第七章 小さくも大きな意志 ――Sirs Camelot vs Island Church 1.獣王暴走
キャメロット城には正門の他に、秘密の通路のようなものは存在しない。裏門のようなものがあるにはあったが、それもデモニアが城を改変した以上使うことは不可能だろう。つまり城に侵入するには正面から堂々と入るしか手はない。
ディリアスはそう語っていた。
だが、馬鹿正直に玄関をノックしたところで、待ち伏せをしていた敵に返り討ちにされることは間違いないだろう。
ならば、取れる作戦は一つしかなかった。
「――爆」
気配と姿を消した川上千矢が小さく呟くや、城壁に貼り付けられた札が爆ぜた。火と風の属性を混ぜ合わせ『爆発』の概念を付与されたオーソドックスな爆札だ。しかしそれ故に効果は絶大だ。
マーブル模様の城壁に、半径五メートルほどの巨大な穴が空く。派手な光と音を演出し、姿を消した千矢、草次、涼太、ボニーの四人は堂々と城内へ侵入を果たした。
そしてこれほどの大爆発だ。明確な敵意を込めた人為的破壊に対して、教会側が何ものアクションも取らないはずがない。
「――カカッ」
悪魔が笑う。キャメロット城全域に己が知覚を拡張させたデモニアは、明らかな異常を、歓迎するように呟く。
「もてなしてやれよ、追光の歌姫」
『……はい』
「ああそうだ。なあ、一つ聞かせてくれ。どうだったよ、マーリンの肩書きは。楽しんでもらえたか?」
『最悪でした。今すぐあなたに返したいです』
カルラの絶叫をBGMにして優雅にコーヒーを飲むデモニアの問いに、通信礼装から錆びた返事が返ってきた。嫌悪感を隠しもしない声の主は、春日井・H・アリア。不機嫌をあらわにし、一秒とて話したくないと言わんばかりに通信を切った。
「呵々ッ。そっか。じゃあ、おとなしく返してもらうとするわ」
千矢が壁を破壊したところからほど近い場所にある、三階分ほど天井をぶち抜いたダンスホールの中に、アリアはいた。全体を俯瞰できる場所に身を隠しつつ、戦闘に――否、戦争に備える。
眼下には大量の人間。鎧を身にまとい帯剣している彼らは、城から逃げ遅れた騎士たちだ。
「どこだ! 姿を現せ楽園教会!」
「ここににいるのは分かっているんだぞ!」
「あの音を聞いただろうっ! 円卓の残滓が来られたのだ! もう逃げ場はないぞっ!」
ただし、彼らの口から発せられるのは強い口調のみ。
当然だ、彼らは今、アリアをこの部屋に追い込んだのだと思い込んでいるのだから。
ただし、それは当然だがアリアの罠だ。
階下から聞こえる野太い合唱を聞き流して、彼女は行動に移る。
ついっ、と。
長くしなやかな右の人差し指を、指揮棒のように振った。それだけで場の空気が凍る。
さらに――
「静かに」
涼やかな声が部屋全体に響き渡ると、糸が張ったようにホール中に緊張が走り、誰ひとり言葉を発さなくなった。
彼女の声を聞いた騎士たちが、体の――意思の――自由を奪われたのだ。その美声を前にして、口を動かし喉を震わすことさえ禁止された。
「行ってください、みなさん。自分の城を守ってください」
瞳に憂いを浮かべながら、しかし少女は止まらない。
これは優先順位の問題。
少女にとって、己が願いは彼らの命よりも重い。
騎士たちが散会し、侵入者を討つべく動き出す。
アリアが命令を下したのと同時刻のことであった。
正門が白光の斬撃によって引き裂かれた。轟音を隠す気もなく、正々堂々足を踏み入れる。恐れというものを知らないその挙措に、敵陣へと乗り込むという気迫はない。
ただ己の城へ帰って来たという感覚。
そう――英雄が、己が城へと凱旋した。
「ずいぶんと様変わりしたものだな、私たちの城は」
正門の轟音はアリアの耳にも届いていた。
