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Rule of Scramble  作者: こーたろー
第六編 鏖殺の果て
149/220

第六章 枢機卿、稼働 ――Cardinal error―― 5.突きつけられた命題

 その襲撃を予期できた者は、痣波蜜希や風化英雄(ノーネーム)を含めて誰一人としていなかった。

 草次と涼太、二人並んでフードの男と戦おうと決意した矢先のことであった。

 ひときわ大きな振動が地面から伝わって来るや、すぐ近くのビルが爆発するように倒壊。一軒家ほどもある巨大な体躯を持つ銀色の冥狼が、瓦礫が舞う中、ただ一つ、凄まじい存在感を放ちつつ乱入した。牙を剥き出しに、獰猛に唸るそいつは、口に五人の人間を咥えていた。


「な――っ」


 咥えられた人は皆、成人していない少女ばかりであった。

 血が滴ってはいるが、まだ息はある。あまりの恐怖に意識を失っているようで、ぐったりと力が抜けていた。


『グル……ッ』


 だが、冥狼が小さく唸ると、少女たちの一人が目を覚ました。


「あ……」


 そして、瞬時に己が置かれている状況を理解。畜生の気まぐれで己の命が終わることを理解するなり、大気を引き裂く絶叫を上げて口から逃れようともがき始めた。


「いや、いやああああああああああああああああああああああああああああああ! きゃあああああああああああああああああああああああああああああああっ! いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

「クソっ!」


 両目から涙を滂沱と流し、狼の口から出ようと全身を振り乱す。胴に食い込んだ牙により自身の肉体が傷ついていることなど気づいてもいない。生きたまま殺されてたまるかと、半狂乱になってもがく。広がった傷口からズタボロになった内臓が飛び出ようが関係ない。とにかく逃げようと必死に足掻く。

 草次もまた、彼我の実力差も考えず、少女を助けようと走り出そうとした瞬間のことだった。



 ばちゅっ。



 あまりにもあっけなく、その体が噛み砕かれた。

 絶叫は僅かな余韻を残して尻すぼみになっていき、肉片が飛び散った。


「うそ、だろ……?」


 ぼとり、ぼとぼと。ぼと。

 噛み零した少女たちの上半身が地面に落ちる。高所からの落下ゆえ、地面に激突した衝撃で肉体がぐずぐずのザクロのように潰れた。

 涙を流したまま絶命した少女の貌が、草次を恨めしそうに見つめている。瞳孔が開き絶命していると分かるのに、生きていた名残からか未だつぅーつぅーと涙を流す少女の瞳は、どうして助けてくれなかったの、と草次に問いを投げているかのようだった。


「あ、あぁ……ちが、う……ッ」


 知らない。

 知らない。

 知らない、知らない。知らない。

 知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない!

 こんなのは、知らない!


「そん、な……」


 草加草次は、知らなかった。

 全ての女の子を守ると誓い、事実その通りにしてきた。グレゴリオの仲間たちと出会う前から、一般には知られていない非公式の仕事をこなしてきた過去があったが、彼はその時にも事実として少女を守り続けていた。

 マッドサイエンティストや機械化兵士と一戦を交えた時も、ギリギリの戦いの中、それでも犠牲を出さずに勝ってきた。


 そう。

 彼は目の前で、その信念が砕かれたことがなかったのだ。

 だが、それは――何も草加草次が優秀だったわけではない。

 ただ、彼がいた場所は地獄でなかっただけの話。居心地の良い、取るに足らぬぬるま湯であっただけの話だったのだ。

 目の前で人が死んだ瞬間を見たことがなかった。彼が立っていた場所は、少し垢が目立つだけの場所でしかなかった。

 地獄と呼ぶこともおこがましい、どこにでもあるようなありきたりな不幸に足を突っ込んで、まるでヒーローや英雄にでもなったと錯覚していただけの、ただのガキでしかなかったのだ。


「――――っ、ぁ……」


 ぐちょり、と粘質な音が頭上から落ちてきた。遥か高い位置から落ちてくるその悍ましい音が何なのか、考える必要もなかった。


「やめ、ろ……」

『待って、駄目! く、くく、くさか、くん! だめ、待って!』

「やァめろおオオオオオオオオオおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!」

「草加さん!」


 筋肉の制御の仕方まで忘れた。強化された肉体の限界をさらに超える力で大地を蹴り抜く。衝撃でアスファルトが爆発し、クレーターが生まれた。

 草加草次は道路を踏み砕きながら十メートル近い距離を一秒も掛からず踏破した。冥狼の真下まで来ると、力の向きを正面から上方へ軌道変更。ロケットのように跳躍し、右手に持った対物ライフルの銃口を冥狼の下顎へ突き付けた。


