第六章 枢機卿、稼働 ――Cardinal error―― 4.集いゆく騎士達
「キヒヒッ」
鬼の狂笑がロンドンの街で響き渡る。
「キヒッ、キヒヒッ。キハハハハハッ! おいおいクソ兄貴ィ! 女の影に隠れて自分は安全地帯から攻撃ってのは、ちィとばかしダサいんじゃねェのかァ?」
戦線からはるかに離れた場所に影のように立ち、煙管を吹かして死の芳香を振り撒く率也。彼へ狂笑を向けながら、狩真は殺気も隠さず駆け始めた。所詮は安全地帯で煙管を吹かすしか能のない木偶だ。面倒な力も持っていることだしひとまず最初にぶっ殺そう――そう判断し、殺意の方向性を定め、一気に距離を詰めんと大地を蹴った。
「ねぇ……お兄ちゃん、私を差し置いて誰と話してるのぉ?」
駆け出したその刹那、淫靡な少女の声と共に水の刃が振り下ろされた。小さな少女では到底持てそうにない刃渡り三メートルもある西洋剣が、空気を裂いて狩真へ迫る。
狩真はそちらへ一瞥もくれずにくるりと一回転して避けると、円運動のエネルギーをそのまま乗せた一閃を愛花の背中へ叩き込んだ。
黒い祭服を淫らに着崩した少女の水の刀は、勢い余って地面に突き立てられた。そのまま棒高跳びの要領で空高く跳躍――回避。
標的を失った鬼の刃は空を切るかに思われたが、狩真と並走していたルーカスを食い殺さんと猛った。
「しッ――」
「き、ハッ」
当然の如くそれを受け止めるアロンダイト。人の体躯よりも一回り巨大な質量をぶつけられようとも揺るがないルーカスの体幹は、この場の四人の中でも抜きんでて秀でているだろう。
「どこ狙ってるのぉ? おにいちゃん、ちゃんと私を見てよ」
「おいおい、殺されてェなら避けんなよ」
「だーめ……お兄ちゃんの一番になってからじゃないと殺されてあげない♡」
「うぜぇ。――っと」
マーメイドのように美しく背を反りながら、狂った愛に溺れた少女が囁いている。下らないと聞き流しつつ適当に返事をしたその隙に、卑喰ノ鉈が押し返される。
「づ、ォおおおおおおおおっ!」
「っておいおい、マジかよおっさん!」
狩真は歓喜したように笑いながら後方へ跳ぶ。追い縋るルーカスが横薙ぎの一閃へと繋げ、それを腹を引いて体をくの字に折ることで回避。ピッ……と服の端が千切れ宙を舞った。狩真はそれを、愉快げに目の端で捉えた。
「ヒュウ、やるぅ。危ねえ危ねえ。死んじゃうよ僕、こわーい!」
「黙れ!」
ゆっくりと流れる景色の中、騎士と鬼が赫怒の形相と狂った笑みの表情で対峙する。
「だからあー……」
その間に割り込んだのは、やはり――土御門愛花。
「お兄ちゃん、他の奴見てどうゆうつもり? ここに私がいるよね?」
「うるせえな雑魚。テメエに興味はねえ」
「だったら――」
キヒッ、と兄とよく似た壊れた笑いを発すると、口を三日月に裂いて、
「お兄ちゃんの体に『まなか』をおしえてアゲル♡」
瞳に狂愛を浮かべた少女は、蕩けた表情で狩真の間合いへと無防備に踏み込んだ。
「クカカッ、いっちょ上がり」
その実の妹へと、狩真は躊躇なく鬼の口を叩き付けた。少女の体が腹を起点に爆発しかように弾け飛び、びちゃびちゃと周囲へ液体が飛び散った。
だが――
「あ?」
肉を食った感触が、ない。
「どぉしたのぉ……? なにか……へんなことでもあったー……?」