「これは――救国の英雄……ディリアス・アークスメント=アーサーですね……」
すぐさまあたりをつけると、敵の狙いを看破すべく高速で脳を回転させた。
「なら裏手で上がった爆音はなに……? まさか陽動? ううん、でもそれだとしたら、何故英雄はわざわざ目立つような真似を? ……ああ、つまり――どちらも陽動でありどちらも本命、ですね」
つまり敵の目的は――
「戦力の分散」
なるほど、弱者が考えそうな手だ。加えて言えば頭が足りないし想像力が追い付いていない。
彼我の実力差も分からないとは、何とも哀れな人たちだ。
弱者が束なり徒党を組んだところで、圧倒的な個には敵わない。絶対的強者とは、絶対的であるからこそ絶対的であるのだから。
よって――
「なら、戦力を分けましょう」
敵の策略に乗ってやるとしよう。
☆ ☆ ☆
「どうした、この程度か『楽園教会』」
絶大なる斬撃の爪痕が、男の背後にある扉に刻まれていた。まるで竜が腕を振るったかの如き残痕。その隙間から月明かりが差し込み、男を照らしていた。
城へ侵入してから数分。彼の周囲は既に壮絶と言って良かった。
周囲に散乱するのは、常軌を逸したサイズの斧や、夥しい量の矢の数々。それらがまるで、塵か何かのように破壊されて転がっていた。
「己は姿を見せず、玩具を投げるだけか。それで英雄は落ちんぞ。希望は潰えない。絶望足り得ない。もう一度聞いてやる。――その程度か『楽園教会』」
電飾もランプも付いていない、墨をぶちまけたような闇の奥へと声を投げる。人の気配は感じないが、敵意と愉悦が混ざり合った奇怪な気配がディリアス・アークスメント=アーサーへと注がれている。
直後、その闇の奥から、半径十メートルはある鉄柱が、凄まじい速度で大気を押し潰しながらディリアスを急襲した。
しかし。
「何度も言わせるな」
全身を純白に包まれ、聖剣がミルクを融かしたかの如き白を発光。
「その程度では、希望は折れん」
一閃。
秒速20万キロメートルの速度で振り抜かれた聖剣が、鉄柱をバターのように切り裂いた。
二つに分かたれた鉄柱は、それぞれその軌道が外へと逸れた。人を押し潰すには余りも巨大な二つの鉄塊が、ディリアスの肩から数ミリ離れた位置を通過する。暴風が金髪を巻き上げ、その苛烈な青い瞳が闇にくっきりと浮かぶ。
鉄塊はやがて背後の扉を破壊した。巨大な穴が城に空き、月光が場内を淡く照らす。
「それが答えか。ならば驕っていろ、侮っていろ。椅子に腰かけ嘲笑っているがいい。その間にも、私は貴殿らの玉座へと進んでいると知れ」
迫りくる無数の罠を叩き斬り、英雄はゆっくりと歩みを再開した。
カツン、と音がした直後のことだ。暗闇の奥から大量の足音が響き渡る。大勢の人間が一斉にかけているかのような、そんな音。
「――――」
ピクリ、とその眉が動いた直後のことだ。
濃密な闇の奥から、見慣れた鎧を着た見知った者たちが、剣を構え大挙して押し寄せてくる。
この城の警護を任していた彼の部下たちだった。
強き意志を持ち国を守るために戦うことのできる、彼の自慢の益荒男たちがアリアに洗脳され、今こうしてわけも分からずディリアスへと剣を向けていた。
彼は静かに拳を握り、凛とした冷徹な瞳で押し寄せてくるかつての仲間たちを見据えた。
「そうか、それが貴殿らの答えか」
その声は、目の前に立つ元部下たちへ向けえて送った言葉ではない。
「万死に値するぞ、楽園教会」
すまない――そう心の中で謝罪して、彼はかつて部下だった者たちを切り倒していった。
その進撃は、歩兵を押しつぶす重戦車の如き威容であった。
☆ ☆ ☆
正門から聞こえてきた轟音が合図であった。
姿や匂い、気配までを完全に隠した千矢以下四人は、薄くなった敵の包囲網を楽々と潜り抜け、今は天井の高いダンスホールまで侵入を果たしていた。
