第八章 今は語られぬ、赤い涙 ――Holocaust―― 1.色の無い優しき日々
戦火が激化するロンドンから遥か離れた、世界雲の彼方の地球。可能性の向こう側、生物の一切が存在せぬ無音の地で、安堵友介は倒れ伏していた。
「が……ッ! ぐぎ、ぃ……クソが……ッ」
「なんだ。それで終わりか? 黙示録の処刑人だなんだと言ったところで、所詮はその程度かよ」
「だまれよ……ッ。俺は、まだ……っっ」
「ああ、もう良いよお前。とりあえず休んどけ」
全身を殴打され、ビルに叩き付けられ、地面に縫い付けられた。
ジークハイルの拳によって、安堵友介は完膚なきまでに打ちのめされていた。
体が動かない。腕や脚にも力が入らない。早く強くなり、今すぐにでも向こうに駆け付けなくてはいけないのに、そんな彼の想いなど知るかと言うかの如く、傷付いた体は命令を受け付けない。ただ痛みだけがいたずらに広がっていく。
どうしてこれほどまでに、弱いのか。
別に、強い弱いや切った張ったが好きなわけではない。力の比べ合いやどっちが勝つか負けるかなど、心の底からどうでも良い。
ただ、弱いせいで大切なものを失うのは嫌だった。
だから、そのためには力が必要で。
常に勝ち続けなければならなくて。
陳腐な言葉だが、彼は大切な人を守れる力が欲しかった。
「はあ……」
そんなことを考えていると、ふとジークハイルがこれ見よがしにため息をついた。
「まあ何だ。お前の恋人をあんな目に合わせた屑の一人が何を言うって感じだけどよ」
「恋人じゃ、ねえよ……」
「お前も、あのチビと似てめんどくさくて難儀な奴だよな」
「……?」
友介の反論を無視して、ジークハイルが素直な意見を口にした。友介には彼の言葉の意味するところが理解できず、疑問を湛えた瞳でジークハイルを見つめるしかなかった。
「どういう……」
「どうもこうもねえっての。まあ、これはお前が気付かないと意味ねえことだから、別に俺ァ口出しするつもりはねえがよ。少しくらいは自分と向き合った方が良いぜ」
「…………っ」
「まあ、染色を発現してんだ。きちんと芯は通ってるだろうし、常人とは隔絶した信念と思いを背負って立ってんだろうけどよ」
友介の隣、大きな瓦礫に腰を下ろす白髪の少年は、どうでも良さそうにそう言った。
「つっても、ここから先は俺の仕事じゃないっぽいしな。あの女狐も、そう簡単にお前が強くなるだなんて思ってないだろうし」
「……っ」
「だからまあ、今お前が強くなれてないからって気にすんな。ただまあ、これだけは言っといてやる。俺はお前に既にヒントを与えてる。というか、見せびらかしてる。だから、戦術面に関しては、お前は少し気付くだけで大きく成長できるだろうよ。ただまあ、染色の強度ってか、単純な想いの強さが足りてねえけど」
染色とは、心の在り方をそのまま映した力だ。美醜問わない。確固たる信念があり、それを必ず成し遂げるという決意。あるいは、否定したい過去、トラウマ。そして、夢や願い。求めた世界や、心の原風景。繰り返し見た景色や、歩いた果てに至った末路。
そうした、心象世界・深層心理を具象化し、世界を否定して自分を絶対者、法そのものとして世界を塗り替える概念。
だからこそ、思いの丈や信念の固さ、決意の多寡が描画師の――偽神の強さと格に直結する。
「はっきり言う。バルの想いは半端ない。あいつの人類への怒りは、常人のそれとは隔絶してる。正直、疲れるだろとまで思うわ。あそこまで全人類に怒れる奴は、多分この世にあいつ一人だけだ」
「……怒り……」
「ああ。ま、それはすぐに分かるだろうさ」
ジークハイルはまたも切り捨てるようにそう語り掛けてくる。
「重要なのはお前だろ? つってもまあ、これ以上は言っても仕方ねえか。後はアンタに任せるよ、光鳥感那サン」
「ああ。そうしてくれると助かる。それにしても君、物分かりが良いね。君みたいな人は、意外と御しにくいと思ってんたんだけど」
そう言って、空から二人の戦いを見物していた光鳥感那がゆっくりと降りてきた。
彼女は女狐の如く意地悪く笑いながら、ジークハイルと入れ替わるように前へ出た。
「カルラちゃん誘拐に大きく加担してたくせに、今はこうして教会を裏切るような真似をしてる。本当に、君は意味不明だよ」
「別に。そういう日もあるさ。俺は強い奴と戦って勝ちたいだけだからな。そのためなら、組織を裏切るなんて訳ねえっての。裏切れば裏切るで、あいつらと戦うって道も生まれるんだから」