その体が、透明な液体になる。
水、であった。
彼女の体は水へ変質しており、狩真の一閃は少女に届いていない。
「あはっ♡」
卑喰ノ鉈の口の中にある水が歯と歯の間から流れ出た。空気を流動する人ひとり分の体積を持つ水は、ぐるりと狩真の周囲を回りその背後で再構成される。土御門愛花の体が現出し、少女の狂笑が狩真のうなじを見つめ、艶めかしい手つきで肩に手を掛け優しくこちらへ振り向かせる。
彼女はぺろりと自らの舌で唇を煽情的に舐めると、両手を狩真の頬に添えた。
期待に満ちた瞳で狩真の狂った瞳を見つめると、狩真の唇へ自らの唇を重ねた。
「――ぁん、ん……ん――ふ、ぅ」
彼の咥内を自らの舌で犯す。狩真の歯を、上あごを、舌の裏側までも味わい尽くす。
「――ん、ぅん、ぁ……あむ、ぅ、ぁふ、ぁ、はぁ……っ、ん……」
自らの粘液を兄の咥内へ塗りたくる。上書きする。忘れないよう、この少年が土御門愛花たった一人しか見れないように。
「ん。ふ――はぁぁ……」
やがて、満足したように唇を離す。二人の唇の間に淫らな橋が生まれ、それを見て愛花が淫靡な笑みを漏らした。少年の口の中の味を思い出し、歓喜にぶるりと体を震わせた。
「う、ふふ? どう? 気持ちいい?」
「二十点だよ。風俗から行ってから出直して来いブス。カハハハ!」
少女の腹を蹴り、アロンダイトを振り翳すルーカスへと押し付けた。
「むぅっ……! おにいちゃん……っ」
「く、――っ」
小さな少女、その見た目にルーカスに一瞬の躊躇が生まれた。振りかぶっていた剣から殺気が弱まり、僅かにぶれる。
少女はその一瞬を逃さず離脱。
右手に水の野太刀を握り、狩真をじっと見つめた。
「妹にそういう扱いひどいと思うなー」
「いやいや、俺お前のこと知らねえし。誰お前? 名乗ってみ」
「だから愛花だって……」
「でも多分、字音姉ちゃんのほうが可愛いわ、うん。ああー、可愛かったなあ。初恋から十年間想い続けてるし、そろそろ告白するかァ。うん、俺、字音姉ちゃんと結婚しよ!」
「――――」
瞬間。
少女の瞳からハイライトが消えた。
熱に浮かされた声が、瞬間冷却され絶対零度まで降下した。
「なに言ってるの? 目、潰すよ?」
「キヒヒヒヒヒヒヒヒヒッッ! そう怒んなってェ! 冗談だからよ! 字音姉ちゃんよりもお前の方が可愛いよ、ま……何だっけ。名前忘れた。まあいいや、まなんとかちゃん」
「ふーん……あとまなかね。おぼえてね」
「あーはいはい。あ、でも姉ちゃんと結婚するのは本当だから」
「殺す」
「イヒヒヒヒヒヒヒ! こいつわっかりやすッ!」
目の端に涙を浮かべて笑う狩真。
彼は愛花から逃げるように後退したが、しかし――
「仲が良いことは構わんが、後ろに俺もいることを忘れるな!」
「おっと」
紫紺の剣が縦一文字に振り下ろされた。狩真は半身になって避けるが――
「あー、クソ。うぜェなクソ兄貴」
その周囲には、紫色の芳香が漂っている。
「うぜえ。茨木……じゃあ無理だな。うーんそだな……。よし、目一つ鬼! ちょっとシチュエーション的に意味不明で悪いが、まあすまん。あの霧全部喰え」
瞬間、狩真の持つ巨大な口の形をした刀――卑喰ノ鉈から、黒い液体が飛び出し、狩真の隣でとぐろを巻いた。超高速の小さな竜巻は、やがて頭が異様に巨大な歪な人の姿を取る。現れたそいつは額に大きな瞳を持つだけの独眼鬼。