操られた部下たちを無視してここまで来たボニーは既に我慢の限界に達しているようで、腰から陽剣を抜き放っていた。
「ここは?」
「見ての通り、パーティの際に使用する部屋です。我々は騎士であり貴族。兵士であり政治屋です。接待もまた必要な仕事でしたので」
そうか、とだけ返して、千矢は話題を変えた。
「俺たちの目的をそれぞれ確認する。俺と草加の二人は風代の救出、安倍涼太はその護衛、ボニー・コースターは枢機卿の殲滅。そうだな」
「うん!」
「ええ」
「その通りですね」
口々に返事を返す三人に頷き、眼鏡の少年はさらに続けた。
「だが、その全員の目的を達成するためにも、まずは足並みをそろえる必要がある。途中で別れるにしろ、それまでは協力せねば確実に負ける」
「具体的には?」
『頭を潰すわ』
千矢が言う前に、インカムの向こうから蜜希が告げてきた。インカムを付けているのは千矢と草次のみなので、ボニーと涼太には聞こえていない。草次は仲間の出したその案を、二人に告げる。
二人も納得したように頷く。
「なら方針はそれで決まりだ。デモニア=ブリージアを殺す。後ろから、気付かれないように暗殺する。それでいいな」
「ええ、少し騎士道に反する気もしますが、もはやそんなことを言っている状況ではありませんしね。それに……仲間の仇を取らせていただきます」
「はいっ、見つけました」
ぞっとするほどに美しい声が広大な空間に響いた。
人の心をとろとろに溶かす甘い声。人間の本能を刺激するような、歌姫のささやき。
しかしそれは同時に、戦士を鼓舞する天女の叱咤であり、戦を預かる将のものでもあるように思えた。そんな不思議な声を耳にして――当然四人は警戒を強める。
『最初にあなたたちに助言をする以外、城の中では私の援護はないと思いなさい。もう四人の状況が私には把握できないわ』
蜜希の声にコクリと頷き、再度周囲へ視線を巡らせる草次。千矢を抜いて三人で背を合わすようにして全方位を観察し、敵の出方を伺う。
『同調開始』
蠱惑と苛烈が混在した、致命的なまでに魅力的な音の蜜が耳の奥へと垂らされた。
「みゅーじっく?」
草次が素っ頓狂な声を上げたが、魔術の側に精通する涼太とボニーは瞬時に察した。
これは、魔術の発動を意味する『名前』だ――!
気付くのが一瞬遅れた。
どこからか甘い歌が流れてくる。
力を合わせよう、みんなでやれば叶えられる。一人一人の力は小さくても、手を取り合えば出来ないことなんて何もないんだから。
歌詞を要約すればこんな所か。
だが、これが単なる歌ではなく、歌という形を取った詠唱であることは、明白だった。
唐突に流れてきた、美しく優しく力を与えてくれるような歌が何を示すのか、一同が困惑しながらも推測しているが、党に何も起きている様子はない。だが、次の瞬間に何が起こるか分からないため、迂闊な行動をとることは許されない。
そして、判断を間違えた。
歌が終わる。
『さあそこですよっ。行ってください、サー・トリスタン』
「――――ッ!? なに、を……!」
刹那――草次、涼太、ボニーの頭に影が落ちる。
サァ……っと、背筋に氷柱を押し付けられたかのような悪寒があった。
うなじから一気に熱が引いていった。
驚愕している時間は、即ち死へのカウントダウンと同義。
咄嗟に頭上へ視線を向ける三人。彼らの視界に、腰から双剣を抜きはらう女騎士の姿が映る。
両手の剣――その先端は欠けている。
それは、ブリテンにおいて戴冠式の際に使用される『カーテナ』――円卓の騎士の一人であるサー・トリスタンが使用したとされるオリジナル品と、後世になって作られたレプリカ品である。
「リア……ッ」
「――――」
太陽の騎士と悲しみの騎士の視線が交錯する。