そう嘯く白亜の拳闘士の表情は、どこまでも晴れやかだ。
「こいつからしたら、どれも同じに聞こえるだろうし、俺らは全員同類のクズ野郎なんだろォが、やっぱ全員違う奴らで、掲げた信念を悪だと自覚している奴もいりゃァ、正義だと本気で信じてるアホもいる」
だからどうしたって感じだけどな――と、白髪の少年は快活に笑った。
「どっちにしても、俺は最強になれればそれでいい。そのためには強い奴らと戦わなきゃいけねェ。そして、いつかは頂点に立つんだよ。だからそのためなら、俺は多少の我慢くらいはするってだけだ」
「自制が聞くバーサーカー、ってのも……よく分かんねえな」
友介が面倒くさそうに口を開く。
「まあな。てか、まだ軽口を叩けるのか。なら……なあ感那サン。やってもいいんじゃねえのか?」
「そうだね。どっちにしろ、彼には見せる必要があるだろうし」
「……あん?」
彼の返しを受けたジークハイルが、彼の体……否、心がまだ十分付加に耐えられることを確信し、そして感那がそれに同意した。
それだけで、ああ――察してしまった。
胸の内で渦巻くは、二つの思い。
とうとう向き合う時が来たのだという確たる覚悟と。
まだ自分の知らない謎を突き付けられるのだろうという未知への恐怖。
「……っ」
「どうやら、彼も分かっているらしいしね」
感那の全てを見透かしたかの如き瞳が、友介の魔眼を覗き込んだ。
「君は耐えられるかい? 彼女の真実に。そして、新たなる謎に。君は今から、一人の少女の過去を受け入れ、世界の謎の一端を背負うことになる。宇宙の運命の担い手の一人として、これから重責を強いられることになる」
光鳥感那は、全ての分岐点となる選択をここで強いた。
ただの人間として世界に埋もれたまま死ぬか。
運命に参入する地獄行きの特急列車へ乗り込むか。
「風代カルラという少女の全てを背負う覚悟があるかい?
世界と呼ばれる森羅万象を滅亡させる覚悟があるかい?」
混沌たる世界の中、これだけは絶対的な普遍とでも言うように、最大の混沌を問いとして投げた。
「誰も知らない〝この世界の真実〟を、受け止められるかい?」
女狐の発した問いを、友介は問いそのものが下らないとばかりに即答した。
「御託は良い。さっさとやれよ、めんどくせェ」
「……、ふっ」
真っ向から言い切る友介に、感那はしばらく黙り込み、やがて破顔した。
「良い返事だ」
感那は友介の額へと己の手のひらを押し付ける。
「これから僕が行うのは、彼女の脳から直接引き出した、継ぎ接ぎだらけのバグった記憶を電気信号に変換し、そして僕なりに編集したものだ。視点が第三者の視点となっていたり、前半では彼女の心情は語られず『もう一人』に視点が当たっていたり、あるいはノイズが走っていたりするが、まあ事実としては99・999%一致している。これを、君の脳へと直接打ち込む」
もちろん危険はない。これくらい、僕の手にかかれば楽勝さ――と。脳に電気信号を送るという危険極まりない行為を、彼女はノーリスクで行えると、まるで何でもないことのように告げてみせた。
「だから、問題は君の心が耐えられるかなんだ。特に後半だ。後半からは完全に、彼女の記憶だ。だから、君が見るのは録画映像なんかでは断じてない。君はあの子の心の全てを直接叩き込まれる。君の心へ、彼女の心の叫びが流れ込むってことだ。ああ、たぶん……普通なら耐えられないよ。現に彼女は耐えられなかった。でも、それでも――」
感那は、無駄な問答だと理解しつつも、やはり問うてしまった。
「もう一度聞くよ。覚悟は良いね」
「何回も言わせんな。御託は良い。あいつを助けるために、絶対に見せねえと駄目なんだろうが」
「ああ。彼女の心は、未だに過去に縛られたままだからね」
「なら、選択の余地なんて初めからねえよ。オレの答えは変わらねえ。――さっさとやれ」
最後には、痛む体を無理やり起こし、感那に頭を下げる始末。
「――そうかい」
そして、そこまでされた以上、もう彼女に問いを重ねることは出来なかった。これ以上はきっと、侮辱に当たると思ったから。
だから、彼女は冷酷に告げる。
「なら、君が強ければまた後で。弱ければ、ここで永遠のさようならだ。――何か言い残すことは?」
「無い。すぐに戻る」
やはり何一つ迷いのない声で結んだ。
「じゃあ、いってらっしゃい」
