##### Walhalla with Cardinal 4th――Ⅲ
少女の最初のアクションは酷く単純なものだった。
愚鈍極まる行為であり、はた目から見れば下らぬ一手。だが、少女にはそれしか打つ手がなかったのだ。
『あたしを助けてくれた安堵が、何か知らないけど追われてる。近くにいる人、誰か助けてあげてくんない!?』
仲のいい友達数人にチャットを送り、その後SNSでも同じような内容のことを呟いただけ。
世界の闇を何も知らない凡人らしい、ありきたりでありふれた無力な策だ。
アリアのライブによる絶対洗脳がその程度で解けるはずがなく、たとえ少女のつぶやきに反応する者らがいたとしても、五千人の人間を相手に戦える人間などいるはずがない。それこそ友介のような描画師や一騎当千の戦士でもない限り。
そんな人間はこの街に友介以外に存在しない。
だから、こんな行動には何の意味もなかったはずだ。
誰も気付くことはなく、気付かれたとしても無視される程度のものだったはずなのだ。
『あら、凛さん――あなただけはまともなのね。うふふ、次は私が手取リ足取り教えてあげるわあ』
「な、だれ――!?」
その全ての大前提を覆す声が端末から漏れ聞こえてきた。
いつの間に通話状態にしたのだろうか。電話がかかってきた気配はないが、まさかハッキング……?
年若い少女の声だった。どこか聞き覚えのある声なのが気になるが――いったい誰の声と似ているのだろうか。いいやそもそも、この少女はなぜ凛の携帯にかけることができたのか。なぜこのタイミングなのか。その狙いは? まさか民衆を操っている誰かがいるのだろうか――?
想像力が乏しくアリアのライブが洗脳の引き金になっていることすら理解していない凛は、当たり前のようにこの瞬間に起きている異常事態についていけていない。
対しスピーカーの向こうにいる少女は、困惑と疑問で動揺する凛の反応を楽しんでいるようだった。
『うふふ……こっちの私に会うのは初めてよねえ、凛さん』
「え、ちょ。てか何であたしの名前――」
当惑する凛の言葉を遮って、艶美な声はこう告げた。
まるで――勝利をもたらす女神のように。
少女を英雄として選んだ神の如く。
『私は知識王メーティス、痣波蜜希よ。舞台は私が整えるわ。役者は、私の仲間を助けてくれることに専念しなさい? 今日のあなたは主役になるのよ』
☆ ☆ ☆
少女をひと時英雄とする魔法使いの登場。
それは少女に異能こそ与えなかったものの、しかし『力』は与えた。
情報という名の力――より具体的に述べるならば『知識王メーティスの援護』である。
『んふふ、館内に操られている人間がいる心配はないわぁ。好きに走り回りなさい。一つだけ生体反応があるから、そこへ向かって一直線に』
「ちょ、ちょちょちょちょ! ミーちゃんちょい待ち! なに、なになになに? キャラめっちゃ変わってないミーちゃんそんなにセクシーだったっけっていうかそもそもなんであたしの番号知ってるしいやそもそも何してんのこれアタシ一体どこに行ったらいいのっていうか一体全体どういうわけか説明しろしッッッ!」
『はぁ、そんな風に喚きたてるのはあまり品があるようには思わないわよ、凛さん? けれどまあ、状況がわからないというのは仕方ないものね。何やら一気に質問されたようだけど、ひとつひとつ丁寧に答えてあげるわ』
どうやら凛の悲鳴にも近いマシンガンじみた質問攻めも、『知識王メーティス(何それ厨二病?)』たる蜜希ならば処理することが可能だったらしく、艶美でありながらも優しく答えた。
『101110101100011110111101111010011010010011001110101111001100000111001100111001001010010011000000101001001011000110100100110010011010000110100010101100111100111010100100101010111010010011001011101110111110010010100100110011101010010110101101101001011110001110100101111010011010010011001111
「いやいきなり二進数で話すのやめて怖いからッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!」
『もう、我がままね。まだ最初の質問にすら答えてないのに』
「これだけイチゼロイチゼロ高速詠唱しといて!?」
『二進数って不思議よね』
「……いや、今のあたしからしたら今のミーちゃんの方が不思議だわ。不思議ってより怖いわ。返して、あたしのミーちゃんを返して」
『凛さん、静かにして頂戴。ここが鉄器の腹の中だということを忘れないでもらえるかしら』
「うぅー、何か最近あたしの扱い酷くない……?」
『101001001100000010100100101010111010010011101001110000001100010110100100101010111010010011001011101001001011011110100100110010101010010010110101101001001010010010100100111010001010010010101001』
「分かったから! 静かにするからもう二度と二進数言語法を用いるのはやめてええええ……」
『意味がわかったのね……』
「……悲しいことにJKの会話の八十パーセントはフィーリングだかんねー……」
イヤホンから聞こえてくる声に返しながら、閑散とした館内を全速力で走る凛。敵陣の只中にいることを思えば迂闊な行為のように思えるが、見張りはおらず術者と思われる者がいるメインホールから遠い場所にいるため、特に気にする必要はないと蜜希から許可を得ている。
『次の角を左よ。そのまま直進して非常階段に入りなさい』
「おっけい!」
蜜希のナビの通りに駆け抜け、徐々に核心へと迫っていく。
扉を開けて非常階段を駆け下りながら、凛はさらに問いを発した。
「どうしてあたしだったの?」