「やめろって、言ってるだろがアッッッ!」


 轟音が炸裂し、冥狼の顔が打ち上げられた。


『グガァ……!』


 銃口を中心に半径二メートルほどの円の形となって衝撃波が発生。視覚でも観測できるほどに大気が歪んだ。冥狼が口を開けて呻き、噛み砕かれた少女だった肉袋が数個、ぼたぼたと地面に落ちる。

 それが視界に入って――守れなかった少女たちの成れの果てを突き付けられ、自身の無力を自覚して。

さらに、草次の脳が沸騰する。


「ッッッッッ! お、まえ――お前ェ!」


 連続して火薬の炸裂音が爆発した。無我夢中でトリガーを絞り続け、巨獣の下顎に赤黒い穴をうがち続けた。

 しかし対物ライフルの弾丸をゼロ距離から叩き込まれたにもかかわらず、その下顎を銃弾が貫通した気配はなかった。出血はしているが、堅牢な肉と魔術的な障壁によって勢いが殺されたのだ。『黎明』において猛威を振るった幻獣を、人の手で作り上げただけの兵器の一撃で沈めようなどとは、思い上がりも甚だしいのか。――――だったら、ああそうか。ならいいさ。構わない。さらにあと百でも二百でもぶち込んでやればいい。

 残り弾数なぞどうでもいい。戦闘において優先して考えるべき事象すら忘却するほどに、少年の思考に余白はなかった。


 耳に聞こえる誰かの声が脳を経由せず右から左へ流れていく。戦意と殺意に呑まれた鬼神の如き表情を浮かべていた。背負ったギグケースを片手で開き、手を突っ込んで重機関銃を取り出した。空中で体を捻りギグケースを閉めると、銃弾を撃ち込まれ血が流れる傷口へと狙いを定めた。

 草次のちょうど真上にあるため、寸分狂わず弾丸が真っ直ぐ飛べば傷口を抉り貫くことも可能だろう。


 だが。

 不意に視界が真横にぶれると共に、右半身からミシィ……ッ! と、何かが軋むかのような嫌な音が全身へと伝播した。


「ぁ――」

「草加さん!」

『草加くんっ!』

『馬鹿が!』


 視線をそちらへ向ければ、柔らかな毛で覆われた――しかし芯は鉄のように固い――冥狼の尾が、草次の体を捉えていた。

 まるで水の中にいるように、世界の動きが遅くなったような錯覚があった。スローモーションで流れる景色の中、少年はようやく危機を悟り、


(ま、ず――)


 しかし時すでに遅し。

 冥狼の尾が凄まじい速度で振り抜かれ、草加草次は砲弾のように吹き飛ばされた。ビルの窓を木っ端微塵に叩き割り、勢いは何ら死ぬことなく内部の壁を破壊。デスクに体を打ち付けられてようやく停止した。どうやら叩き込まれたビルの反対側まで飛ばされたらしく、ガラスの向こうには、黒い犬によって人々が食い荒らされる地獄があった。

 とはいえ――今の彼にそれを認識する余裕はない。


「ぐご……ァ、ァァァァォおおあああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!?」


 強化骨格や強靭な筋肉を持つが故に骨折や手当て不能の致命傷となる切創などはなかったものの、しかし全身を駆け巡る激痛まではどうにもならなかった。

 並の人間ならば体が爆散しかねない衝撃を受けた。本来ならば即死であったはずだが、少年の肉体は強い。故に、死に値する痛みを受けていながら、少年は死ねない。激痛と呼ぶことすらおこがましい熱のような何かが全身を駆け巡った。

 これまで感じたこともないような痛みに、少年は絶叫を上げて床の上でのたうち回る。


「ァアアア! ああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!? クソ、くそが、ああああ、あああ。ああああああああああああああああああああああああああああッ!」

『草加くん、草加くんッっ! 落ち着いて、だいじょうぶ、だいじょうぶだから、お願い!』


 涙声で懇願する誰かの声も、死そのものの痛みを受けた草次には届かない。


『駄目なの! ほんとに逃げて! まだ来るっ!』

「――――っ!?」


 その最後の一語だけは理解できた。


(まだ、来るだって……?)


