のないふりをして歩いているが――しかし、二人の右手と左手は、しっかりと繋がったまま。指を絡め、恋人の手のぬくもりを手のひら全体で感じる。

 触れている箇所から幸せ成分(?)が流れ込み、凛も友介もきゅっと心臓を締め付けられるような幸福に苦しめられた。痺れのような感覚が胸の中心から末端まで行き届き、反射的につないだ手に力がこもる。


「……えへへ」

「なに笑ってんだよ」

「わ、笑ってねえし! 馬鹿じゃないの!?」

「いや笑ってただろうが」


 いつもの呆れたような瞳を向けつつ嘆息した友介は、そこで一呼吸置いて、


「……んで、明日はどうすんだよ」

「明日、家誰もいないけど」

「……そうか。なら行くわ」

「…………うん、待ってる」


 明日の予定が一瞬で決まってしまい、再び静寂が二人を包んだ。

 しかし、今度のそれには気まずさや恥ずかしさといったものはなかった。ただいつも通り、隣に好きな人がいることを噛みしめて、手のぬくもりを感じて……さらに幸せを求めて一歩、一歩とまた近づき、先と同じようにぴたりと体をくっつけた。

 今度は、嫌がらなかった。


「そういやあそこのクレープや美味しいんだよねー。今度行かない?」

「なら明後日にでも行くか? そろそろ日帰りで遠出でもしようかって思ってたんだが、準備とかあるしな」

「あ、じゃあさじゃあさ! 明後日は普通にデートして、それとは別に二泊三日くらいで旅行行かない!? 二人で遊園地行くしかないっしょ!」

「別に行くしかねえことはねえだろ。何だったら行かなくていいっての。つか日帰りっつったろ」

「あんたあたしと旅行行きたくないの?」

「いや、それは行きてえけどよ……そもそも、高校生って旅行行けんのか?」

「知らね。行けんじゃない?」

「適当言うなよお前……」

「でもまあ、行けなくてもいいけどね。友介と一緒ならどこでもー」

「そういうのはずいからあんま言わねえ方が良いぞ」

「はあ? なにそれー」


 そして結局、最初と同じくらいまでに引っ付いて、凛が友介の肩に頭をちょこんと乗せる格好になる。

ポニーテールにした茶髪からシャンプーの匂いが漂ってくる。気になって視線を向ければ、二ヶ月記念でつい先週プレゼントしたシュシュで髪を纏めていた。

 一ヶ月記念日は友介がすっかり忘れて、凛にこっぴどく怒られた。それを受けて二ヶ月記念日は先んじて凛に似合いそうなシュシュを購入し、デートの際に渡してやったのだ。渡した瞬間の凛の笑顔は、それはもう嬉しそうだった。蕩けたクリームのような甘ったるく緩み切った笑顔を見ると、プレゼントをした甲斐もあるというものだった。

 あれから毎日そのシュシュを付けて学校やデートに来ているあたり、相当気に入っているらしい。あまり口にも態度にも出さないが、友介はそれが嬉しかった。

 好きな人が自分のプレゼントを毎日付けているというのは、彼がかんがえていた以上に幸せなことだった。ただ見ているだけで、ただ眺めているだけで、少女に愛されていることがわかるから。


「つか明日ほんとに家来んの……?」

「なんだ、嫌なのかよ」

「嫌じゃないし、てか来い。親いないつってんでしょ。……そうじゃなくて、来るなら来るで準備とかあるから」

「別にいらねえだろ。どうせ部屋が汚いことなんてわかってんだ。一緒に掃除してやるよ」

「ぜってェー明日一時まで来んなよ! 来たらマジぶっ殺すかんね!」


 というわけで、明日は家デートとなったらしい。

 これまでもお互いの家に言ったりすることはあったが、二人きりというのは初めてなのでどうして緊張してしまう。

 凛は期待と不安、そして――(部屋を片付ける)覚悟を胸にした。


☆ ☆ ☆


 あくる朝。


「よう。来ちまった」

「まだ午前十時だっつのっッッッッ!」


 部屋を片付けるために朝九時に置き、下着やら服やら、果ては見られるかどうかわからないタンスの中まで片付けようと息を巻き、メイクもせずに片づけを初めた九時半から三十分後、お決まりの文句とともに現れた恋人に、凛は靴を投げつけた。友介は華麗に避けた。腹が立つ。