身長は二メートル半といったところか。真っ黒な体表にごつごつとした岩のような体、右手に持った、刀身が熱で赤く変色した作りかけの刀が特徴的な鬼だった。
開いた口の向こうには人間の胴体ほどはあろうかという巨大な牙。涎を垂らした汚い口を大きく開けて、霧を吸い込み始めた。
まるで排水溝へ流れる水のように、紫色の瘴気が鬼の口へと吸い込まれていく。
狩真はケラケラと笑いながら、率也が立っているビルの屋上へと視線をやった。
「ハハッ! 残念だったなあ、クソ兄貴。こいつは吸引力の変わらないただ一つの掃除鬼だ! キハハッ、これもしかして二十一世紀で一番面白いギャグじゃね?」
紫煙を飲み尽くした一つ目の鬼が卑喰ノ鉈へと帰っていく。人の資格に本能的な不快感の与える笑みを零しながら、狩真は実兄へジョークを飛ばす。
「――下らない」
彼の視線の先には誰もおらず、
声は背後から聞こえていた。
「その許可証を誤認しろ――門を開ける、生者の足を引くがいい。急急如律令――……」
「――――ァあ?」
直後、狩真の足元を中心に毒々しい紫色の池が生まれた。
「これ、は――――」
「お前、俺の詠唱を聞いていなかったのか?」
青年の言葉の直後、表面の腐った腕が湖面を突き破り狩真の足を強く握った。
それを先駆けとして次々と腕が飛び出し、狩真の足首や大腿を握っていく。
狩真はそれらを卑喰ノ鉈で喰い尽くすと、さらに背後にいる率也へとその鬼の口を叩き付けた。――が、肉を潰す感覚がない。目を巡らすと、既に率也は愛花を隣において安全圏へと脱していた。
「おいおい、ほんとにテメエは陰湿な戦い方しかしねえな……」
侮蔑の言葉を投げられた所で、死者にしか思いを馳せぬ男には響かない。ただ、池の中心で腕を斬り続ける弟を見るだけであった。
「ああー、これ、沈んでるよな」
ずぶずぶと僅かずつだが池へ沈んでいく己の足を見て、狩真が緊張感のない声を上げている。
「ま、なんとかなるだろ」
一方その頃、被害に遭っているのは同じ場所で戦っていたルーカスも同じで、纏わりついた腕をアロンダイトで切り尽くすと、空へ向けられた手のひらの上を足場にして池の外側まで出ていた。
同時。
『――に、――――げるッッッ!』
「――? これは……」
胸ポケットに入れていた通信霊装から聞き覚えのある声が流れてきた。
『外宮―――どえ―――! ――反撃の――――時だ――――!』
――これは。
ディリアスの声であった。
内容から察するに、これより円卓の残滓は『外宮』に集い、そこで作戦を立て、楽園強化へと反撃を行うのだろう。
だが――
(奴らを放っておいて、大丈夫なのだろうか……)
湖の騎士は、この場にあのような化け物三人を残すことに不安を覚えた。
とはいえ、既に近隣の住民の非難は済んでいる。建造物が倒壊することはあれ、民が被害を受ける可能性は多いに低いとは言える。
だが、それでも――
嫌な不安は消えない。
数秒の逡巡。頭蓋の中で思考を高速で回していたその時、それは来た。
最初は、小さな足音であった。大量の動物がアスファルトを駆ける音。だが、次第に様相が異なって来る。
犬の遠吠え、それはいい。
だが、そこに人々の悲鳴が混じっているとはいったいどういうことだ?