 冥狼が来る――草次は、そう思い込んでいた。

 しかし実際には違った。

 窓ガラスを叩き割って侵入してきたのは、美しい白磁の体を持つ天馬と、その上にまたがった灰色の少年であった。


「……」


 言葉はなかった。

 天馬の脚力を存分に用いた蹴りが、地面に寝転がる草次の左肩に叩き込まれる。

 激痛が炸裂した。

 焼けるような痛みが全身へ伝播して行き、生理現象として草次の瞳から涙が落ちる。


「が、ふ……ッ!」


 左腕の感覚が消えていた。


(骨が折れたんじゃなくて、肩が、抜けたのか……!)


 不幸中の幸いと言うべきか、あるいはこれほどまでに強靭な肉体を持ったことを不幸とするべきかは分からないが、抜けただけならはめ直せば戦える。

 天馬が再度足を上げた。


「――――ッ!」


 草次は重機関銃を持ったまま、右手と両足で力いっぱい床を叩いてその場から離脱。間一髪天馬の蹴り下ろしから逃れるも、バランスを取れず、散乱したデスクの一つに体を打ち付けた。

草次は立ち上がると脱臼した肩を戻し、近くの壁を破壊して逃走した。


「――いいや、逃がさない」


 不吉な声を聞いた気がしたが無視する。

 彼の標的はあのよく分からない少年でも、彼が乗るペガサスでもない。

 少女たちを噛み殺した冥狼。

 少年の安全地帯を、彼の侵してはならない『人の死のない安全圏』という絶対の領域を侵した銀色の冥狼だった。


「認めない、認めない。認めない認めない認めない認めない認めないっ!」


 だが、草加草次はもっと考えるべきだったのだ。

 あの冥狼が、誰の手によって召喚されたのかを。

 草次を追い立てるペガサスもまた、フェンリルと同じく神話の獣であることを。

 そして。

 そのペガサスに乗っている少年が、何者で――何を最も重んじているのかを。


「やってくれたね」


 声は、すぐ隣から聞こえていた。

 目を向ければそこには、白磁の天馬と、その上にまたがる灰色の髪の少年。

 ボロボロの祭服と灰色のストール。幼い顔立ちながらも、その昏い瞳の奥には世界を焼きかねないほどの憎悪が宿っているのが分かった。

 ただそれは、草次一人に対してというわけではなく――


「仕返しだよ」


 思考が中断された。

 天馬の翼が振り上げられ、少年の体が真横に飛ぶ。またも壁を突き破る勢いで吹き飛ばされる。少年の体はビルの外壁までもぶち破って再度外に出た。


「が……あ、……」


 視線を巡らせると、先の冥狼がいた。おそらく先と同じ通りへと戻ってきたのだろう。


「好都合……っッ!」


 未だ草次は冷静さを欠いている。

 蜜希の声が耳に入らず、己より明らかに強大な敵に対して無策で特攻する。

 女好きで、戦いを好まず強大な敵を前にすれば足を震わせるような少年にしては、ありえないような状態だ。


 それも全て、ひとえに少年の『安全圏』を壊されたから。

 彼は今、己の常識の崩壊に抗っていた。

 人が死ぬ瞬間を見たことがないから。

 ここまで救いのない結末を知らなかったから。

 要約してしまえば、彼は怖がっている。恐怖している。逃げているだけだった。

 嘘だ、嘘だと叫んで。

 彼の安全神話を破壊した冥狼を抹殺して、全てなかったことにしたい。


 安倍涼太の一件で、瀬川ミユの死体を見た時とは異なる。

 あれはもう、死んでいた。

 彼のあずかり知らないところで、息絶えていた。

 身勝手な話だが、己の知らない間に誰かが殺されているのと、目の前で殺人を見せられるのでは大きく異なるのだ。

 とはいえそれでも、彼は嘔吐していた。

 同じく死体を目にした安堵友介は驚きながらも平然としていたが、草加草次には耐えられなかった。

 それだけでも、彼がこれまでどれほど恵まれた環境にいたかが分かるだろう。

 ヴァイス・テンプレートという、この世の悪意を混ぜ合わせたかのような邪悪を知らなかった。ただ己の身の丈に合った敵を倒せばそれで良かった。


 温室でぬくぬくと栽培された世間知らずでしかなかった少年。そんな彼が、突然地獄に放り込まれて精神の均衡を保てるはずがなかった。

 だって。



 己の信念は、紛れもなく正義で。

 その正義がこんな簡単に屈服するだなんて、想像することもなかったのだから。



「ああああああああああああああああああああああああああああ! ああああああああああああああああああああああああああああああッ! うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!」