「えろ……」
『草加くん!?』
「馬鹿を言っていないで――」
「散りましょう……ッ!」
妖艶に着崩した騎士服。開けた胸元から大きな乳房が零れ落ちそうだが、夜の湖面のように何も映さない瞳がそれを気にしている様子はなかった。倒錯した性癖が垣間見える気配もない。まるで戦闘人形のように正確な挙動でもって草次たちを斬殺せんと刃を唸らせている。
その無表情を目にした瞬間、全員があらゆる『甘え』を捨てた。
リア・アルバス=トリスタンが、完全に操られていることを完全に理解した。
「『爆刺の二』ッ!」
炎髪の騎士は、周囲の仲間が完全に離脱するのも待たず、床に陽剣の切っ先を突きつける。
爆散。
業火と爆風が周囲三百六十度に吹き荒び、その場を離脱しようと後方へ跳躍していた他の三人が、風に押され吹き飛ばされた。それは突貫してきたリアも例外ではなく、その体がほんの少し後方へと押しやられる。
だが、それでも構わず双剣を振るう。
閃光二条。
キャメロット城の薄闇を切り裂く光が瞬いた。がぎぃんっ! という硬質な音が鳴り、床にクロスの亀裂が走った。
目を焼くような光の残像が未だ残る中、動揺と後悔に塗れたボニーの瞳が、焦点の合っていない虚無の瞳を捉える。
景色がゆっくりと流れる感覚。
しかし、停滞する時間もやがて終わりを迎える。
『うふ』
どこかで蜜希が妖艶に笑みを漏らし、爆風に飛ばされていた千矢、草次、涼太が着地すると同時――止まっていた分を取り戻すが如く時間が加速する。靴の底が床に接するや否や、三人は一斉に地面を蹴った。
『全員今すぐ合流しなさい。一度陣形を立て直すわ。糸使いくんに糸を張らせて。川上くんは待機しておきなさい。草加くんは中衛。おそらく太陽の騎士が前衛を務めるから援護するのよ』
「涼太くん、糸をよろしく!」
「はい!」
「そしてボニーさん。俺が援護しますから――」
涼太に指示を出すと同時、草次は背中のギグケースから対物ライフルを取り出す。
「――思いっきりやってくださいッ!」
「ええ、もちろんですッ!」
ひゅんひゅんと風を切りながら、肉眼で視認するのが不可能なほど細い糸をダンスホール全体に次々と張り巡らせていく。糸を操る涼太は、まるで踊っているかのよう。
セット完了、準備は整った。
「リアッ!」
「――――」
その遥か前方で、ボニーがリアとの間合いを詰めていく。
剣を持った女が二人、かつての仲間と切り結ばんと地を蹴る。
ボニーが大上段に剣を構え、対するリアは小さな構えであった。
亜光速の斬撃を放つ敵に対して何たる愚策――本来ならばそう見える場面だ。
しかし、これは一対一の騎士と騎士による尋常な戦いではない。
紛れもなく戦争であり、複数人で一人を倒すことなど当たり前のこと。
リアが柄を握る手に力を入れた瞬間のことであった。
ボニー・コースターの姿がリアの視界から掻き消える。
唐突なロストに、リアの動きが一瞬止まった。
そして、リアが視線を巡らせる暇もなかった。
彼女の頭上――ちょうど真上に、剣を振りかぶる赤髪の女騎士の姿がある。涼太が仕込んだ糸で剣の柄を縛り、そのまま上方へと一気に引っ張り上げられたのだ。
「『炎閃の一』ッッ!」
糸がほどかれると同時、ボニーは空中で車輪のように縦に一回転した。人ひとりの体躯を包み込むほどに巨大な炎が噴き上がり、斬撃となって女騎士に襲い掛かる。
完全に不意を打った一撃。これを逃れる術はない。
だが――その場の誰もが抱いたその確信を、リアは蹴散らした。
完璧なタイミングでの死角からの攻撃であったというのに、リアは後方へ跳躍して炎の斬撃を躱し切った。石造りの床に着地し、両手も地に付け、四足獣のような姿勢を取る。その鼻先数ミリに炎が落ちるも、リアには何ら傷を与えられない。