感那の声を残響に、友介の意識が闇へと――否、赤い記憶へと墜ちていく。
どこまでも、墜ちていく。
墜ちていく――――
☆ ☆ ☆
風代カルラという少女は、生まれた時から自我を持っていなかった。
その少女には、意思が無かった。
その少女には、自分が無かった。
その少女には、感情が無かった。
とある少女は、人間ならば当たり前に持っているはずの心を……持っていなかった。
意識がなかったわけではない。植物人間のように、ベッドの上で永遠の昏睡に陥っていたわけではない。毎日学校に通っていたし、病気にかかったこともほとんどない。運動会ではリレーを走ることもあった。
問題は中身だった。
風代カルラという名前は彼女にとって識別名でしかない。ただの記号以下のもの。
だから、たとえ『五十七号』などという意味も心もドラマも何も込められていない、番号が振られているだけであろうとも、少女はそれを自分の名前として認識していただろう。
生きるために最適な行動を取るだけのロボット。
それが風代カルラだった。
葛藤はない。懊悩も決意も覚悟も何もない。
たんぱく質の体を持つだけの人型の装置。有機物でできた機械。
器の中には何も詰まっていない。中身と呼べるものを何一つ持っていなかった。
その異常性に両親が気付いたのは、カルラが四つの頃。
彼女は何もかもを淡々とこなしてしまうのだ。その場その場での最適を選ぶ。両親の言うことには逆らわず、与えられた命令を当たり前のようにこなしていく。寄り道をすることも、友達と遊ぶこともなかった。命の危機を少しでも減らすかのように――しかし、死にたくない、あるいは生きたいという渇望は露ほども見せず――ただ、合理的に生きるための選択を行っていく。
逆らって勝てない相手と見れば口喧嘩すらしない。
ワガママを言ったことも、お願いごとをしたこともない。生きる上で必要のない行為はしないように彼女の脳はプログラムされていたから、無用な欲望など介在する余地が無かった。
話す言葉は全て報告のようなものばかり。疑問や質問も、生きる上で合理的な最適解は何かという、心どころか色すら塗られていない虚しいものだけ。無色透明、テストの問題のような、あるいは電卓やコンピュータのような、問いを打ち込めば答えが出てしまうような、乾燥した言葉しか交わせなかった。
けれど。
「「「カルラ、お誕生日おめでとーっ!」」」
小さな行き違いから離婚をしてしまった両親だったが、たまの休日や、あるいはこうした大切な日には、家族四人そろってご飯を食べたりした。
それはカルラの八歳の誕生日のこと。
明かりが消された部屋の真ん中で、ろうそくの火がゆらゆらと揺れていた。赤髪の少女はとぼけた顔のまま、家族三人に祝われている。
「ケーキ?」
「そうよ~! カルラが好きなケーキ!」
「好きなの? 私が……?」
「父さんもそう思っていたんだけど、違うか?」
淡々と尋ねるカルラに、赤い髪を持つ西欧人の母が嬉しそうに答えた。母の言葉に年相応のあどけない表情で首をかしげるカルラへ、日本人である父が優しく微笑み、頭を撫でながら尋ねる。
「分からないけど……ケーキはいつもいっぱい食べちゃうな。手が全然止まらないの」
八歳の頃のカルラも、今とあまり変わっていなかった。身長が今よりももう少し低く、髪も赤く、そして長い。ただし、全体的に与えてくる印象が異なっていた。金眼の中に苛烈さがない。飴玉のようにまるまるとしており、当たり前だが幼さを感じさせる。この幼女が今の気が強く意地が悪くて意地っ張りな少女になるとは誰が予想できるだろう。現在の剣のように鋭い印象とは異なり、この頃の彼女は餅のような柔らかい雰囲気をまとっている。
「それを好きって言うんだよ、カルラ! 何回も食べるのはカルラが美味しいと思っているからだ。ほら、俺の分のイチゴもあげるよ」
そして、そんなカルラへひと際優しく接している赤髪の少年。今とは異なり、優しい兄のお手本のような笑顔を浮かべて、カルラの皿に自分のイチゴやケーキの上に乗っているチョコプレートを分けてやっている。
「優しいなあ、バルは。カルラもこんなお兄ちゃんを持って幸せ者だなあ~。うりうり!」
「んっ」
今はもうその面影も残していない少年だった。バルトルート・オーバーレイ。後に友介の前に立ちはだかる紅蓮の王となる少年で、今はただの子供だ。