「んなことよりお前のきたねえ部屋を掃除しに来てやったぞ」

「喧嘩売ってるってことでいいんよね? いくら会いたいからって三時間フライングはないし、これはボコってもいいよね?」


 とはいえいくら抗議しようと、友介がそれを受け入れるはずがなかった。ノーメイクで憤慨する凛に近づき、その頬に口づけをして黙らせた。


「…………ずるい」

「知るか」

「……入れ」


 結局、上手く(?????)やり込められた凛はしぶしぶ友介を家に上げることに。

 部屋は全く片付いていない。こんな惨状を彼氏に魅せるのは女として終わっているのだろうが――まあいいか。どうせ部屋が汚いことなどばれていたのだし、友介だって嫌がらせのためだけに来たのではないのだろうから。

 その証拠に、


「んじゃ、掃除始めるか」

「ん……」


 そうして二時間後、部屋は物の見事に片付いていた。服を洗い、掃除機をかけ、物を捨ててと……軽い大掃除のようになっていた。

 さすがに疲労も尋常ではなく、友介も凛もベッドに上半身を預けて死んだように動かない。

やがて顔を互いに向け合って、そのやつれた顔を覗き見た。二人とも相当酷い顔で、どちらも恋人に見せていい顔ではない。


「……凛、その顔アホみてえにブスだぞ」

「それ、彼女に言う言葉じゃなくね? ぶっ飛ばされたい?」

「……」


 凛が頬を膨らませて怒った顔を見せてみるも、威圧感の欠片もない。せいぜいがフグだった。いつもならば「フグじゃねえか」などと言って茶化すところだが、その元気もない。

 なので、妥協案として両手をのろのろ動かし凛の頬を優しく包み、少し力を入れた。すぼめた口から空気が抜けて、膨らんだ頬がたちまちしぼんでいく。完全にペットにする扱いだったが、凛は特に嫌がりもせずされるがままになっていた。

 それから髪を梳いて、後頭部に手を置くとぐいっと引き寄せた。


「……、するの?」

「は? 別にそんなこと言ってねえけど?」

「~~~っ! ばっか、もうマジで嫌い! ほんとにもうすぐそうやってからかっ――」


 喚き立てる凛の口を自身の唇でふさぎ、黙らせた。驚愕と反射にも似た恐怖に肩が震え、いつのまにか瞳から涙がこぼれていた。

 しかし時間が経つにつれ恐怖は引いて行き、入れ替わるように愛しさと快感が込み上げてきた。

 凛は友介に身を任せ、ベッドに押し付けられる。されるがままの凛は、とろんと蕩けた瞳で覆いかぶさる友介を見上げる。やがておぼろげな意識のまま両腕を恋人の首に回し、強く引き寄せ今度は自分から唇を重ねる。

