第六章 枢機卿、稼働 ――Cardinal error―― 9.逆襲開始
「――『染色』――」
世界破壊の黙示録に背中を追われる白亜の拳闘士は、ビルとビルの間を磁力で縦横無尽に飛び回りながら、そう小さく呟いた。
それは心象世界の発露の起句。
深層心理の奥の奥。
ジークハイル・グルースという一人の偽神の在り方、魂、生き様を、宇宙全域に宣言する魂の咆哮である。
「――――『覇王拳』――――」
瞬間。
ジークハイル・グルースが纏っていた電磁力がふっと消え去った。
ビルとビルの間、中空にて滑空していた白亜の拳闘士は、重力に引かれ地面に落下を始めて――しかしその相貌には、依然変わらず凄絶な笑みが浮かんでいる。
地上百メートルから落下し、大気に体を叩かれる途中、異常は発生した。
遥か上空、知らぬ間に生まれていた積乱雲から一筋の亀裂が迸った。対流圏より落ちた紫紺の亀裂の正体は稲妻。稲光の後に轟音を吐き出して、亀裂の先端はジークハイル・グルースの右腕へと落ちた。
「ハッ、来た……来た、来た来た来た来た来た来たァアアアアアッッ!」
「――――ッ」
地面から見上げていた友介の視界が、極光で漂白された。
とっさに目を閉じ、光を遮断する。さらに顔を反らして失明を防いだ。間一髪間に合い、やがて光が落ち着いたことを理解すると、ゆっくりと瞼を開けた。
「よォ、待たせたなあ、処刑人」
口の端を壮絶に歪め、美しい白貌に鬼神のような禍々しい笑みを浮かべた少年。
分かりやすい変化は、右腕にしか起きていなかった。
肩から拳までを覆う、焼けたように赤い鉄製のガントレット。ただし、籠手は存在せず、橋は指ぬきグローブとなっているため、拳は外気に晒されていた。
派手な色遣いだが、中でも目を引くのが肩に装着されたエンジンであろう。ギアは六つ存在しており、さらにギアからは焼けた鉄の羽根が伸びていた。それが背後へ流れるそれらはまるで、天使の――あるいは、悪魔の片翼のようであった。
「どうだどうだよどうしたオイ。なァ、安堵友介。お前ここで俺をぶっ潰すンじゃなかったのか? 倒すんだろ? 勝つんだろ? だったら吠えろや男見せろよ掛かってこいやコラァッ! がっかりさせんじゃねえぞオイッ! こちとらアンタと真正面から殺し合いたくてここまで来てんだからよォッ!」
「吠えやがって、狂犬が――ッ」
哄笑を上げるジークハイルを見上げながら、友介は苛立たしげに呟いた。
「そんなに殴られんのがお望みならやってやるよ、マゾ野郎」
「ハッ、そう来なくっちゃなァッ!」
染色が発動し、世界を砕くギロチンがバルトルートを捉えた。
しかし。
「カハッ」
ジークハイルは急上昇した身体能力により、大気を蹴ってその場から離脱。黙示録の破壊は虚空を引き裂くにとどまった。世界に亀裂が生じる。無の空間が生まれたことで世界が修復を開始し、周囲の景色が大きく歪んだ。大気と言わずビルと言わず地面と言わず、あらゆる物体が世界に生じた空白を埋めるため、ブラックホールのように亀裂の奥へと吸い込まれる。やがて世界の修復が終わるも――既に友介の視線はそちらにない。
睨んだだけで世界を破壊する左目、その視界は既に直角に移動している。一瞬の内に世界を殺す崩呪の眼。しかしその眼は北欧の雷闘神を全く捉えられない。
「チッ――ちょこまかと」
「そんなんじゃァいつまで経っても当たンねェぞ、ノロマァッ!」
カハッ――と壮絶に笑い、白亜の拳闘士は右腕を引いた。