答えはすぐにやって来た。
全身を血や肉、臓物で汚した黒い犬が、口にナニカを咥えて疾走していた。
「あれ、は――」
数は十から二十と言ったところか。
赤黒い肉袋のようなものを咥えた犬の群れは、ルーカスを見つけるやそれを放り出し、口元に捕食者特有の獰猛な笑みを浮かべると、速度を上げて向かってきた。
捨てられた肉袋が転がり、ルーカスの足元に落ちる。
言うまでもなく、人であったもの。
ルーカスは怒りに歯を食いしばり眦を決すると、飛び掛かってきた目の前の犬へ紫紺の邪剣を叩き込んだ。
腹から上下に分かたれた犬は悲鳴を上げる間もなく絶命する。
ルーカスは死体の方を見向きもせず、未だ迫りくる多くの悪魔へと視線を向ける。
「楽園教会が解き放った魔獣かッ! ……おのれ。これ以上、この国を荒らさせはしないッ!」
あの魔獣がこの地域にだけ送られているとは到底思えない。
先の十二単の女と銀狼の戦闘から考えると、あの魔獣が召喚された場所もおそらくキャメロット城付近であり、魔物の侵攻分布はそこから放射状に広がっていると考えられる。
となれば、必然的に市民の被害も出てくるだろう。
故に――
(ここで奴らにこだわり足を止めるのは愚策か……! おのれ、ここであの犬どもを殲滅して一旦離脱するしかない!)
決断から行動は早かった。
邪剣を構え地面を蹴ると、瞬く間に敵陣の中央へと切り込んでいく。嬉々として肉を喰らおうと飛び込んでくる犬どもの多くを冷静に切り払った。
とはいえ二十匹近い魔獣全てを屠れるわけもなく、何匹かは彼の脇を通り過ぎて今現在戦っている狩真の方へと進んで行った。
「ほえ?」
狩真の間の抜けた声を発すると同時、池の淵から中心にいる狩真へと大きく跳躍。膝まで池に沈んで身動きの取れない狩真へと、食欲をぶつける。
だが、魔獣は知らなかった。
たった今、何も考えず本能の赴くままに飛び掛かった相手――土御門狩真が、生まれた時から頭のネジが飛んでいる異常者だということを。
「キヒヒヒッ、良いトコに来たなァ」
酷薄な笑みに魔獣が恐怖を感じた時にはもう遅い。
狩真は飛び掛かってきた犬の腹に拳を叩き込むと、よだれを飛ばして激痛に悶える黒い犬の前足に、その骨を砕かん勢いで噛み付いて湖面へと叩き付けた。
「良い土台じゃねェか。俺のために死んでくれ、犬畜生くん」
口から噛み砕いた犬の肉を吐き出すと、右手に持った卑喰ノ鉈で胴体に絡みつく腕を一つ残らず喰い尽くした。
沈みかける犬の体へ手のひらを押し付けると、背筋を使い、沈んでいた足を底なし沼から引き抜く。そのまま逆立ちになり、さらに腕へ力を込めた後跳躍。手のひらと犬の体の間に数十センチの隙間が空き、
「ヒハハハハハッ!」
空中で奇怪な動きを見せる。ブレイクダンスのように体を空中でひねりつつ卑喰ノ鉈を一閃。狩真を冥府へ道連れにしようと伸ばされていた腕が全て細切れ以下の血粉と化した。霧となって撒き散った血潮が狩真の全身を濡らす。
「ったく、死者なんて切っても何もなんねえんだけどなァ」
狩真は先のルーカスと同じように手のひらを足場にしてルーカスとは反対の岸へと逃れると、そのルーカスへと声を投げた。
「ありがとなおっさん! やっぱあんたとは友達に……ってなんだ? 逃げんのかよ」
手を振って陽気な笑顔を向けていたのだが、その表情が曇る。
彼の視線の先、大量の犬が地に伏す中、ただ一人帰り血まみれとなって立つルーカスは、侮蔑の視線を狩真へ投げると、
「ふん。急用ができた。俺もお前たちをこの場に残すには不本意だが、奴の呼びかけだ、行くに決まっているだろう」
「なんだよ。奴とか知らねえよつまンねェなあ」
その言葉を無視して、ルーカスは去って行く。紫紺に輝く邪剣を眩しそうに見る狩真だったが、すぐに視線を敵へと戻した。
「お兄ちゃん……ねえ、さっきからなんで他の人ばかり見てるの……? ねえ、ここに私がいるよね? ねえ、ねえねえねえねえねえったら!」
「いや、俺の本命は字音姉ちゃんだから」
「……っ」
愛花の頭蓋の中で神経が切れる音がした。