『――――』
その問いには――――全てが詰まっていた。
唐突な核心を突く質問であった。
〝どうしてあたしだったの?〟
その問いの真意を、痣波蜜希が間違うことはなかった。
どうして、四宮凛だったのか。
安堵友介でも風代カルラでも新谷蹴人でも他の誰でもなく、四宮凛だったのだろうか。
四宮凛はどこにでもいる凡庸な少女で、凡俗と言って差し支えのない存在で、平凡を絵に描いたような人間だ。
学校で多少知名度が高いからと言って、一般人の枠を超えることはない。当たり前のように高校を卒業し、大学ないしは専門学校へ通い、就職を経て結婚をする。そして夫との間に子供をもうけ、平々凡々ながらも確かに幸福だった人生を全うして当たり前に死ぬ。
四宮凛という少女のこれからの人生を簡潔に述べるならば、そういうものだ。
四宮凛は只人だ。只人として生きて、只人として死ぬ定めにある。
少女はそれをわかっている。
安堵友介にとっての何者にもなれない己を理解した瞬間から、そうした人生が待っているのだと知っている。
だからこそ、問うた。
どうして四宮凛だったのか。
どうして自分だったのか。
凡人なのに、只人なのに、一般人なのに。
なぜ、この下らない女が、五千人の人間を助けるなどという英雄的所業を成すに能うと認められたのか。知識王と呼ばれる女傑の眼鏡に適ったのか。
己惚れた発言だ――心底そう思う。
そして、未練がましい問いだとも。
要は、未だ資格を求めているのだ。あの少年の世界に、縋りつこうとしているのだ。
過去描画師たちの戦いに巻き込まれた経験があり、その折に安堵友介に救われ、知らぬところで知識王メーティスなどという大物とパイプを築いていた。
それは――四宮凛が何かを持っていたからで。
だから――――四宮凛は選ばれたのだと。
そう願っているのだ。
自分には何かがまだある。彼の隣に立つ資格がある。あの少年と肩を並べる権利を持っている――そんな風に。
『――凛さん』
「うん」
『理由なんてないわ』
――少なくとも、凛さんが求めている理由はね、と付け足す。
『私が凛さんにコンタクトを取れたのは、凛さんが洗脳に掛かっていなくて、SNSで安堵くんを攻撃しないでと投稿していたからよ。それを見た私が、「ラッキーだ」と思ってあなたにコンタクトを取っただけなの』
「…………、」
『それだけよ。少なくとも、凛さんを中心とした陰謀に巻き込まれたわけではないわ』
安心すべき一言だった。
この異常事態は四宮凛を中心としたものなどではなく、彼女が今こうして事態の収拾のために動いているのだってただの偶然。ここに立っている人間が四宮凛でなければならない理由などどこにもない。
四宮凛は袋小路に追い詰められていないのだから。
しかし凛は喜ぶどころか、小さく疲れたようなため息を吐いた。期待を裏切られたかのような切なげなそれ。その根底にあるものを、当人である凛は自覚していた。
悔しいという気持ちがある。
やはりどうあってもあの少年は遠いのだと、改めて思い知らされる。
未練がましく藁に手を伸ばしたが、ごく当然の帰結としてそれはもろもろに崩れ去った。
だが――
「知ってたってのっ」
それを承知で凛はここに立っているのだ。
誰に選ばれたのでもない。運命や世界の意思などと呼ばれる不確かなものに導かれ、面白おかしく踊る人形や役者ではない。
四宮凛は、確かな己の意思でもって今ここに立っているのだから。
いくつかの偶然が重なり合ったことは事実だ。
それでも、それは『陰謀』や『運命』などではなく『偶然』で、凛は戦うことを、一人の少年を助けることを決意した。
他の誰でもない己の意思で。
誰も頼んでいない、誰も望んでいない。
ただ四宮凛が望み、四宮凛が願ったのだ。
「ならあたしの存在は相手にとってイレギュラーになるわけじゃん。――上等っしょ」
強い少女だと――蜜希は素直にそう感じた。
「そんで、こっからは?」
『次は扉を開けてまっすぐよ。それからしばらく直進。……ねえ凛さん、私からも少しいいかしら』
「なにが?」
『質問よ。異常が起こった時のことを教えてほしいの。それと……術者の予想をしてほしいわ』
「……? まあいいけど。先に言っとくけど、誰がこんなことを起こしたのかなんて、あたし全然わかってないよ。てかミーちゃんなら知ってるんじゃないの?」
『……どうしてかしらね、私も皆目見当がつかないのよ。いいえ……そうじゃないわね、状況的に容疑者は一人しかいないはずなのに、その人が犯人だとは到底思えないの』
「……? なに言ってんののミーちゃん? 馬鹿になった?」
『……』
「ごめ、まじごめんって! だからガチな感じで黙るのはなしッ!」
はあ、と蜜希はイヤホンの向こうでため息をついて、
『私のもこの感覚がわからないのよ。どう考えても犯人は一人だけなのに、その人間を犯人だとは思えないというか』
「……、」
『自分の意思とは関係なく行為を向けさせられているというか、そんな感じよ』
「うむむ……やっぱマジ意味わかんないわ」
蜜希の言う通りに角を折れながら、凛はもう一つの質問にも答えておく。
アリアのライブの最中に凛が正気に戻ったこと。気が付けば観客たちが異常な興奮を魅せていたこと。アリアのライブが終わり、呪文のような言葉を告げた後に、観客たちの瞳に狂気が宿り出したこと。
そうしたもろもろの事実を告げた後に、凛はこう口にした。
「んー、何が原因なんかな」
『……それが、おかしいと思う』
「ほえ?」
間の抜けた声を上げる凛。何のことだかわからないという表情だが――しかし、やがて血を抜いたように顔が青く染まり始めた。
「……――いや、ッ……待って」
待て、待て。待て待て待て。
今自分は何を口にした?
アリアのライブ中から始まった観客たちの異変――ここまではいい。
アリアが妙な呪文を唱えたその後に、彼らの瞳に狂気が宿り此度の騒動が始まった。
そして――それを引き起こした人物がわからない。
「――――」
おかしくないか?
そんなわけがないだろう。
わからない? 術者の見当がつかない? 黒幕の正体を掴めない???
これだけ状況証拠が揃っておいて、その可能性に思い至らないだと?