まるでその攻撃を予想していたかのような反応速度だった。
避けられるはずのない一手だったというのに、だ。
『まだまだですね、皆さん、ライブはこれからです。そして何より、ライブの演者はあなた達ですよ。どうか死なないように踊ってください』
どこからか聞こえてくる人の心までを掻き回すかのような声。草次はその声に聞き覚えがあったのだが、それが誰のものなのかが分からない。忘れているのではなく、おそらく認識疎外の魔術を掛けられているのだろう。
『さて、ガウェイン卿。あなたはあとどれくらい戦えますかね?』
「先の回避は、あなたの操作ですか? 隠れて戦うとは、少し格好が付かないように思えるのですが」
『……無視した上に挑発ですか』
「あなたの腐った根性よりはマシです!」
『言ってくれますね……ッ』
挑発の声も美しい――ただし、なぜか少女の声の節々に苦い感傷が感じられるようにも思う。
そんな風に考えていた草次だったが、ボニーはまるで取り合おうとはしなかった。再び剣を構えると、炎の向こうにちらつく仲間の姿を注視する。
敵が何かを抱えていることなど当たり前のことだ。相対しているのは機械ではない。人間なのだ。これまで必死に生きてきた人間なのだから。
だから、そんなものは考慮に入れない。断固無視する。
「――――ッ」
短く呼気を吐き、己で生み出した炎を突き破りリアに突貫するボニー。二人の女騎士の再度の激突。
先とは異なり刺突の構えを取るボニーに対し、リアはさっきと全く同じ型で迎え撃った。
冷静に考えればリアの勝利。しかしボニーにはリーチの差がある。
未だ互いに敵を間合いに収めていない。――ならば、勝利の女神はボニーに微笑むだろう。
だが――
「――ッ、駄目だ、ボニーさん! 今すぐ退くんだッッ!」
何かに気付いた草次が叫んだが――
「遅いです」
妖しく嗤う気配。
同時、リアが左手に持っていたカーテナのレプリカを手放した。
からんっ、と甲高い音がホール内に響き――
「しまっ――」
涼太が事に気付いたが――もう遅い。いつの間にか、リアの姿がボニーの前から消えたかと思うと、その左肩から血が吹き出していた。
「が――っ、まさ、か……ッ!」
頭上を見上げれば、リアが左手で何もない空間を掴むようにして空中に立っていた。
「まさか――糸を利用された!?」
左手に持っていたカーテナの傍らを放り投げ、糸を掴み、跳び上がった後、視界から消えたまま右手の剣でボニーを斬る。
言葉にすれば簡単だが、戦闘の只中にいながら、ここまで俯瞰的な視点で戦術を練ることなどほぼ不可能だろう。
ならば――
「やは、り……この部屋の、どこかに……ッ!」
本当の敵は、この空間にいる。涼太の放った糸の位置すら把握できる場所で、ボニーが仲間と戦っている姿を、おそらく嘲笑っていることだろう。
『さて』
その声が告げる。
『もう一撃くらい入れてみますね』
背後に降り立ったリアが剣を振る。
鮮血が溢れ出し、赤髪の騎士は崩れ落ちた。
そして、意識が途切れるその直前。
彼女は、金髪の少女を目撃する。
まるで、ボニーにだけ見えるように自らの姿を晒した少女は、小さく邪悪に――どこか諦観を滲ませて――笑って、こう呟いた。
「〝どうか魔法よ、消えてほしい。さあ進め。ここが我らの墓場なり〟」
☆ ☆ ☆
大蛇と冥狼に追われながら、なお息一つ乱さぬ男は、まるで挑発しているかのようにセイスの操る魔獣二体を己が染色で攻撃し続けていた。破壊が魔獣を襲うたびに、怪物どもが悲鳴を上げる。
下らぬ雑兵一人に良いようにあしらわれ、大切な友を傷付けられ続ける灰色の少年は、怒りもあらわに自らの配下たる魔獣へ檄を飛ばす。