 正義は勝つと思っていた。

 だけどそんな幻想は、木っ端微塵に砕かれた。


「草加さ――!」


 戻ってきた草次に涼太がほっと息をつくも、その有り様を見てすぐさま全身に緊張が走った。

張り巡らせた糸を使って草次を回収しようとしたが、己の糸が全て撃ち抜かれたことを思い出し、舌打ちした。今から糸を投げた所で間に合わない。

 そんな涼太の思いやりも全く知らずに、恐怖を否定する平凡な少年は冥狼へと無闇に発砲した。しかし、遠方からの銃撃では損傷を与えられない。銃弾は当たり前のように硬い皮膚に弾かれ、標的はこゆるぎもしなかった。


「クソォ……ッ!」


 悪態を吐くと同時、背後から追い付いた天馬に蹴りを叩き込まれ、少年の体はアスファルトに叩き付けられる。瓦礫と土埃が舞い、軽くクレーターができていた。その中心で、血反吐を吐いて地面に蹲る茶髪の少年の姿がある。


「草加さん!」


 今度こそ糸を投げ、彼の体を掴むと腕を引いて草次を己の後ろへと下がらせた。

 その涼太を――その奥の草次を見下ろす少年が空にある。天馬にまたがり、巨大な冥狼の傍らで無感動な瞳を草次へ投げる。


「ふぅーん……そんなに他の人が大切なんだ」

「――ッ! あれは、あいつ、が……!」


 たこ殴りにされ幾らか理性が戻ったらしく、会話ができる程度に破壊退くしていた。蜜希もひとまず安心する。これだけ冷静さを取り戻せば、さすがに無策で突っ込むような愚挙はもうしないだろう