「さっきから、さっきからさっきからさっきからさっきから……何回、何回……何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回――――ッッ!」
愛花は右腕を前に出すと、水の盾を展開。盾はやがて渦を巻き、そこから無数の棘が浮き出る。
「そんなこと言う口、いらないよね?」
くぐもった爆発のような――低く、それでいて大気を痺れさせるほどに巨大な落雷のような音が爆発する。盾の表面に現出した無数の棘が槍と化し、凄まじい勢いで射出された。ニヤニヤと笑う狩真へと殺到し、その体を蜂の巣にせんと少女の激怒を残虐な形で体現する。
狩真は卑喰ノ鉈を構えると、ただ己の直感に従って鬼の口を持つ野太刀を四度振った。
水の槍が着弾し、水飛沫が飛び散るも――その奥に立つ影は悠然と笑いを漏らすのみ。
「キキ、キ、キヒヒヒヒッ。なァるほどなぁ。テメエに関してはさっぱり分からねえぞ、メスガキ」
「まなかだよ、名前。お兄ちゃん、恥ずかしがらずなくても、私はいつでも待ってるからね」
「そのうちなァ」
ひゅんひゅんと野太刀を振るい血を飛ばすと、その峰を肩に乗せた。
「にしても分かンねえ。クソ兄貴の魔術は染色とも関連してるだろうし分かりやすいんだけどな。さっきの魔術もお得意の死霊魔術だとかなんとかだろ?」
土御門率也が修めているのは魔術の中でも特異な技術たる陰陽術。式神を使役し、自らの獲物へその力を憑依させることこそが陰陽師の本質ではあるが、別の側面もまた存在する。
泰山府君の術。
延命と反魂、命の逆行である。
もっとも、『生死操作の不可能』というこの世の大原則が存在するため、かの大儀式は当然ながら未だ完成していない。
しかし、不完全ながらも死者の国――即ち霊界の小さな情報へアクセスすることは可能となった。
事実として、実在が定かではないが『悠久種・吸血鬼』と呼ばれる種族は、霊界に死者の魂と共に存在していると称される〝悪魔〟を屈服させその力を扱うと聞くし、並の魔術師であっても、雷をはじめとした五行にも四元素にも含まれていない属性の魔術を扱う時は〝精霊〟という講師存在の力を借りる。
土御門率也は霊界〝そのもの〟にアクセスしている点で特殊かつ異常ではあるが、これもまた理屈は通る。
愛花が作り出した水たまりを『泉』という記号に当て、率也自身の魔術と掛け合わせることで、その水たまりを霊界と現世を繋ぐ扉――あるいは、『穴』へと変質させ、死者の現世への干渉を促した。盆の時期に海で遊べば魂を引かれるという言い伝えもあるように、そもそも大和の地において水辺というものは死者が生者を引きずり込む場所としての意味合いも持つ。
率也に関してはこのように、複雑ながらも魔術的な理屈が通ってはいる。
しかし――
「けどチビ。テメエはマジで分からねえ」
「へえ、じゃあもっと考えてぇ。私のことだけ、私のことばっかり。いっぱいいっぱい悩んでよ……アハ は アハハハ ハ ハ」
「黙ってろ」
そう――愛花に関しては意味不明である。
率也は言っていた。愛花にはイタコの素質があり、楽園教会に引き取られるまでは恐山で暮らしていたと。
だが、愛花が操っている魔術はどう考えても水の魔術。
先に言ったように水辺には彼岸と此岸を繋ぐという意味合いも存在するが、それで強力な水の魔術を扱えるようになるというのは、さすがに強引が過ぎる。水辺そのものはあくまでも触媒として使えるだけであり、イタコの素質を触媒に水の魔術を扱おうしても大した力は発揮しないだろう。
これは数学における集合の考え方を用いれば簡単に理解できる。
『死者との交信』という概念の中に『水辺では死者が生者を引き込む』という概念が含まれているだけであり、率也はその死者との交信の方法を限定し、強力な効力を発揮しようとした末に先のような方法を取ったに過ぎない。
魔術とは妄想を具現化する異能だ。だがそれは、願えば何でもできるという単純なものではない。
むしろ逆。
凡人の乏しい想像力を飛躍させるためには、手順を踏まなければならない。
だが、土御門愛花はその大原則を無視している。
イタコである彼女が扱う魔術は『降霊術』と呼ばれるものであるはず。