偽神と魔獣の潰し合いは、街を更地にせんとする勢いを持ち、それそのものが嵐の如く人類が作り上げた文明の結晶をガラクタへと変えていた。
「――――」
三度、風化英雄の瞳から染色が発動され、直撃を受けたビルは根元から融けるように崩れ落ちる。
地獄をこの世に下ろしたが如き破壊を、現場に駆け付けたシャーリンとルーカスは呆然と見上げていた。
「なんだ、これ、は……っ」
ルーカスの乾いた声は、誰にも届かない。魔獣の叫喚と、硝子が破砕するが如き世界破壊の轟音に掻き消されてしまう。
『グガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!』
『シャラァアアアアアアアアアアアアッッ!』
「リル、真正面から噛み砕け。ヨルムン、そいつの周囲の大気もろとも圧搾して押し潰してしまえ……ッ」
空翔ける天馬の背に乗る灰髪の少年の指示通り、北欧の魔獣二匹がちっぽけな偽神一人へと殺到した。
だが――
「何だそれは。たかが野良犬とマムシ程度で、俺を落とせると思ったのか。たわけ」
生気の抜けた声を発すると同時、男の左眼に映る景色がひび割れる。世界に亀裂が生じ、その亀裂に巻き込まれた大蛇が絶叫を上げた。
「貴様……さっきから何度も何度も僕の友達を……ッ!」
友を傷付けられ、セイスの怒りは腹の底から天井知らずに湧き上がる。感那の前に姿を現したときのような、無気力な様子はどこにもない。
その心中を占める感情はただただ怒り。小さな蟻を、重機を使ってでも殺そうとするような、合理性の欠片もない白熱した激怒だ。
ふざけるなよ塵が。貴様、たかが人間の分際で何を僕の友を傷付けている。殺すぞ潰すぞ、存在すら残さず、その痕跡すら焼き尽くし――魂魄すらも灰になるまで擦り削ってくれよう。
死ね、死ね死ね死ね死ね。下らぬ滓のような存在でしかないくせに、凹凸のない痴愚の身で調子に乗るなよ敗残者。負け犬はとっとと終わっていろ。
血走った瞳から、そんな憎悪が矢のように尽きっ去ってくる。
だが、常人ならば泡を吹いて絶命しかねないほどの圧力を受けておきながら、本人はさっぱりしたものであった。
「……下らないな。負け犬はお互い様だろう。何を自分は強者だと勘違いしている。本当に勝者ならば、俺たちはこうしてあの男に身を売っていないだろうが」
「あの男……?」
告げるフードの男の言葉に、セイスはピクリとこめかみを不気味に蠕動させた。
「君は今、敗残者の分際で、陛下を侮辱したのか? 僕たちの光を? ――僕の……願いを、夢を、後悔と決意と覚悟の全てを背負うと誓ってくださった、無謬の光をッ! 全てを包み背負う銀色の輝きを、君は今否定したのか? あの方に忠誠を誓うことを、君は今『身を売る』と、そう表現したのかァッ!?」
「喚くなよ、首を垂れるしか能のない犬畜生の分際で」
だが――風化英雄の嘲りは、冥狼の放った怒号と、それに付随するソニックブームによって叩き潰され、さらに男の体を百メートル以上吹き飛ばした。ビルを貫通しながら砲弾が如き勢いで突き進む風化英雄の姿はしかし――次の瞬間には、霞のようにその場から消え去っていた。
「なに? どこへ……っ」
ビルを突き破る音が唐突に焼失したことを訝しむセイス・ヴァン・グレイプニルは、目を眇め風化英雄が消えたであろう場所を見つめた。しかし姿どころか痕跡すら掴めない。未だ衝撃波による滑空は止まっていなかったはず。
消えた――どうやって? ……いや、今はそれはいい。
重要なのはどこにいるかだ。そう遠くへ行けないはず。――そんな甘いセイスの目論見は、背後から響く生気の抜けた死んだ声によって撃ち砕かれた。
「ここだ」
「――――ッ」
「少し眠れよ、ガキ」
銃口をセイスの肩に押し付け、気怠げな様子で告げる。
「夢の中でペットと遊んでろ」
ガァンッ!