そう安堵していた矢先のことだった。


「僕にはよく分からないけど。――君に仕返しするには、叩くよりもこういうやり方の方がいいんだろうね、きっと」


 その言葉に不吉を覚えたのは、錯覚ではなかった。

 灰色の髪の少年はパチンと指を鳴らし、ペットを呼ぶように口笛を吹いた。

 すると、十秒とせぬ内に、ロンドンを地獄に染め上げている元凶ヘルハウンドが十匹、それぞれ口に少女を咥えてやって来た。


「おい……」

「じゃあ、これからテストをしよう」

「おいッ!」

『待て草加! 落ち着け!』

『く、草加くん! お願い、お願いだからぁ!』

「――――ッ」

「草加さん!」


 インカムから聞こえる千矢の声も蜜希の涙声も無視して特攻しようとする草次を、涼太が糸で雁字搦めにすることでようやく抑え付ける。


「耐えてください! 本当に死んでしまいます!」

「ぐ、クソ……頼む、涼太くん、頼むって! 早く行かないと、ほんとにあの子たちが……!」


 そんな二人のやり取りなど知らぬとばかりに、灰色の少年――セイス・ヴァン・グレイプニルは話し始めた。


「では今から君には、選んでもらうよ。草加くん、だっけ……? まあ人間に興味はないからどうでもいいんだけど、では聞かせてもらうね」


 セイスの隣に黒い犬が二匹、少女を咥えてやって来た。

 口の中には布を詰められており、二人の少女はただ涙を流し、くぐもった悲鳴のようなものを上げて縋るように草次を見ることしかできない。


「右か左か、選んで」


 端的な命令であった。

 草次から見て右側の少女は、金色の髪が特徴的な中学生くらいの少女だった。

 対して左側の少女は、黒髪であった。歳は十にも満たないだろう。

 二人は告げられた言葉から己の命が誰にあるのかを理解し、茶髪の少年を見つめる。


「どっち? 十秒以内に答えて」

「やめろ……何でだよ、何で……何でこんな事するんだよ!」

「君がリルを傷付けたからだろ? 良いから答えろよ」

「リルって――あの、あの犬か……ッ」

「そうさ」

「あれは最初にお前の犬が――――!」

「知らないよ。死んだそいつらが悪い。それよりもリルを傷つけた君の方が罪深い」

「なっ――――」


 絶句した。

 どれほど――どれほど理不尽なのだ。

 弾劾されるべきがどちらか論ずる必要もないはずなのに。

 セイスは自身の『ともだち』の行為の全てを肯定して、その『ともだち』を傷付けた草次が悪だと言う。

 そんな滅茶苦茶な理論がまかり通ってたまるか。

 奴は人を殺す。害獣だ。今すぐ排除するべきだ。そんなこと、一億人に聞けば一億人が首を縦に振るような自明な答えだというのに、そんな草次の抗議など、セイスにとってはどうでも良い。

 なぜなら、彼にとって人間など塵屑にも満たないから。奴らは死んだ方がマシだと、彼は本気でそう信じているから。

 セイスの理不尽に対して憤っているその間にも、タイムリミットは刻一刻と迫っている。少女が助けて、助けてと懇願している。

 でも、だけど――


「やめて、くれ……!」


 そんな陳腐な言葉しか出てこなかった。

 そして、セイス・ヴァン・グレイプニルは、草加草次の知らなかった本当の地獄の住人であった。



「食べていいよ」



 一瞬だった。

 くぐもった絶叫が響き渡り、少女の体が噛み砕かれる。


「ぁ――――」


 大量の血が吹き出し、その飛沫が草次の顔にかかる。


「ぁあああ、あああああああああ……っ」

「まだだよ?」


 しかし。

 草加草次は、地獄の深さを見誤っていた。


「次。じゃあ、一人と五人ならどうするか聞いていい?」

「だから――! そんなの、選べるわけ――ッ」

「なんで?」

「何でって……人の命を選ぶなんて……!」

「はあ……」


 草次の悲痛な叫びに、セイスが心底呆れたように息を吐いた。


「なんで人間はこう矛盾してるのかなあ。気持ち悪い」

「なに、を……?」


 かすれた声で放たれた質問。

 セイスは瞳から感情という感情を消し去り、ぞっとするほどに冷たい声で――まるで当たり前なことのように――こう言った。



「君たち、いつも言ってるでしょ?

 ――人間は平等だって。

 だったら、数が多い方を助けなよ」



「は――――?」


 一瞬、理解できなかった。

 言葉の意味が、ではない。

 そんなことを平然と言える神経が、でもない。



 まるで、他人事のように人間をそう評価するセイスが、だ。



 そして、彼が自分たちを見つめる瞳を見て。

 草加草次も、川上千矢も、安倍涼太も……そして、ここにいない痣波蜜希さえも。

 全員が、理解した。



 この生き物は、人間のコミュニティには属していないのだ。



 狂っているとか、思想が異なるとか、人間として破綻しているだとか、そういう問題ではない。

 ただただ、違うだけ。

 人間ではないというよりも、自らを人間だと思っていない。

 彼は、己を人間とは異なる生物だと思っている。

 なぜなら。

 人の命を単純な足し算と引き算だけで考えられる者を、人間とは言わないから。

 隔絶し、断絶したその思想は、人間としてのものではない。おそらくだが、魔獣の側に立った考え方なのだ。

 セイス・ヴァン・グレイプニルは、自身を魔獣と同類だと考えている。


「じゃ、もういいか。よく分からないけど、選ばないってことで。六人とも殺すね」


 疑問符を浮かべたまま、それでも約束通りに六人の少女を殺そうとするセイス・ヴァン・グレイプニル。


「やめ――」

「やだ」 


 そして、セイスが命令を送りヘルハウンドが顎に力を入れた。

 くぐもった数多の絶叫が草次の耳を貫き――



「そこまでだ、セイス。それ以上は看過できない」



 銃弾が飛び、セイスの呼びかけに応じた十匹のヘルハウンド、その全てが脳天を打ち抜かれ絶命した。

 呆ける草次の視線の先には、先ほどまで戦っていたフードの男――楽園教会の枢機卿『風化英雄(ノーネーム)』が引き金を絞ったまま立っていた。

 暴挙とも言えるその行動に場の空気が絶対零度まで冷える。セイスの矛先が草次から切り替わる。


「何してるの」

「さあな。俺にもわからない。ただひとつ、お前のやっていることが任務から逸脱していることは理解できる。お前の役目は演出だ。風代カルラを追い詰めるための舞台を整えることだけだ。人間を余計に殺すことも、悪趣味なショーを開くこともお前の役目に無いはずだが」