そもそも近代西洋魔術において、死者や冥府と交信する『降霊術』は、あくまでも『占い』でしかなく、攻撃的な意味を持たない。そして当然、イタコの扱うそれもまたその例に漏れることはない。
先人の知恵を借り、迫りくる危機や恐怖を乗り越えるためのおまじない。
そんな低級の魔術が、これほどまでに攻撃的なそれへと変じる道理が浮かばない。
「お兄ちゃん、もっともっと、もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっとも――――――――っと、私のこと考えて! もっと、もっともっと! もっともっともっともっともっともっともっともっと――ッッ!」
「だからうるさいっての。今考えてるから向こうの方で股ぐら濡らして口でも膣でもかき回してろ」
言葉を交わしながら切り結ぶ。
一方は刃渡り三メートルの長大な水の西洋剣を持ち、もう一方は人の背丈ほどもある巨大な鬼の口を振り回す。それらが両者の中点がぶつかり合い、水飛沫と涎を飛ばす。
そうしながら、狩真は先ほど呼び出した独眼の鬼を再度呼び出した。
「目一つ鬼、何回も悪ィが、あのクソ兄貴の死の芳香はお前が吸い続けろ」
『■■』
「よォしよし、いい子だ」
ニヤニヤと狂った笑みを浮かべたまま、狩真は再度実妹へと野太刀を叩き付けた。
水の西洋剣でもって受け止められる。
轟音が鳴った。
月明かりの下、闇に生きる人格破綻者たちが激突する。
☆ ☆ ☆
炎を纏う陽剣と、激突と共に莫大な衝撃波を生み出す合金の爪が火花を散らして弾き合った。
紫色の髪を振り乱して着地したサリア=バートリーは、無邪気な笑みを浮かべてボニーを見つめた。
「ありゃりゃ? お姉さん、弱くなった?」
「……ばれていましたか」
日が沈んだことにより太陽のかごを受けられなくなったボニーは、戦闘能力の低下を見破られ、背に嫌な汗をかいた。安堵友介とすら渡り合った日中三倍の加護が消え、なおかつそれを敵に知られた。
絶望的な状況だが――それでもなお、気丈に笑みを浮かべてみせた。ゆっくりと、動揺を悟られぬよう呼吸を整え、より一層の闘志を漲らせ権を構える。
「しかし、だからと言ってここで退くわけには――、?」
だが、言葉の続きは騎士服の胸ポケットに入れていた通信霊装から届いてきた声に止められた。
楽園教会を倒す――そう宣言したのは、彼女の敬愛するディリアス・アークスメント=アーサーだった。
ボニーはしばし逡巡したが、一度だけ目を閉じると構えていた剣を降ろした。
「ん……? どうしたの?」
「いえ、少し行かなければならない所があるので」
「む……サリアとはもう遊ばない?」
「ええ」
「でもー……サリア、あのお兄さんを守るように言われてるしー」
「ご安心を、もうあの少年には手を出しません。事態はそれ以上に深刻になっているようです」
疑問符を浮かべるサリアから視線を外し、彼女は大部屋を見渡した。
緑あふれる空間だったそこは、しかし今や、見る影もないほどに変質していた。
茂っていた草木は見る影もなく枯れ、黒く変色している。壁は毒々しいマーブル模様になり、たった一つしかなかった扉が、今や八方に設置されていた。
太陽が沈んだことにより、日光を部屋の中へ届ける魔術は機能しておらず、薄暗い光しか発さない照明が部屋を淡く照らしているだけ。明らかに光量が減ったことも、大部屋の雰囲気を不気味にしている要因かもしれない。
「これから私が相手取るは、楽園教会と呼ばれる組織」
「サリアは都市伝説だと思ってたよ」
「私もそう思っていたのですが、どうやら実在していたようですね。スケープゴートとしての『名前だけの教会』ではなく、毒に汚染された中身を伴う、気狂い達の集団」
ボニーの凛とした眼差しを正面から受けたサリアは、光沢を発する禍々しい合金の爪を顎にあてがい、
「うーん、まあそういうことなら良いよ。サリアだって人を傷付けたりはしたくないし、あのお兄さんを付け狙わないなら見逃しちゃうかも」
「そうですか、感謝します」
頭を下げ、表面上は彼女に感謝を伝えているボニーだったが、心の中では不審に思っていた。
(人を傷付けたくない……?)