「……ねえ、ミーちゃん。おかしいよ、これ……」
だが、真の異常はそこではない。
これだけ証拠が揃い、容疑者の当たりも付いた――だというのに、その少女を犯人だと思えない自分がいるのだ。
彼女がこんなことをするはずがない。
あの少女がこのような大惨事を引き起こすはずがない。
あんな――幸せを運ぶために存在するような少女が。
そんな心理が働いて、凛の意識が無理やり選択肢の中から彼女の名前を消去しようとするのだ。
『これだけ揃っていれば、どう考えても術者は春日井・H・アリアよ』
「だよ、ね……。でも、さ……」
『……ええ。そうね、私も同じよ……どういうわけかしら、彼女が術者ではないと信じたい自分がいるのよ』
何をどう考えたところで術者はただ一人、春日井・H・アリアしかありえない。あの少女が何らかの魔術か染色を使い五千人を洗脳し、安堵友介に差し向けた。
ライブはそのための下地であり、術式を起動させるための儀式のようなものだった。
……こう考えるのが自然の推理だ。誰にでもわかる、小学生にでも想像が付く当然の帰結。
にもかかわらず、凛も蜜希も『他に黒幕が潜んでいるのではないか』などと現実味の薄い真実があればと願っているのだ。
「……あたしは一回アリアちゃんと会って話してるから、もしかしたら無意識のうちにあの子のことを敵視したくないって思ってるのかもしんないけど……」
『私には、そういうものはないはずよぉ』
無論、密かにアリアの大ファンだったという事実もない。存在は知っていたし歌も好きだが、妄信的な信者かと問われればノーだ。
ならば、なぜ――?
再三の自問。答えなどでないと諦めていたが――凛の脳に閃くものがあった。
「――――ッッ、……ッ」
刹那、少女の全身が熱という熱を奪われたが如き寒気に襲われた。うなじに氷柱を差し込まれたかのような怖気。無数の羽虫が足元からよじ登ってくるかのような……
「ちが、……うそ、そんな……っ。ちがう、そんなはずないッ!」
『ちょっと、凛さん。急に騒がな――』
「黙って!」
『……ッ』
駄目だ、考えるな。違い違う、それは違う。
ありえない――ありえないのだから、それ以上思考をそちらに持って行くな。
ああだけど、しかし――否定すれば否定するほどに、現実が壊れていく(・・・・・・・・)。
そんなはずはないのに――でも、だけど。しかし。
今四宮凛が見ている全てが、何者かに魅せられているものなのではないか――そんな錯覚に陥っていく。
「――」
いいや、本当にただの錯覚か?
今四宮凛が見ている全てが嘘ではないという保証がどこにある。
だっておかしいいだろう? ここまで自分の心がまともに機能しないことがあるだろうか。これほどまでに、自分というものがあやふやになるだろうか。
どうして誰かを疑うことすらも許せれない? 四宮凛は春日井・H・アリアを疑っているのに、それがどうしてか許せれない。まるで心を操られているかのように。
まるで夢の中にいるかのように。現実がおぼつかず、認識が追い付かず、思考がから回る。
『――っ、――――。――、』
そもそもからして、五千人の人間が洗脳されて友介に襲い掛かっているなど――非現実的であるにもほどがある。
ライブが儀式? アイドルが黒幕?
それよりはよっぽど――
『凛さんッ! しっかりしてっ!』
「――ぁ、」
鼓膜を突き破って脳まで直接突き刺されるかのような鋭い声に刺激され、あらぬ方向へ飛びかけていた凛の意識が正常に戻る。弱々しいながらも自己を確と繋ぎ止め、四宮凛が現実に立つ。
「ごめ、ん……」
『気にしなくていいわぁ。相手が相手だもの、自分が洗脳にかかっているかもしれないと疑心暗鬼になったとしてもおかしくはないわ』
蜜希の声を聞きながら凛は拳を握りは開き、握りは開きを繰り返す。ここに己がいると、各個たる四宮凛が立っていると認識する。確信する。揺れていない、揺らいでいない。奪われてなどいないと。
「――っ」
そこに安堵を抱くとともに、ぶりかえす恐怖がある。
小さな油断でこれほど容易く揺らぎ壊れてしまう。小さな疑問が波紋を呼んで津波と化して、いつの間にか化け物の口となって己を呑み込まんとしていた、その恐怖。
あるいは、すでに化け物の口に呑み込まれているのではないかという、拭えぬ疑念。
それら数多の不安に押し潰されそうになりながらも、凛は必死に駆けた。
『ねえ凛さん、それでさっきの質問だけれど』
「え、あぁ――うん?」
『ライブのこと、教えてほしいのよ。どうしてあなただけ洗脳に掛からなかったのか。……凛さん自身にもわからない?』
「うーん……ちゃんとはわかんないかな。何か身に覚えのある感覚が体に駆け抜けて、そしたら一気に冷静になれたんだけど……あれ何だったんだろ」
『身に覚えのある……?』
「うん、こう……静電気みたいな感じ? まあとにかく、それまであたしもみんなと一緒にわけもわかんないで熱狂してたんだけど、それからは別に普通だったわ。洗脳にもかかってないし」
『……、』
「ミーちゃん?」
『何でもないわ。とにかく今は急ぎましょう』
「オッケイ!」
恐怖も疑念も不安も尽きる気配はない。それでも少女は、戦場へと向かった。
☆ ☆ ☆
――また穢した。
――大好きなはずの歌を、また穢した。
胸の内側に鋭利な爪で傷付けられたかのような痛みが走った。今すぐ頭をかち割り脳髄をぶちまけたくなる衝動に駆られる。
「――」
それら掻き毟りたいほどの嫌悪感を寸前で堪えると、金髪の少女は重い足取りでステージから降りた。
きらびやかな衣装だった。空色の衣装は少女の長い金髪に合っており、果実は呼べずとも確かに膨らみのある未成熟な胸の実りや、あどけなさを残しつつも完成しかかっている顔たちもあって妖精のような印象を与える衣装であった。
だが今、その少女の表情は暗く重い。漏れ出てくると息はどれもこれもため息ばかりで、光の中を華やかに踊るアイドルとしての風格や雰囲気というものは皆無であった。
スッ……、と。幽鬼のようにふらつく足取りで観客席へと歩き始めた。転ばないようステージを降り、一番近くにあった席に腰かける。
「――――」
そうして、顔を上げた。
瞳は虚ろ。のろのろとした挙措は、少女の心がここにないことを示していた。
「わたし、は……――」
――何をしているんだろう?