 初めての時はリードしようとして完全に立場が逆になり、それはもう動物のように扱われたのだが、今ではこの通り、ある程度までは人間としての尊厳を取り戻した。


「友介――」

「なんだよ」

「今日、パパとママ、夜まで帰ってこないから」

「聞いたよ」

「言ってたっけ」

「ああ」

「あっそ……んっ……」


 そうして二人は、より深く触れ合い、愛し合い、ひとつになって溶けていった。


☆ ☆ ☆


「うぅ……っ、また、また乱暴にされたしぃ……。彼女にあんなことしないでしょふつぅー……」

「あん? なんか文句あんのかよ。喜んでたくせに」

「……それは、そうだけど……」


 布団を体に巻いて友介から距離を取る凛が、じとりと非難がましい瞳を向けつつ、頬を朱に染めていた。

 現在凛は腰が砕けて動けず、服を着る体力すらも使い切っており、今はもう、常の如く彼の体にしなだれかかる力すら湧いてこないという有様だ。

 まだ上半身裸のままの友介に抱き着きたいし、できることならその汗を舌で味わいたいのだが、それすらできないため何とも歯がゆい。


「……」


 そんな凛の心中を察したのか、友介は面倒くさそうにため息をつきながらも布団を巻いて距離を取る凛に近づき、布団越しに後ろから抱きしめてやった。


「何する気?」

「何もしねえよ、もう俺も疲れてんだから」

「嘘だし。絶対変なことする」

「……お前わざとやってんのか? 別にこのまま続きをしてもいいんだぞ」

「ご、ごめん……これ以上はマジで死ぬかも。……あと、そろそろ引き返せなくなりそう……」


 友介と付き合ってからこっち、凛は順調に人の道を外れ彼に調教されているような気がする。

 友達のいない根暗な草食系だと最初は思っていたが、ふたを開けてみれば全くそんなことはなく、普段のデートやベッドでの営みでも例外なく凛は終始ペースを握られていた。

 ただそれは友介自身も意外に思っていることらしく、二週間ほど前にそのことを友介に話した際は、


『なんか……俺もわかんねえわ。悪い』


 と謝られた。

 凛からしてみれば別に謝ってほしくないというか、そういう友介のところも好きなので別に構わないというか……こうしていつもと違い、顔を赤くして気まずそうに謝っている友介も可愛いな、といった感じなので気にしていない。ただ、もしもできることならもう一度あのしおらしい友介を見せてほしいと言ったところか。

 あとは、狼狽する友介なども見ていたい。

 いいや、もっと単純に、友介を一番近い所からずっと見続けていられれば、それだけで心臓が爆発するような幸せが全身を包んでくれる。

 いつものぶっきらぼうな友介も、気まずそうに頭を掻く友介も、何気ない風を装いあえて開けた凛の胸の谷間をちらりとばれないように覗くスケベな友介も、凛の奇行に困惑する友介も、何だかんだ言って凛にベタ惚れなことを必死に隠そうとする友介も、全てが愛しい。


「ふふ……っ」

「あん? なに笑ってんだよ、キモいな」

「別に何もないしー」


 そして今は、困惑する友介と、凛にベタ惚れな友介を見たい気分だった。

 しかし友介は滅多なことでは狼狽しない上、全く好意を口にしてくれないひねくれ者であるため、生半可な奇行では呆れられて終わってしまう。

 ここは恥を捨て、大切な何かを失う覚悟を決めて極まった(・・・・)行為に走らなければならない。それも――とびっきりに可愛い奇行を。

 果たして、凛の足りない頭で導き出した答えとは――




「にゃあー♡ 友介好きぃ~~~! にゃにゃにゃあー、にゃあーにゃあー♡」




「…………。………………………………………………………………………………………………っッッっッッッッっ!!!!?!???!?!?!???!?!?!???」


 目を閉じ、奇妙な鳴き声を発しながら、少し汗ばんだ頭を友介の胸板にすり寄せる凛を見た瞬間、頭からつま先まで稲妻が走り抜けたかのような衝撃が貫いた。


「にゃあーにゃあー。撫でてほしいにゃあー」

「……!? ……ッ? ……!?!??!?」

「にゃー! にゃ、にゃにゃにゃにゃー!」


 すりすり。ぺたぺた。ぺろぺろ。

 一通り友介の体に自分の髪の匂いを沁み込ませた凛は、一度頭を離し、その丸く大きな瞳にほんの微量のしずくを溜めつつ、友介の瞳を覗き込む。手を軽く握り、頬の横で猫のように丸めた凛が、反応を示さない友介を下から潤んだ瞳で見上げる。脳内に『?』が乱舞している彼の間抜けな顔を見てクスリと笑い、それからまたにゃーにゃー言って髪の匂いを友介の胸板にこすりつけた。


「にゃあー、にゃんで友介はそんなに可愛いのかにゃ?」

「――――ッッ!?」

「その驚いた顔が可愛いのだにゃー♡ にゃあ、にゃあー! にゃあー♡ にゃあー♡ にゃあにゃあにゃあー♡♡♡」

「―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」


 くいっ、くいっ、と両手を顔の横で動かしてはポーズを取り、頭をこすりつける凛に、友介の思考は完全に停止した。真っ白である。空白、漂白、絶白。圧倒的城に支配され――否。