父に頭をくしゃくしゃにされても、幼いカルラは抵抗しない。手を離されて髪が大変なことになっていたが、八歳の子供がそれを気にするはずもなく。
「食べる」
「そうだな」
「ええ、そうしましょう」
「ゆっくり食べるんだぞ、カルラ」
「ん、わかった」
父に対して特に反応を示すことなく、カルラはフォークを手に取った。分かりにくいが、おそらく体がケーキを欲しているのだろう。ケーキが好きと感じる心は欠落していようとも、体はその味を無意識の内に好み、目の前にあるご馳走を今か今かと欲している。
カルラが手を合わせ、それに父、母、そして兄であるバルトルートが続いた。
いただきます、と声を合わせて、それから各々のペースでケーキを口に運んでいく。
「うむっ、むぐ。んむ……むむ。もぐ……っ。……ママ、おかわり」
「はやっ!? まだ三十秒くらいしか経っていないぞッ?」
「ケーキはすごくはやく口の中に入るから。食べやすい」
「はいはい。ケーキ分けてあげるから慌てないの。バルはどう?」
「いや、俺は良いや。俺の分までカルラが食べていいよ!」
バルトルートが朗らかに笑って断った。その容姿を見るからに彼もまだ十歳やそこらのはずだが、嫌な顔一つせず妹のために我慢する姿は理想の兄としか言えない。
母も父も、そんなバルトルートを見て微笑んでいる。愛されているのはカルラだけではない。この家族は本当にどこにでもあるような、普通の家庭だ。
カルラの前に皿が置かれる。大きく切られたケーキが乗せられたそれを、心なしか常より輝く瞳で見ていたカルラだったが、ふと隣に座る兄を見た。
バルトルートは優しく微笑み、カルラの頭を撫でてやる。兄のされるがままになっていたカルラは、猫のように目をつむっていた。
「んー」
手が止まり解放されると、彼女は何かを考えるように自らのケーキを眺め、
「お兄ちゃん、半分あげる」
そう言って、自分のフォークでケーキを半分に分けた。上手く切れず、大きさが偏ってしまう。カルラは何の迷いもなく大きい方をバルトルートの皿へ乗せた。
「私こんなに食べれないから」
「そっか。ありがとな」
感情のないカルラが、人を思いやれるのかどうかは分からない。
けれどその時、バルトルートを含めた家族の全員が、それをカルラの優しさだと信じた。
「カルラは優しいなっ。でも、お兄ちゃんはこんなに食べれないから、やっぱりカルラが大きい方を食べなよ」
「……ほんとに?」
破顔してコクリと頷く兄を見て、じゃあとカルラは大きい方の皿を自分の前に寄せた。
「カルラ、おいしい?」
「うん。甘い」
カルラには心がある。優しさがあって、きちんと自分を持っている。
家族三人は、やっぱりそう思った。
☆ ☆ ☆
当然カルラは、学校にも通っていた。
自我がなく、意志がないため当然反応も薄い。そんな少女を、まだ純粋な小学生たちが気味悪がり、近付こうとしないのは当然だった。
少女は学校で常に孤立していて、休み時間にはクラスの端っこでぼうーっと机を眺めているだけ。
とはいえ、それが少女にとって不幸だったのかと言えばそうではない。
そもそも何も感じないため、一人でいても特に寂しいなどと思うことはなかった。
小学三年生の初夏。窓の外には大きな入道雲が浮かんでいた。空へもくもくと立ち上る白い巨体は、空の水色を背景に描かれた一枚の絵画のようにも見える。
「……――」
窓の外へと視線を向ける。自我も意志も感情もない少女には、当然景色を綺麗だと感じることも出来ず……つまり彼女は今、本当にただただ外を見ているだけ(・・)だった。
空の一番上にある太陽から放たれる日光が、入道雲を照らしているため、その白色が輝いている。
でも、それでも――やはり少女の心には何も響かない。
そして、それを悲しいと思うこともない。
考える必要も悩む必要もなく、故に感動することも、景色に浸ることも出来ない。
そんな時だった。
「カルラー、いるかー?」
教室の外から響いてくる声。名前を呼ばれた少女が振り向けば、扉に見知った顔の少年がいる。赤い髪と黄金色の瞳。わざわざ下級生の教室に来た、彼女の兄だった。
「ほらほら、お昼一緒に食べるぞ!」
彼はクラスの友達の誘いをいつも断って、こうして一人でいる妹と共にお昼を過ごすことにしていた。ただ、当然だがカルラにはそれがどれほどありがたいものかも分からない。それでも、バルトルートは良いと思っていた。それぞれ父と母に引き取られ、家では会えない。ならこうして、学校でぐらい一緒にいて良いだろう、というのがバルトルートの気持ちだった。それに……教室でいつも一人でいる妹を、心優しい少年が放っておけるはずもない。