そんな問いは、もう喉から漏れることはなかった。
もう幾度となく、何度となく繰り返した自問であるから。そして答えもまた、すでに解が出ておりわかり切った事実でしかなかった。
持って生まれた素質が悪かった。
もっと単純に、自分が悪かった。
春日井・H・アリア――いいや、今は偽りの名で己を慰めるのはやめよう。
アリア・キテネという、どこにでもいるようで、誰よりも逸脱していた町娘が悪かった。
己が持って生まれて性質が悪かった。
総じていえば、運が悪かった。
ただそれだけの話だった。
勘違いを正しておくが、アリアは己が悪行に加担していることも、今現在アリアの術をもって悪を成していることも理解している。人を操り少年を追い詰めている現状。これが正義であるはずがない。世界の救済、理想の体現、楽園の創造――どんな言葉で脚色し、己を慰めようとしたところで、少女の行為が人を不幸にしていることに変わりはない。
だが、それでも――と思ってしまう。
このくそったれな声がなければ。
こんな最低の魔法さえなければ。
春日井・H・アリアではなく、アリア・キテネの声で歌っていたはずなのに。
それは叶わない。どうあってもありえない。どれだけ望み焦がれて手を伸ばしても、そんなもしもは存在しないのだ。
生れた時から決まっていた。歌い始めた時には、すでに魔女だった。
あの日から。――違う。
己の歌が自覚の有無にかかわらず、聞いた者に桃源郷の幻を見せてしまうという事実を知ったあの日の、そのずっと以前から。
アリアの声は人を偽りの楽園へと落としてしまう。歌の魔力に魅入った人々は皆、例外なく頭の中で思い浮かべた天国へと旅立ち廃人と化してしまう。
こんな嘘っぱちはいらなかった。こんな気持ちの悪いギフトは欲しくなかった。
歌で人を幸せにすると言っても、泣いている人の涙を止めてあげられるような、そんな些細な力になれるだけで良かったのに。
少し背中を押してあげられればそれでいい――そう思っていただけなのに。
何がどうして、こうなってしまうのだろう。
なぜ大好きな歌をこんな風に使わなければならなくなってしまったのだろう。人に力を与えたい、背中を押したい、笑顔にしたい――そう願ったはずなのに、どうして今、私は人を傷付けようとしているのだろう。
こんなズルみたいな力で少しずつ人気を上げていき、応援してくれているファンを利用して人を傷付けて――そうして自分の望みを叶えた後で、いったい何が残るというのか。
「……あの人たちは、違ったな……っ」
思い出す。
少女がこの時代に来て知った、『アイドル』という存在――その頂点のようなグループ。
炎のように熱い魂を込められた歌、希望に満ち溢れた声、爆発するように光るステージ、その中で熱狂するオーディエンス。
彼女たちの歌は本物だった。怪しげな異能も宿っていないまっさらな声だった。なのに、アリアの背中を押してくれる不思議な力があって、そのおかげか彼女自身今こうしてアイドルとして活動するようにもなった。自分以外にも多くの人に力を分け与えているだろう。今この瞬間も。
それに比べて己の何と卑小なことか。どれほど邪悪で、アイドルらしからぬことか。
……馬鹿らしい――内心の独白を、そう思う気持ちは少女の中に確かにある。
今さらこんな自己嫌悪に何の価値があるのだろうかと。こうして迷って、辛い辛いと言いながら人を傷付けて、それで何かが変わるとでもいうつもりなのかと。
逡巡して、後悔して、葛藤して、それで己の行った所業が許されるわけではないというのに。
こんなものがただの自慰行為だといことは、アリア自身が最もわかっている。
だが、だからといって――そう割り切れるものではないのだ。
だって、選択肢なんて最初からなかったようなものなのだから。
確かにこの道はアリア自身が決めた道だった。そうじゃない道も選べた。自分の生きた時代で、外道には堕ちず、自分の成した醜悪な行為に怯えながら無味無臭の乾燥した人生を生きるという道も選べた。
歌うことを己に禁じて。
村人たちを快楽の幻世界へ叩き落としてしまった罪を償うために、魔女として殺されるという道もあった。
だけど――
無理に決まっていた。
後者はまだいい。己の望みを叶えた後ならば、贖罪などいくらでもやってやる。人生を懸けて罪を償ってみせよう。
だが、歌うことを禁じる――それだけは絶対に無理だった。
アリア・キテネという魔女の力を持っただけの町娘にとっても、春日井・H・アリアという歌を兵器にする邪悪な魔女にとっても、歌うことをやめるという選択肢だけは取れなかった。
取れるわけがなかった。
だって、全てだったのだから。
全部だったのだから。
たとえそのせいで誰がどうなっていたとしても、それでも。
もしも世界が壊れるのだとしても、絶対にやめられないものなのだ。
「どうして、私だったんですか……?」
シートに腰かけながら天井の向こうにいるであろう神様とやらにそう尋ねるアリア。その情景はまるで、教会で祈りを捧げる修道女を描いた絵画のよう。
「どうして、私の声はこんな風になってるんだろう……」
問いかけはやがて、漠然とした嘆きに変わっていた。
己の邪悪を理解すればするほど、どうして自分が悪にならなければならなかったのかと叫びだしたくなる。
どうして、どうしてどうしてどうして。どうしてっ!