 純白の空間に紅一点。ポニーテールをしっぽのように揺らしながら友介に抱き着いてくる凛の姿だけは鮮明に浮かび上がる。

 もはやこの段階で、友介の脳髄は精神が猫へと変じてしまった四宮凛以外の何者にも興味を示さなくなった。ただ目の前に存在する世界で最も可愛い存在だけを瞳に収め、その全てを脳の記憶(メモリ)に保存しようとニューロンが限界を超えて駆動した。

『可愛い』という究極概念の前に、人間の知性は敗北したのだ。

 進化の最果てはここにある。この生物を目撃すれば、かのダーウィンも五体投地し歓喜に震え、滂沱と涙を流しながら天界へ召されていたことは間違いない。これこそが天使――否、女神にして栄光の女王なり。


「…………抱き着いていいか」

「もうすでに抱き着いてるにゃん♡」

「……世界一、かわいい」

「にゃああああああああー♡ にゃにゃにゃにゃにゃにゃ~~~……にゃ!」


 ぽかぽかとまるで力の入っていない猫の手で胸板を叩いてくる。奇怪極まりない鳴き声を発する茶髪ギャルJK(16)に、しかし脳がフリーズした友介は馬鹿にすることも遠ざけることも出来ずされるがままになっている。


「凛……好きだ」

「にゃあーにゃあーにゃあー♡」


 バカップルだった。

 そんな砂糖のような幸せな時間は、二十分後に帰宅し、凛に頼みごとをしに部屋に入って来た彼女の母親にこの光景を目撃されるまで続いた。


☆ ☆ ☆


 予期せぬアクシデントにより散々彼女の両親にからかわれた後、そのまま凛の家で夕食をいただいた友介は、日が落ちて空が暗くなってきた頃になりようやく帰路についた。

 凛の家は友介の住むマンションからは少し遠いため、電車に乗らねばならない。今は凛の家の最寄りの駅へ行く途中である。

 犯罪を減らすために設置されていると言われる青色の街灯で照らされた夜の街を歩きながら、友介は隣に並ぶ凛に声をかけた。


「……危ないから別に送らなくていいって言ってんだろ」

「あとでママに迎えに来てもらうから大丈夫」

「それでもだっつの。別に俺はお前に見送ってもらうほど貧弱じゃねえっての」

「別に心配してるとかじゃないし。もっと友介と一緒にいたいだけだし」

「ツンデレなのかそうじゃねえのかはっきりしろよ」


 つないだ手の指を互いに絡め合いながら、肩と肩が触れ合うほどに近い距離を保ち、同じ速度で歩いて行く。もう肌を重ねたことも両手で収まらないほどあるというのに、肩と肩が掠るように触れ合っただけで心臓が高鳴るのは、付き合う前の微妙な関係性の時から全く変わっていない。