撃鉄が降り、火薬が爆発して鉛玉が射出された。弾丸は痩せ細った少年の肩を貫通し、ペガサスの翼をも穿った。
鮮血が散り、それが一つの決着の証としてルーカスとシャーリンの瞳に映った。
そう。
そう、誰もが思った。
戦いを見ていたシャーリンとルーカスも。
引き金を引いた風化英雄でさえも。
だが――
「ア、グ、グァア……」
セイス・ヴァン・グレイプニルの瞳には、美しい純白を赤色で穢された翼が映っていた。
その鼓膜には確かに、苦悶の声を上げる『ともだち』の悲鳴の波が伝わっていた。
手のひらで触れる天馬の体は、痛みと恐怖に震えていた。
「ああ、ぁあ……」
遠くでは冥狼と大蛇が傷を負って、それでもなお、主であるセイスを慮る視線を向けていた。
ああ、ああ――
「なんで、だ……?」
何故だ。何故――何故、僕は今こうして倒れようとしている。
こんな木っ端に『ともだち』を傷付けられ、どうして阿呆のように眠ろうとしているのだろうか。
その瞬間、脳裏に浮かんだのはいつか見た惨状。
彼の大切な『ともだち』が、
赤くて――――――
まるでバラバラに解体されたようで――
――それはつまり
狩られた。
なぜ、なぜ、なぜ――――なぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜ――――――――!
許せない、憎い、殺したい。
そうだ。
眠っている場合ではない。
友を傷付けられたのだ。
あの時と同じように。
もう――嫌だ。
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ。
もう二度と、あんな思いをするのは嫌だ。
大切な『ともだち』を失うのは――あんな血みどろの赤色の絶望の中で泣き続けるのは、絶対に嫌だ――――
「眠る……? ――ありえない。僕は、もう――」
そうだ、もう奪われない。奪われたくない。
だから強くなった。そのためにいろんな子たちと仲良くなった。
守るものが増えて、ああだからこそ――――
「負け、ない……ッ」
だから、さあ――みんな、仲間を守るために、力を貸しておくれ。
僕たち四人で勝つのは無理だから、だから――みんなで斃そう。数で押し切ろう。圧倒的な質と量でもって、ちっぽけな雑魚を蹴散らそう。
その心象は、どこまでも優しい、情の法。単純明快、故に強力、故に強固。
ここに。
魔獣の楽園、その造設の決意が、不完全な形で顕現した。
北欧ギリシャメソポタミアエジプトゾロアスターインド日本中国――――古今東西あらゆる神話の幻獣種が、霊獣、魔獣、神獣の貴賤問わず、不完全な存在感でありながらも、召喚された。
九つの頭を持つ大蛇が。
大樹の根を噛む泥まみれの竜が。
明らかに既存の生態系から逸脱した形を持つ十一種の魔獣と、それらを生み出す母と思しき魔性の女神が。
獰猛な牙を剥き出しにした双頭の魔犬が。
三つ首を持つ禍々しい竜が。
ハリネズミの毛が生えた巨大な牛が。
見上げるほどに巨大な、人面の獅子が。
まるで水がこぼれるように、現実世界へ姿を現した。
「な……ッ」
そのデタラメさに、シャーリンは絶句する。
召喚術師には、スポットとストックいう概念が存在する。スポットとは契約できる幻獣種の質――有り体に言ってしまえば『強さ』の上限を示し、これは十段階で評価できる。対してストックとは、言葉から連想できる通り、契約できる幻獣種の数を表すもので、こちらには上限がない。
シャーリンの場合、スポットが9でストックが1。これでも召喚術師というカテゴリの中では世界トップクラスの実力者だ。
だが、だが――
セイス・ヴァン・グレイプニルは、そんな次元を遥かに超越している。どう考えてもスポット、ストック共に数値測定不能――カンストしているだろう。
否、そもそも――
この少年は、そういう一般的な召喚術師とは、隔絶した別の存在としか思えなかった。
神話の中心に座すような魔獣を、一度に十体以上も召喚するなど、魔術や神秘の域を超えている。神の域を掠っている。
「――――なん、だ、これは……」
終始、余裕の態度を崩さなかった風化英雄ですら、その絶望的な光景に息を呑む。
「さあ、続けよう。
――絶叫しろ、許しを乞え。獣の晩餐の供物となるんだ」
☆ ☆ ☆
魔獣が行進する。
大小強弱関係なく、人の世を終わらせるため、自らの楽園を作るため。
叩き潰す。
枢機卿と枢機卿。
偽神と偽神の衝突。その均衡が傾き始める。