どうして自分だったの?
何で誰も彼もが幻に落とされてしまうの?
この時代に来てからは力の制御を練習したこともあり、無秩序に人の心を腐らせるようなことはなくなった。それでもやはり、歌えば誰もが魔力に当てられ熱狂する。
アリアの歌ではなく、声に込められた魔力に当てられ、魔術に囚われ、狂ってしまう。
違うのに、そうではないのに。
幸せにするとはそういうことではないのに。
ただ自分の本当の声を聞いてほしいだけなのに。
まっさらな声で歌って、それで僅かでも誰かの背中を押したかっただけなのに。
「だから――」
「だから安堵を殺すっていうの? ふざけんじゃねえってのクソアマ」
偽りのアイドルの自慰行為は、そんな絶対零度の一言で遮られた。
☆ ☆ ☆
............???
#####......error
wait...wait...wait...
Back to your root imitated ■th layer by A■■■a M■■n■■.
・
・
・
・
・
・
・
・
――灰色の世界だった。
死灰、死灰、死灰。
死に向かっている世界。
何もかもが無味乾燥の、終わった世界だった。
太陽の光は分厚い灰色のカーテンで遮られており、大地もまた雪のように積もった死の粉で覆われている。
家屋の多くは焼け落ちているか、腐って自然倒壊しているかのどちらかであり、文明が崩壊しているようにしか見えなかった。
人の気配は――ない。
「……どこだここ?」
気配はない。こんな終わり切った世界ならば、まさか死体となっているのではとも思ったが、それすら見つからない。
降り注ぐ灰が積もっているとはいえ、足首にも満たない高さであるため灰の下に埋もれているということもないだろう。
人がいない。誰もいない。少なくとも、ここにはいない。
「あ。――来たのか、友介」
その矢先に、後ろから声をかけられた。
「――ッ?」
ベルトに差した拳銃に手を伸ばそうとして――しかし、そこに何もないことを知ると舌打ちを漏らして後方へ飛び下がる。染色を発動せんと意識を集中する。
だが。
「……? おまえ、何だその顔……?」
「はははっ、やっぱりまだわたしの顔を認識するのは無理らしい。それも仕方ないか、この前ようやく赤を通じて『三層』にアクセス出来たばかりなんだし」
「……?」
「それに……わたしのことなんて覚えているはずがないか」
「あァ……? 何を言ってやがるテメエ」
後ろに立っていたのは、少女だった。少女であるはず、だ。
だが、しかし――
その少女は全てが不可解だった。
意味不明であり、理解不能であった。
最もわかりやすく不可解だったのが、少女の面貌だ。
顔が、無い。
いいや違う、これでは誤解を招く。
顔はあるのだ。だが――まるで真っ黒な鉛筆で塗り潰されたように顔を認識できない。どんな顔をしているのか、わからない。目も鼻も口も耳も何もかも見えているはずなのに、確かな像を結べないのは何事か。そのくせ、どんな表情をしているのかはわかってしまう。
今は、そう――どこか切なげで、けれど不遜に邪悪な笑みを浮かべていた。
「お前とわたしはもう関係がないからな。他人同士……どころか、本来は因果がどう螺子くれたって再会するはずはないんだが」
「お前訳わかんねえ顔で訳わかんねえこと言ってんじゃねえよ、マジで訳わかんねえだろうが」
あまりにも酷い友介の言い草に、しかし少女は気を悪くするどころか嬉しそう(?)に笑い出した。
「相変わらずだな、友介。安心したよ」
「あん? 勝手に出てきて安心すんな。つか、ここどこだよ、何で俺はこんな所にいるんだ?」
「質問が多いな。そう焦るなよ、少しゆっくりしていけ。どうせすぐに意識を戻してここから立ち去るんだ。今は少し――」
なぜだろうか。
この少女と話していると、懐かしくなって死にたくなる。
こんな灰色の世界が、どうしてか自分の居場所のような気になってしまう。
ここにいたい、この少女と一緒にいたい。
そんな感慨すら湧いてくる。
顔も知らない、名前も知らない。ここがどこかもわからない。
にもかかわらず、涙が出るほど懐かしい。
それに、この懐かしい感覚――どこかで、経験したような……
そんな出所のわからぬ郷愁に浸っているうちに、死灰の世界が崩れていく。
有機的な崩壊ではない。まるで世界に見せかけていた張りぼてが剥がされていくかのような。
三次元ないしは四次元的な世界が、二次元的な崩壊を起こしているとでも言えばいいのか。
どこか現実味の欠けた崩壊だった。
壊れる世界の中――しかしただひとり、友介の目の前で笑う不明瞭な少女だけが、確たる存在を保っていて。
「今は少し――この気持ちに浸っていたいんだ」
その声を最後に、荒廃した世界が奇怪に崩れ落ちた。
・
・
・
・
・
・
☆ ☆ ☆
世界が崩壊し終わると同時、友介の意識は穏やかな支配の世界から、色鮮やかな現実へと帰還した。
かすむ視界が徐々に明瞭さを取り戻し、石のように重かった体に力が入り己の一部であるという実感が戻ってくる。
「っ、……」
「なんだ、起きたか?」
どういう風の吹きまわしか、膝枕をしていたらしいリリスが上から覗き込んでくる。不敵な笑みは相変わらずで、先までの取り乱した様子も消えている。
「どれくらい寝てた?」
「二分か三分というところだな。さすがに治療はまだ終わっていないぞ」
「別に頼んでねえよ」
「なっ……」
心外そうに顔を赤らめるリリスを無視し、大して柔らかくもない幼女の膝から頭を離して立ち上がった。肩を回し体の調子を確かめる友介は、建物中から聞こえてくる己へぼ悪意をそよ風のように受け流しつつ、すぐ近くで間抜けな女の子座りのまま口の端をヒクつかせているリリスへ顔だけ向けた。