「『一速銃身』」
瞬間、肩の辺りに装着されていたエンジンのギアが組み変わる。
ガキッ、ガキン、と金属が噛み合う音が鳴り、ギアから伸びる羽根が回転した。
「ぶっ飛べ――――ゴラぁアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!」
絶叫を放ち、百メートル近く離れた地上の友介へと力の限り拳を叩き付けた。何がどう転ぼうとも拳が届かない距離だが、しかし――友介は直感で右に飛んでいた。
直後。
不可視の衝撃波が砲弾の如く発射され、先まで友介が立っていた場所を強襲した。地面に接触すると共にこの世の元は思えぬ轟音が響き渡り、硬いアスファルトに直径十メートル近いクレーターが生じた。
友介は辛うじて直撃を避ける位置までは跳躍したものの、余波が全身を叩き二十メートル近く吹き飛ばされた。
「ガ、ァアア!」
空中で何とか制動を取り地面に着地するも、体勢が悪い。次の行動へ移るのが遅れた。
その間にもジークハイルはさらにギアを組み替えていた。
「俺の染色はただ敵を殴り倒すためだけのもんだ。そのためだけの機能を搭載した原動力と車体こそがその正体。魂を燃焼して力を生み出し、放出する。それ以外には何もねえ。ただ殴る、殴り潰す、殴り壊す、殴り尽くす、殴り殺す。そのための『全ての手段』が俺の染色だ」
「――――ッ」
「枝を伸ばせ。心の可能性を拡張し、数多の手段を構築して目指す理想へ邁進しろ。壊すことしか能のない力に意味はない。超えろ限界を。新たな技をその手に掴めェ!」
――どこだ、どこにいる。
声の出所を探ろうと視線を巡らす。
見つからない。
「つまり――テメエに足りねェのはその〝泥臭さ〟だよ」
(うし、ろ……ッ!?)
焦燥に冷や汗を全身から噴き出しながら振り返ると、そこには右腕を引き拳を強く握るジークハイルの姿が。
愉快げに笑いながら、ジークハイルは呟いた。
「『四速零戦』」
「――ッ、野郎ッ!」
染色発動。世界に亀裂が生じた。
友介は確かに白亜の拳闘士が染色に叩き潰され地に伏す姿を幻視したが、しかし――
得意げな笑みを浮かべたジークハイルは、次の瞬間、霞が如く消え去った
「な、ぁ――?」
間の抜けた声が喉から漏れ出した。亀裂はまたも何もない空間を破壊したが、そんなことはどうでも良い。
「どこォ、見てる」
今度こそ間に合わなかった。
「もう一回きっちり言ってやる――遅いんだよノロマぁッッ!」
回し蹴りが友介の脇腹にもろに入り、体がくの字に曲がった。体内から空気が吐き出され、息が詰まる。
蹴りは勢いよく振り抜かれ、黒髪の少年の体は成すすべなく馬鹿みたいに吹っ飛んだ。近くのビルへ背中を強打。またも空気が吐き出され、少年は膝から崩れ落ちた。
「ああ、駄目だ。全然足りねえ。こんなんじゃァ殺し合いになりゃしねェ。なあおい、お前本気出してんのか? それで全力か? そんな程度でバルトルート・オーバーレイに勝つつもりか?」
「ガハッ! あ、グ、ゥううアアアア……ッ、ハア、ァ……」
「あんま枢機卿舐めてンじゃねェぞ」
先までの愉悦に塗れた哄笑から一転、怒りの混ざった言葉とともにジークハイルが間合いを詰めた。
「そんなザマじゃあよォ――本気で、あの赤髪殺すぞ?」
それも、友介の『眼』ですら捉えられるかどうかと言うほどの凄まじい速度でもって。
気付けばジークハイルは、膝を付く友介へ拳を振りかぶっていた。
(は、や――まずいッ!)