 あれだけ汗をかいたというのに少女から漂ってくる匂いは依然甘く刺激的であり、男と女の決定的な違いを脳髄に突きつけてきた。

 鼻孔をくすぐる甘い香りと、何気ない息遣いだけでめまいのような感覚が襲ってくる。頭がくらくらなり気絶しそうだ。


「……暑いんだが」

「じゃあ……離れんの?」

「……いや、このままでいい」

「ほんっとわがまま」

「別にそんなんじゃねえよ。てかもう返事は『にゃあー♡』じゃねえのか?」

「その話やめろしっっっッ!」


 ズビシッ、と可愛らしい手刀が友介の頭にヒットした。

 お返しとばかりにデコピンをすると、凛が「いたっ」と可愛らしい声を上げたたらを踏んだ。

 転ばないよう腰に手を回し抱きしめる。すると当然二人は密着する形となり、相手の顔が至近距離に現れる。


「……なに」

「いや、別に」

「なにって聞いてんの。答えろし」

「……好きだ、凛」

「……あたしも好き。大好き、超好き。世界で一番好き。一生一緒だよね」

「そりゃわかんねえだろ」

「いや、そこは頷いとけ!」


 ズビシッ! と先よりもさらに強い手刀が友介の頭に叩き込まれる。


「痛えよアホ」

「はぁー? 彼女にアホはなくない? アホは」

「黙ってろアホ」

「あぁー! またアホって言った! あたしこう見えて、期末でケツったの数学と現文と理科と地理だけなんだけどぉー!」

「ほとんどじゃねえかめっちゃアホだな」

「アホだったわ」

「ったく……しゃーねえな。今度勉強教えてやるよ」

「でも友介もアホじゃん。あたしと点数そんな変わんないじゃん。理科とかモル計算しかあってなかったじゃん」

「そんなことねえよ、舐めんな」

「じゃあ周期表何個あってた?」

「はっ、俺は十五個あってたぜ」

「あたしは二十個ですけどぉー!? 友介馬鹿じゃん、あたしの方が賢いしぃー」

「うるさい黙れカス」

「うるさい黙れカス!? 今なんて言った!?」

「うるさい黙れカス」

「そのまま繰り返すな! それ彼女に言っていい類の暴言じゃないからね!? 限度声過ぎ! まじリミット!」

「馬鹿じゃねえのお前、何言ってんだ?」


 腰から手を離し、また歩き始める。

 いつもと同じような、中身などまるでない下らない会話。デートの時も放課後一緒に帰る時も、家でくつろいでいる時も二人だけで勉強している時も、いつもいつも同じような中身のない話ばかりしている。

酸素の無駄としか思えぬ行動なのだが、それがどうして幸せに感じてしまうのだろう。何も特別なことはしていないのに、それが逆に嬉しかったりするのは、どうしてだろう。


「あははー!」

「お前なあ」


 そして、この幸せは明日もまたやってくる。

 明日のことなんて誰にも分らないのに、友介にも凛にもそれが確信できた。

 この代わり映えのない、だけど繰り返すような幸せな日常。二人を優しく包んでくれる砂糖のような毎日は、きっと二人を永遠に出迎えてくれることだろう。

 十年後も、二十年後も、三十年後も……百年後も、ずっとずっと一緒に生きていたいと、言葉には出さずとも、二人は同じ気持ちだと知っている。


「あ、明日どうする友介! なんかプランあるならいいけど、無いなら昨日言ってたクレープ食べに行かないっ?」

「ああ、そういや言ってたな。どうせ明日なんもねえし、一緒に行くか。どうすんだ? 昼めし食ってからか?」


 もちろんいいことばかりではない。

 友介がぶっきらぼうな態度ばかり取るせいで喧嘩をすることもあれば、凛に嫌味を言われた友介が機嫌を悪くして、それから大喧嘩をすることだってあった。

 まだ付き合って二ヶ月だというのに、両手の指では数え切れぬほど喧嘩をしたし、自分たちの相性が良くないのではと悩むときもある。

 それでも、何だかんだ次の日には仲直りをしているし、当たり前のように手をつないでどこかへ出かけている。


「んー、やっぱ朝からにしない?」

「マジかよ。眠くねえか……?」

「彼女が早く会いたいっつってんのに眠いって何?」

「でも眠いし」

「あれ、アピール意味なし?」


 触れ合っている手のひらが温かい。からめた指がむずがゆい。無理だとはわかっていても、この初々しい好きの気持ちがずっと続けばいいと、そう思う。

 ずっと一緒にいて、ずっと胸を高鳴らせて。

 そして、いつかは――


「ね、それよりさ」

「あん? 何だよ」

「――大学とか、どうすんの?」

「……お前は?」

「あたしは……普通に進学かな」

「俺もだな」

「……」

「……」

「どこ、受けんの?」

「わかんねえ」

「…………」

「…………」




「……一緒の大学、行くか(行きたい)




 そしていつかは、宝物(こども)を授かって、家族みんなで過ごせたらいいな。

 隣で一緒に歩いてくれる大切な人のことを思うと、そんな未来への期待を膨らませずにはいられなかった。

 二人は歩く、どこまでも。

 目的地なんてない。当てもなく、毎日を生きるために、ただ歩き続ける。

 それがきっと、幸せだから。

 どこにでも転がっている、当たり前のような幸せをひとつひとつ拾っていくような、どこにでもあるような人生。

 だけどそれが、きっと何よりも大切なことだと知っているから。

 戯曲も絶望劇も救世譚も何もない明日を、二人は当たり前のように待っている。


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