「それより、だ。これからどうすんだよ。このまま引きこもってるわけにもいかねえだろうが」
「このガキ。……まあいい、確かにその通りだな。いつまでもここにいたところで追い詰められるだけなのだし、何かしらのアクションは必要だろう。だがな、ガキ」
「ガキガキうるせえぞガキ。子供が背伸びすんな」
「――――……ッ、ふ、ふふ……年長者への敬いというものが欠けているらしいなあ」
今度こそぶちぎれそうになったリリスだったが、年長者のプライドにかけて寸前で踏みとどまった。
「だがな、安堵友介。さっきも言ったと思うが、奴らの狙いはお前や私自身ではなく、私たちが向かう先にあるジブリルフォードの隠れ家……もっと言えばそこにある資料だ。電子か紙かは知らんし、それを持ち出すのかその場で廃棄するのかも不明だが、どちらにせよ奴らにそれら貴重な資料を奪われてしまったとなれば、後からそれらを閲覧することはまず不可能になる。だからこそ、慎重に行きたいんだよ」
友介も彼女の言わんとしていることは理解していた。敵の狙いがもしもただ単なる破壊ならば、その建物ごと燃やし尽してしまえばそれで終わりだからだ。
もしも仮にジブリルフォードが地下室を造っており、そこに資料を隠していたのだとしても、相手が同じ枢機卿ならばそこまで考えを巡らせて破壊を行うことだろう。
ゆえに、ここは慎重に行動の指針を決めなければならない。敵に位置を知られないまま、如何にして目的地にたどり着くか――と。
こうして敵が自分たちを探している今しか、落ち着いて作戦を考える暇はない。もう一度彼らの前に姿を現してしまえば、今度こそ時間も余裕もなくなることだろう。
だが――
「リリス、それは多分どっちにしろ同じだぞ」
「は?」
間の抜けた声を発するリリスに、友介は何度目になるのかもわからないため息を吐き出しながら、
「相手は〝あの〟楽園教会だぞ。街を全部焼き払って資料を滅却するくらいのこと、余裕でやってくるぞ」
「確かに、な……」
そうだ、敵はあの楽園教会なのだ。目的のためには一人の少女に消えぬトラウマを刻み付け、国を一つまるまる使い潰してまでその少女を追い詰めるような人間の集団。常人の思考では、まともな人間の考え方ではその小賢しい計算や卑小な予想ごと食い散らされるのが落ちだ。
誰も彼もが常軌を逸した描画師どもの集まり。世界救済などというお題目を掲げながら千単位で人を殺す奴らが、いつまでもこちらのルールに従ってくれる道理はない。
「ならここで隠れて作戦立てようが、一気に突っ切ろうがどうせ結末は変わんねえだろ。俺らはほとんど詰んでんだ。今こうして軽く寝て、喧騒から離れて冷静になったからわかる。もう選択肢なんてねえ。敵の術中にはまった時点で、取れる策なんぞひとつもない。あっちが用意したレールの上に乗って、その上でぶっちぎる以外に道はねえよ」
まず前提を見直さなければならない。
安堵友介とリリス・クロウリーは詰んだ。
リリスの動向はすでに教会に捉えられており、彼女が友介に接触し協力を仰ぐことまで予想されていた。
そこまで掴めていれば、あとは特効薬を作るだけだ。
今回の場合は一般人の洗脳による数の暴力。
友介が傷つけることを忌避するような者たちを起用することで、彼の最大の力たる『黙示録』の破壊を完全封殺してきたという次第だ。
すでに蜘蛛の巣に囚われている。あとはもう捕食されるのを待つだけ。
だからこその、中央突破だ。
策を弄する隙はない。そもそも身動きが取れず、対応することなど不可能。ならば座して食われる時を大人しく待つか? ――そんな選択肢を取れるようなら、最初からあんな化け物どもに反逆などしない。
ゆえに友介が選ぶ一手は極めて単純かつみっともないものだった。
『足掻く』――ただそれだけ。
その場で暴れて、ひたすら全身に力を込め、無様に体を振り回すことで巣を潰す。それしか道はない。
「なんか文句あるか?」
「貴様はどうしてそういう言い方しか出来ないんだ。だからラインに招待されないんだぞ」
「待てテメエどこまで俺のプロファイリングしてやがんだ」
「くはははははは! お前を利用すると決めてからは、それはもう徹底的にな! 女よりも男に好意を持たれる傾向にあるとの情報もあるぞ!」
「あァん!? 誰だそんな嘘っぱち流しやがったの!」
「――僕だよ」
「「――ッ」」
低レベルな言い争いをしていた友介とリリスの耳に、先ほど友介たちを苦しめた声が遠方から届いてきた。
方向はリビングのさらに向こう側。おそらく玄関のあたりだろうか。目の前にいるわけではないが、返事をされたことからこちらの位置は捕捉されていることは確実。まさか先ほどの喧嘩で居場所を特定されたわけではないだろうが、もう無用なお喋りは避けるべきだろう。
「友介くん、君はもう少し自分の魅力に気付いた方が良い。その破滅的で際立ったカリスマは、一介の高校生が持てるものじゃないよ」
壊れたラジオのように恍惚とした声音を漏らし続ける少年は、すでに学校の人気者だった彼とは大きく変わってしまっていた。
人から逸脱している。人の本分を忘れている。描画師らしく、狂人らしく、己が心を彩る深層風景に酔いしれている。
まるで恋する乙女のように、情欲めいた色さえ滲ませて。
「ああ、友介くん、友介くん。友介くん! 僕がどれだけ君に憧れていたか知っているかい? 凛が助けられたときの話を聞くそのずっと前から君のことが気になって仕方なかったんだよ? 君は知らないだろう? 僕がいつも君の背中を目で追っていたことを。君がどんな人生を歩んできたのか僕は知りたくて知りたくてたまらなくてね。いつこうして君と話をできるのかと楽しみにしていたんだ」