その言葉が纏う違和感は相当なものだ。
敵とは言え騎士の腕を引き千切っておいて、今さらそんな言葉を吐くだろうか?
彼女が精神の壊れた異常者であればその発言に疑問は浮かばないのだが、どうも違う。人を傷付けたくないと言った彼女の瞳を見るに、嘘を吐いている様子はなかった。
ただ、戦いの中の彼女の殺気が本気であることも事実だ。
「…………っ」
「どうしたの?」
周囲の草原に出来た巨大なクレーターを見ながら、太陽の騎士は思案する。
何かが腑に落ちない。
だが――
「今考えた所で仕方のないことですね」
「ん? 何が?」
「いえ、こちらの話です」
特段急を要する案件ではない。彼女に感じる違和感は気になるが、しかしより重要な事件が既に発生している。
ボニーはそう判断し、おかしな行動を取るボニーに首を傾げるサリアに背を向けた。
「では、私はこれで」
「はーい」
大部屋の壁際まで歩き、陽剣を振るって壁を破壊する。
轟音と共に視界が開ける。煌びやかな星夜が空には広がっており、対照的に眼下には、至る場所で火の手が上がり、悲鳴が連鎖するロンドンの街があった。
ボニーは剣を握る拳に力を込めると、地上二十メートルはあろうかという場所から飛び降りた。
「あーあ、いなくなっちゃった」
破壊された壁の穴から風が吹き込み、少女の紫色の髪を揺らした。
長い前髪に隠された瞳があらわになり、端正な顔立ちが、破壊された壁から差し込む月明かりに照らされる。
どこまでも純粋で、どこか悲しそうな表情。
誰にも気付かれることのない、たった一人の時にしか見せない――そんな、どこか大人びた笑み。
やがて風が収まり少女の顔がまたも隠されると、その笑みを消していつものサリアに戻る。
「上に行っちゃお!」
自らが残した破壊の爪痕。
それには目もくれず、少女は魔導兵装を己が体の中にしまい、意図せずして死地へと進んでいった。
☆ ☆ ☆
簡単な話だった。
彼女の魔導兵装『重場暴虐嵐装腕』には攻撃した対象に重力を付加する魔術が用いられている。その力でもって敵の体を押し潰すことを目的とした対人兵装である。
円卓の騎士や描画師のような強靭な肉体を持っているか、あるいは堅牢な防御力を誇る盾でも用意せぬ限り、体に受けた瞬間に爆発四散するような凶悪な兵器。
その痕跡が、草原に作られた無数の巨大なクレーターだ。人の体がすっぽり収まってしまうほどのクレーターを生み出す力。
その力を並の騎士が受けて、腕一本千切られるだけで済むわけもない。
つまり、あの腕は彼女とは異なる要因によって千切られたもの。
友介たちの前に現れたとき、ちぎれた腕を握っていたのは、拾ったものを演出に使ったというだけのこと。
犯人は――サリアは知る由もないが――セイスが放った黒い犬の魔獣だ。
だが。
その真実を知る者はいない。
あの場にいた皆が、サリアを残忍な狂人として認識しただろう。
サリア自身、それを望んでいる。
そう――彼女は、人に嫌われたいのだった。