バルトルートは、両手に母が作ってくれた弁当箱を二つ持っている。カルラの分まで作ってくれたのだ。
「さ、行こ」
「うん」
バルトルートに呼ばれ、カルラが席を立つ。
二人並んで廊下を歩き、人気の少ない階段で腰を下ろす。正面には窓があり、夏の空が四角に切り取られていた。
「うわあ、見てよカルラ! あれ、すごく大きい雲だよっ」
「私さっき見たよ」
「それはそうかもだけどさあ! でも、綺麗じゃない? おっきくて、真っ白に光ってて!」
「分かんないけど、お兄ちゃんがそう言うならそうなのかも」
「そうだって。カルラはまだ分からないかもしれないけど、きっと分かるようになるよ。それまで、お兄ちゃんがカルラに綺麗とか凄いとか教えてあげるよ」
「ん。わかった」
そう言って、カルラは渡された弁当を開き、食事を開始する。バルトルートもそれに倣い、パクパクとおかずやご飯を口に運んでいく。途中、バルトルートがカルラに卵焼きやらハンバーグやら、自分が好きなおかずを、笑顔で上げたりと微笑ましい一幕があったり。
二人の昼食は、今日も穏やかかつ優しく流れていく。
そんな二人を、窓の外の入道雲が優しく見守っていた。
☆ ☆ ☆
それは、心を持たぬ少女の日常。暖かく優しい、家族の話。
意志がない。迷うことも悩むことも悔やむこともない、欠陥人間。そしてある意味、完成した知性体。
人間が行動を行う前には、判断や意志の決定、決断がまず脳内で行われる。
関心を引き、強く印象付ける心理作用を意味する『報酬』というものの在り方を巡り、脳内で様々な意見を持った『自分』による会議が行われるのだが、この際の過程が『選択』や『葛藤』と呼ばれるものであるのだ。
そして、『意思』とはすなわち、その会議そのものを示す。
よく漫画やアニメなどで、頭の中で天使の自分と悪魔の自分が戦っているという表現があるだろう。あれはただの表現などではなく、一種の真理であるというわけだ。人に限らず全ての生物は、常時『意思』という名の会議を行い、そして葛藤を経て選択し、生きている。
だが、風代カルラにはその機能が無かった。
彼女は、全てが自明であった。
脳内で会議は開かれない。
脳に存在する数多の風代カルラは、その全員が同じ意見を有している。
故に彼女は、間違えることも迷うこともなく、ある状況における選択を一瞬で行い、生きるための最適解を確実に選ぶことができる。
例えば、今この瞬間に一万を貰うか、五年後に五万円を貰うかという問いを受けた際、一般的な人間ならば前者を選ぶだろう。五年待った方が貰える額が多いと分かっていても、人間とはどうしても前者を選んでしまう生物なのだ。
だが、カルラは違う。彼女は何の迷いもなく後者を選ぶのだ。
何故ならば、そちらを選ぶ方が合理的だから。葛藤も選択もない。ただ、当たり前に効率良く生きる。迷うことも悩むことも悔やむこともない。
人間とは不思議なほど非合理的な生き物だ。人間に限らず、多くの生物――それこそ犬や猫も含めて――は、意思によって合理的な決定を阻まれる。
だがカルラはそういう意思を司る部分が先見的に欠けていたか、あるいはずっと眠った状態のままであるからか、意見は食い違うことがなく、バグもエラーも存在しない。極めて自明に最適解を脳が判断し、その通りに動く。そこに情の欠片も存在しない。
彼女の思い出を例にあげれば、あの誕生日などはその特徴が強く表れた事象だ。
彼女が兄に自分のケーキを分けたのは、こうして褒められる行為を行えば、将来的に両親や兄からより多くの恩恵を受けられるだろうといい判断からなされた行為であっただけ。
風代カルラには意志がない。心も感情もなく、つまり優しさも持っていない。
無慈悲な事実。
そして、それはある者達にとって好都合であった。
意思を持たない、自我を持たない、心を持たない。
そんな彼女は、好きな色に染めやすい。
故に、運命は彼女を選んだ。
始まりは偶然。
されど運命とは、往々にして偶然から生まれた必然であるが故。
「では、ここを『孔』として選ぶとするか。喜べよ、お前ら。諸君らは俺の供物に選ばれたのだよ。共に夢への一歩を歩もうじゃないか」