「慕われているじゃないかー? どうした、気持ちに応えてやらんでいいのか?」
「……あとで覚えてろよジャリガキ」
顔を真っ青にしながらもまだ軽口を返せる余裕があるだけマシだと己に言い聞かせ、思考を戦闘へとシフトさせていく。
鋭敏化する意識、攻撃的な情動が胸を支配し始め、自然腰のベルトに差した拳銃に意識が向いていく。最後だけを必死に抑え付けつつ、少年は傍らのリリスへ耳打ちをした。
「リリス」
「ひゃぅっ!」
「は?」
「……………………」
「……………………」
「なんだ、策があるなら言ってみろ」
刹那、両者の間に沈黙が走る。羞恥から赤面するリリスは咳ばらいをひとつこぼすと、何事もなかったかのように振る舞い始めた。
友介は呆れと嘲りを隠しもしない瞳でリリスを見下ろし、鼻で笑った。
「~~~~~っ、――ッ! ……~~~~~!」
犬歯を剥き出しにして真っ赤な顔で顔面に拳を叩き込もうとするリリスを、片手でおでこを押さえることで押しとどめつつ、友介は一転して気だるげな調子で続ける。
「奴はここで潰す」
「なに?」
思いがけない提案に、リリスが幼女じみた行為を中断して思案する。
「どういうことだ。一般人に手を上げるつもりはないんじゃないのか?」
「そのつもりだったけどな。あいつは例外だ。あいつだけは多分、本物の染色を発現してる。さすがに一般人じゃ通らねえよ」
友介の見立てでは、伊藤ヒカリや他の人々の染色は疑似的なもの、あるいは第三者によって無理やり引き出された一時的なドーピングのようなものだ。
たとえ枢機卿といえど、一般人の心象世界を染色を発現させるまでに単純化・精鋭化させることは不可能なはずだ。これは安易な希望的観測などではない。そんなことがまかり通るのならば、楽園教会はもっと早くその力を利用し、スマートかつ大胆に世界を救っていたはずなのだ。少なくとも、ブリテンという一つの国をまるまる使い潰すような真似をする必要もなかっただろう。
だが、あの少年はおそらく違う。
きっかけは確かに枢機卿の洗脳だったのかもしれない。
何事もなく生きていれば、彼の心象が爆発することもなかったのかもしれない。現実を歪めようなどとは思いもしなかったのかもしれない。
だが、鍵は開けられた。
塩基に酸がぶち込まれるように。
酸化剤と還元剤が触れ合ったかのように。
熱濃硫酸に水を加えたかのように。
劇的な反応を示し、
少年は現実を歪められることを知って、
そのステージに立った。
特にわかりやすい特徴が表れているわけではない。だが、感覚でわかってしまう。
あれが己と同種の『狂人』だと。
条理を外れた魔人と化してしまったことを。
「たとえどんな契機だったとしても、あいつが自分の意思で扉を開けたことに変わりはねえ。……別に殺すわけでも蜂の巣にするわけでもねえよ」
「別にそんな心配をしているわけではないが――」
「そこで、だ。テメエにはこの建物の中にいる連中を外に出してもらいてえ」
「なぜだ」
問うたリリスに、友介はさらに小さな声で耳打ちをした。
それを聞いたリリスが渋るような表情を浮かべ、しばらく目を眇めるなどしながら天井と足元に視線を往復させ、最終的にこう言った。
「……貴様、正気か?」
「絞り出した言葉がそれか。つかそれより、お前はできんのかよ。やってくれなきゃ俺は人殺しになっちまうんだが」
「心外だな、私が何年生きていると思っている。避難誘導程度お手の物だ」
「なら構わねえ。――俺はリビングで引き付けておくから、テメエは壁ぶち破るなりして住人を避難させろ」
「了解」
話がまとまったところで、友介は浴室を飛び出て廊下を走り抜けた。音を最小限に留めて駆けリビングへ飛び込むや、視界の端にここ最近で一気に距離が縮まったその少年の姿を捉える。
「やあ友介くん、久しぶり。今の僕は、君の友達にふさわしいかな」
「残念だが友達は作らない主義なんだよ、おととい来やがれホモ野郎」
腰のベルトから二丁拳銃を抜き払い、片方の銃口をそちらに向けながら唾でも吐くように言い捨てた。
友介の嫌悪と敵意にまみれた視線に晒された蹴人は、いつもの人懐こい笑みを浮かべるだけだ。いつもと変わらない――否、いつも以上に楽しそうな笑顔だった。
サッカー部のエースとは思えぬほど女々しい体に、中性的な顔。少々変わったなりをしているとも思うが、しかしどこをとっても狂気的なものは感じられない。
それが気持ち悪さを促進させる。
これほどまでに個人に執着し、染色まで発言して追いかけてくるなど、たとえ洗脳下にあると頭では理解していても感情が受け付けない。
「さあ、」
そんな友介の嫌悪に気付いているのか否なのか、蹴人は愉悦を隠しもしない笑みのままつま先で床を叩く。
瞬間、しゅいんっ、という空気を裂くかのような音が響き、友介の意識がそちらへ向いた。
音の出どころは蹴人の靴だ。何の変哲もないブーツのようにしか見えなかったが、どうやら小さな刃物を仕込んでいたらしい。刃渡り五センチにも満たない小さな刃が窓の外から差し込む日光を照らし、友介の『右眼』を一瞬遮り――
「続けようか」
直後、鉄火が弾けた。
☆ ☆ ☆
会場を全力で駆け続けステージに辿り着いた凛は最初、中にいる人物が真実洗脳の魔術を展開した者なのかどうかを見極め、もしもそうならば弱点や攻略の糸口を探るという目的の元、息を潜めて隠れていた。
時間的には、ちょうどアリアが席に着いた頃か。
少し離れたシートの影に身を潜めながら、少女の独白を聞いていた。ほとんど聞こえなかったしそう多く喋っているようではなかったが――