「本気でやれよ、全力を振り絞れ。今ある全てじゃねえ。これからお前が手に入れるかもしれねェ全部を掻き集めて、心の奥の奥のそのまた奥の全部をゲロみたいに吐き出せよ。それが男でそれが戦い。お前のぬるい精神じゃあ、何も成せやしねえんだよッ! 死に物狂いで走って駆けて突き抜けて、それでも止まらず邁進しようや処刑ニィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイインッッッ!」
ギアが組み変わる。羽根が回転し、大地を破壊する一撃の発射準備を終える。
友介は転がるようにその拳から逃れたが、やはり衝撃の余波と瓦礫に背を叩かれた。
「ァア、ガ……ッ」
激痛の中、地面が割れる音が聞こえてくる。大地に裂け目が入り、瓦礫が泡のように宙に舞う。
「女とあの世で再会したくなけりゃァ、今ここで限界を超えてみせろ」
「――――ッ」
本気、全力、限界。
安堵友介は、まだ手掛かりすら掴めていない。
☆ ☆ ☆
「ふん」
同刻、ノースブリテンの首相官邸は荒れていた。隣国の大規模テロにあたり、どのような対策を取り国民を守るかを、閣僚たちが右往左往しながら口々に罵り合うような調子で意見を出し合っている。
その上階。
政治家たちが右往左往するその二つ上にあるとある一室。数々の高級な調度品が置かれた豪奢な一室の窓際で、南の夜空に紛れた橙色を眺める姿があった。階下の様子など下らぬ些事だと言うように、その少女は傲慢に鼻を鳴らす。
金糸のように光る、手入れの行き届いた背中まで届く金髪。顔立ちには幼さが残っており、身長も平均的な小学生とそう変わらない。
しかし、白い肌に映えるゴシック調の暗色のドレスを纏った少女が振りまくカリスマ性は、幼女のそれからは大きく逸脱していると言える。
秘密結社のボスのような、壮絶な人生を歩んできた鬼女のような、あらゆる英知を修めた魔女のような、そんなオーラがある。
彼女の名はリリス・クロウリー。
名目上は首相の秘書ということになっている。
「楽園教会と、安堵友介、か……」
呟く声は、どこへ向けた声か。
窓の向こう。北と南を隔てる壁の向こう側で燃えるロンドンの街へ思いを馳せ、少女は嗜虐的な笑みを浮かべた。
「――面白そうな少年じゃあ、ないか」
少女は立ち上がり、階下で慌てふためくご老体へいくつか助言をするため部屋を後にした。
☆ ☆ ☆
ビルの非常電源による頼りない明かりで照らされたロンドン。そんな薄暗い夜の裏路地を、忍び走る四つの影があった。
影の行き先は奇怪なマーブル模様のキャメロット城。
落とされた城を奪い返すため、それらは忍者のように気配を殺して狭い路地を駆けた。
ボニー・コースター=ガウェイン、草加草次、川上千矢、安倍涼太。
四人は大通りに出ると、物陰に身を潜めて巨大な城と、それを取り囲む堅牢な壁を見た。上空から見れば長方形の形をしているそれは、普段ならば騎士や魔術師が壁の上に立って警護しているのだが、既に彼らの姿はない。始末されているか、逃げているか……
どちらにせよ、この先には敵しかいない。そして物陰から飛び出してしまえば、ここから城まで遮蔽物も何もない状態で走り抜ける必要がある。敵の巣窟へ、自身の姿を無防備に晒したまま侵入する。
故に、陽動がいる。
「では、手筈通りに」
川上千矢は草次とボニー、そして涼太に己の体に触れさせると、隠蔽の魔術を発動させた。
四人の気配が虚空へ溶けていった。
そうして、彼らは静かに時を待ち続ける。
☆ ☆ ☆
そして。
「始めよう。逆襲の時間だ」
告げて、金髪の英雄は様変わりした城の正門を破壊した。