「だからなに。僕はしたらいけないとも言われてないけど」

「そうだな。つまりは――」


 そこで、名前を持たない何者でもない誰かは、瞼を閉じると、こう言った。



「よく分からないが、俺の染色(こころ)がお前を止めろと言っている」



 そして。

 開かれたその左目は、黒と白の逆転した禍々しい反転目。



「――『染色(アウローラ)』――」



 其は、黙示録の処刑人と同種の理。

 理不尽と不条理と不幸、そして世界と運命を許さぬ破壊の法。

 ある少年と似て非なる、優しき赫怒の絶叫だ。



「――――『敗残の木乃伊(フェイト・オブ・アポカリプス)』――――」



 世界が、割れた。

 破壊の法は銀の冥狼の腹へと叩き込まれ、その体を浮かせた。


『グガアアアアっ!?』


 対物ライフルを至近から叩き込もうとも何らダメージを受けている様子のなかった冥狼が、激痛に絶叫を上げた。その巨体が大きく揺らぎ近くのビルに倒れ込む。ビルが比重に耐え切れず倒壊し、瓦礫が舞った。


「――なんだ、オーディンを殺した神獣っていうのも、大したことないな」


 もうもうと煙が立ち込める中で、痛みに小さく唸る冥狼に、両目で光彩が異なる描画師が侮蔑の言葉を投げた。

 フェンリル。

 北欧神話における終末戦争――ラグナロクにおいて、主神オーディンを飲み下したとされる強大な力を持つ神獣。

 幻獣種と呼ばれる種族の中でも一等の力を持つ神獣と呼ばれる類の神秘。その中においてすら最強の噂の名高いフェンリルを相手に、しかし男は一歩として退かない。


「プレゼントだ。ありがたく受け取れよ」


 さらに二度、三度。

 破壊のギロチンが世界を壊す。

 ガラスが割れるような破砕音が鳴り響き、フェンリルを痛めつけていく。

 召喚術という縛りにあるため、幾分力が抑えられてはいるものの、それでもなお異常だ。

 フェンリルの絶叫が響き渡る。

 それに構わず風化英雄が十、二十と染色をぶち込み続ける。


「おい、やめろ――おい!」


 セイスの怒りの声が風化英雄を叩いた。

 ロンドンの各所に撒いていたヘルハウンドの二割を動員し、風化英雄へと差し向けた。

 通りの向こう、路地裏、ビルの屋上から瓦礫の陰まで――その全てから実に千以上もの黒い喰人犬が殺到した。

 だが。


「雑魚が――目障りだ」


 二丁の拳銃から弾倉を取り外す。空の弾倉が地面に落ちて、乾いた音を発した。

風化英雄(ノーネーム)はその後、両手首に装着したリストバンド型のホルスター、そこに収納された弾倉を、両手でクロスするようにそれぞれ掴むと、腕を一気に引いた。

弾倉を握った手首は固定。そしてホルスターから弾倉が抜かれた瞬間に手を放した。

 弾倉が地面と平行に宙を舞う。その一瞬の間にグリップを叩き付けた。

 弾倉は滞りなく装填され、風化英雄は遊底を引く。


「さて――じゃあまずは掃除だな」


 そうして開かれたのは鉄火の乱舞。

 風化英雄を中心に、ヘルハウンドたちと繰り広げられるその苛烈な舞踊。

 その主役は、陰気な男。


「面倒だ――全身死ね」


 染色、発動。

 百を超えるヘルハウンドが一瞬にして木っ端微塵に砕け散った。


「――――ヨルムン! 今すぐこっちへ来いッ! こいつを殺すッ!」


 さらに他の地にいたはずの召喚獣にまで招集をかけ、本気で風化英雄(ノーネーム)を殺そうとする。


「そうかい、やってみてくれ」


 対して風化英雄(ノーネーム)は下らなさそうな調子で返す。

 枢機卿と枢機卿。

 その激突は、累乗となって世界に破壊をもたらしていく。


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