断片的であろうとも。
四宮凛のような凡人であっても。
ただひとつだけ、わかることがあった。
「だから安堵を殺すっていうの? ふざけんじゃねえってのクソアマ」
この女は舐め腐ってる。
甘ったれたクソアマ。凛が一番嫌いなタイプの種類の女だった。
ついさっきまでの誰かを見ているようで、虫唾が走る。
「アリアちゃん、あたしのことは覚えてる?」
イヤホンから呆れかえったようなため息が届いてくるが、もうどうでもよかった。
茶髪をポニーテールにまとめた派手な見た目をした凡庸極まる少女は、瞳に敵意の色を隠しもせずに宿したまま、少し離れた座席に腰かけている金髪の後頭部へ刺すような視線を送りながら、ゆっくりと近づいていく。
通路へ出てから回り込むように、かつて応援していたはずの少女の元へと歩いていく。
気の弱い者ならば男であろうとも卒倒しそうなほどの敵意を瞳に滲ませて。
凛はすでに、アリアが全ての元凶であることを疑いもなく信じている。彼女の存在を意識から除外しようとする不可解な無意識の働きも霧散しており、鷹の如く据えられた眼光はアイドルの少女を敵と認識して貫いていた。
だが。
「――――アリア、ちゃん」
だが、同時に。
射殺すような敵意と対照的な情動もまた、茶髪の少女の胸の奥から湧き上がっていた。
「なんで」
漏れた声は、表情や瞳の色からは想像もできぬほどに弱々しい。
「なんで、こんなことすんの……」
「応援、してたのに……っ」
「――――」
ほんの一ヶ月ほど前にアリアと知り合い会話をしたとき、凛は心の底から彼女を尊敬したのだ。
憧れたアイドルがいて、その人たちに追いつくために努力して――こうして、夢を叶えて大きなホールで歌っている。
歌には確かに魂が込められていて、聞いているこっちまで大声で歌いたくなってしまう。ステージで踊る姿は太陽にも花にも妖精にも見えて、それが血を吐くような努力の末に得られた華やかさだとすぐにわかった。
彼女が自分の夢を叶えてトップアイドルとして活躍するその日を、本当に楽しみにしていたのに。
「答えて……」
どうして、たった一人の少年を追い詰めるような真似を?
なぜ、自分を応援しに来てくれているはずのファンを操り人形のように扱えるのだ?
歌が好きだと言ったのは。
追い付きたいと言ったのは、全部嘘っぱちだったのかッ?
「答えてッ! 早く!」
この怒りは、この叫びは、正真正銘凛の心の奥底から湧き上がってきたものだ。
アリアの下らない小細工が介入する余地などないほどの、純なる怒り。
触れ合った時間は長くなかったかもしれない。言葉を交わした回数を思えば、こんな風に期待を裏切られたからといって怒りをあらわにするのは筋違いなのかもしれない。
だけど――――
心を動かされたのだ。
彼女の歌に、救われたのだ。
涙を、流したのだ。
告白することもなく失恋して、深く暗く重い深海の底まで沈んでいた心を、ついさっき、目の前の少女に引っ張り上げてもらったのだ。
あの歌に、救われたのだ。
「――答えたら、」
対して。
「――――答えたら、邪魔しないでくれますか?」
返答は、冷たい拒絶。
「私が一から事情を説明して、それで納得してくれるんですか?」
「……っ、それは、」
「私の境遇を語り、事情を全部説明して、どうして私が好きなものを穢してまでこんなことをしているかを教えたら引き下がってくれるというんでしょうか?」
戦意に燃える凛の瞳とは対照的に、アリアのそれは表現を思わせるほどに冷たい。
今さらこの少女は何を言っているのだろう。
確かに譲れぬ想いはある。これを成した理由もある。出来ることならば胸の内を全て曝け出し、その上で肯定されたい。応援してもらいたい。そういう気持ちがないと言えば嘘になる。
だが――ありえないのだ。
春日井・H・アリアは己が悪だと知っている。誰よりも彼女自身が自覚している。大切な歌を己の意思で穢しているのだと理解している。
やむにやまれぬ事情があった。
選択肢などどこにもなくて、少女が歌を知り業を知った時にはすでに手遅れだった。
自分の声を取り戻すためには、楽園教会という魔人の集団の仲間入りをするしかなかった。
それ以外に取れる道なんて、なかった。
しかし、それを告げたとして何になるのだ?
四宮凛が力になってくれるのか?
力に離れずとも、アリアを肯定してくれるのか?
頑張って、応援してるよ。あなたは間違っていないはずだと――そう言ってくれるのだろうか。
笑止千万、馬鹿らしい。
そんな期待は、全てを失ったあの日に夢と幻想とともに砕け散った。
何もしていなくても、ただ歌を歌ってみんなを幸せにしていたあの日々においてさえ世界は冷たく、自分の味方をしてくれなかったのだ。
そのうえ社会や人類を敵に回し、今現在もこうして多くの人々を操って一人の少年を追い詰めている。こんな自分に味方してくれる人間が、果たしてどこにいるというのだろうか。
「違いますよね」
「……、」
凛は何も答えない。
彼女の美しい碧眼に宿る奈落よりも深い絶望と、諦観からは程遠い執念に全身を射竦められながらも、アリアの正面に立って睨み返した。
「それが、答え?」
「……」
アリアは今ステージに立ってはいない。凛と同じ観客席に足をつけ、真正面から向かい合っている。
アイドルとファンではない。
ただ二人の人間が、睨み合っている。
己と敵が、相対している。
話し合いにもならないままに、少女と少女は決裂してしまう。
互いの道は交わらない。
アリアは最初から他者の歩み寄りなど期待しておらず、凛もまたアリアを説得するという甘い選択肢を破却したから。
次瞬。
平凡な少女と追光の歌姫が激突した。




