第六章 枢機卿、稼働 ――Cardinal error―― 1.海の向こう
ひゅるり、ひゅう、ひゅるり。
そんな擬音が似合う、寂しい風が安堵友介の耳を撫でていった。
「ん、あ……?」
目を開ける。景色を見る。
視界いっぱいに広がった景色は、どこか見覚えのある、けれど絶対に知らない場所だった。
「ここ、は……?」
日本の、どこかの地方都市であった。来たことのない街だ。
ただし、人の気配はない。
空は灰色の雲に覆われており、地面には命の息吹が感じられない。雑草が茂り、その中で懸命に咲く花がある。
少し遠くには学校がある。反対を向けば駅――当然無人――が建てられており、その近くにはカフェもあった。猫の看板が可愛らしい。
学校の向こうには山が見えるし、そちらから左へ目を向ければ海がある。おそらくあの海にも、海藻の類は合っても、魚やプランクトンなどの動物はいないような気がした。……寄せては返す波の音が友介の耳朶を優しく撫でる。何故だか安心するその音に、少年は泣きたい気持ちになった。
どこまでも広がっている海。果てなどなく、行こうと思えばどこへでも行ける、無限の可能性。
心を洗い、どこまでも包んでくれる波の音に――なぜか友介は、奇妙な寂寥感を覚える。
「ここは……」
「どこだと思う?」
感傷をふるい落とし己を取り戻すために発した声に、背後から返事が返ってくる。
立っていたのは、中性的な顔立ちの少女。愛らしい顔の向こうに、狡猾な女狐がいるのが分かる。
「……ここは、どこだ?」
「それを答える必要があるかい? 君にはやらなきゃならないことがあるはずだけど」
「……ああ、そうだったな」
悔いるように目を伏し、割れんばかりに歯を食いしばる少年を見て、女の瞳が柔らかく優しげに細められる。
「光鳥感那」
だが、彼が顔を上げると、そんな彼女の優しい笑みは何処かへと消え去り、狡猾で、人を見透かしたかのような笑みへと戻っていた。
「頼む。俺を強くしてくれ」
「ああ、そのために君をここへ連れてきた。君を鍛える――そのために、僕は君をここへ連れてきた」
「ここ……」
「ああ。はは、まあちょっと、意地悪をして悪かった。僕が簡単に説明して上げよう。っと、その前に……」
何かを思い出したかのように顔を上げると、
「おーい、友介くんが目を覚ましたよ、戻ってきてくれー」
そう呼びかけると、近くの大きな交差点の向こうから二人の少年がやって来た。
「起きたのか、アンド。怪我は治ったのか?」
「え、ああ……完治はしてねえし、傷はめっちゃ残ってるし痛えけど……でも動けるぜ、戦える」
「そうかい。なら良かった。君が描画師で助かったよ。回復力も常人とは思えないね」
ディアの質問に友介が軽く手を上げて答え、感那がそれに笑う。
そして、もう一人の少年。
「よう」
気軽に挨拶をしてきたのは、ジークハイル・グルースだった。
彼は童のように無邪気な笑顔を友介へと向けた。本当に邪気のない笑みだ。まるで、これまでの禍根の全てを忘れたかのような晴れやかな笑顔。
こいつは、このクソ野郎は――
「おい」
安堵友介の喉の奥から、低く冷たい声が漏れた。
「こらテメエ、自分がどういう立場にあるか、分かってこの場に立ってるのか? もし分かってないなら、お前を今すぐ殺してやる。分かってるならなお殺す」
「ハハッ、そういきり立つなっての。今のお前じゃ無理だよ」
「試してみるか?」
ああそうだ。目の前で呵々と笑う拳闘士は、カルラを連れ去った主犯の一人だ。コールタール・ゼルフォースとバルトルート・オーバーレイ、そして、ジークハイル・グルース。この三人が、あの場で友介達五人を追い詰め、恐怖に嘆くカルラの髪を引っ張って連れて行った、諸悪の根源。
不倶戴天の敵。絶対に、今すぐ絶命させなければならない邪悪に他ならず、故にこそ、黙示録を宿した魔眼でもって、一刻も早く撃ち砕かねばならない混沌そのもの。
「俺の染色がどういうものか……何も分かってないほどお前も馬鹿じゃないだろうが」
少年の左眼の白と黒が入れ替わる。禍々しい反転目へと滲むように変じていき――
「今すぐその体ごと砕いてやってもいいんだぞ」
貴様ら混沌の作り手を滅ぼす黙示録が、この左眼には宿っている。
天地に仇名す『悪法』ども、崩呪の眼光で撃ち砕く。それが貴様の末路と知れ。
「ハハッ、魅力的な提案だが、それは乗れねえなあ。なんせテメエは雑魚だ。やったところで俺にプラスは何もない。加えて、お前もその場の感情に身を任せてンじゃねえ。お前の目的は、俺じゃねえだろ」
「……ッ」
その一言で、友介は冷静さを取り戻す。
そうだ。彼はこのロンドンまで、敵をぶちのめしに来たのではない。あくまでもカルラを助けに来たのだ。ならば、ここで無用な戦いをする必要もない。
「……ふぅ――……」
ゆっくりと息を吐き、友介は心を落ち着ける。
そうだ、忘れるな。
お前はさっき、枢機卿の一人たるバルトルート・オーバーレイに負けている。
なら、自分を強くしてくれるというジークハイルの提案に乗ろうではないか。その末に、カルラを救うついでとして、この馬鹿をぶちのめせばいい。
「話は終わったかい?」
友介の中で落としどころが見つかったのをその様子から察したのだろう。感那が晴れやかな――しかしどこか胡散臭い笑みを顔に貼り付けて、言葉を続けた。
「さて、では本題だ。ここがどこだって聞いたよね? 友介くん。そして、先に目を覚ましてたディアくんも」
「ああ」
「……」
各々の反応を示す二人へ、感那は意地の悪い笑みを浮かべる。
「なら、教えてあげよう。今から君たちは、世界の謎の一つを知ることになる」
思わせぶりに勿体ぶった彼女は、こう告げる。
「ここは異なる可能性の世界。数多に重なる『世界雲』――その可能性の一つだよ」
☆ ☆ ☆
「逃げたか……」
舌打ちをして染色を閉じたバルトルートは、忌々しそうに吐き捨てた。先ほどまで友介がいた空間を憎悪すら感じさせる瞳で睨む。やがてゆっくりと瞼を閉じると、背を向ける。
先の現象、はっきり言って理解不能であった。
中性的な顔立ちの少女が手にしていた綿あめのような謎の物体。それを友介が染色で破壊した直後、彼の周囲に黄金の亀裂が走り、光り輝く粒子に包まれた彼は、そのまま亀裂の向こうへと吸い込まれていった。
「はぁああああああああああ~~~。マジかよあの女狐。趣味が悪いにもほどがあるっての」
額を抑えて悲しげな声を上げたのは、デモニア・ブリージアだった。
「ったくよぉ。ジークの野郎が寝返るわ、俺様の『専売特許』は奪われるわ……散々だわ。まったく。俺様、何か悪いことしたか?」
一人で大きなため息と共にうな垂れるクズを無視して、バルトルートは己の妹へと声を投げた。
友介がこの場から消えたことに、安心と哀切の二つの感情を湛えた複雑な表情を浮かべる少女に、しかし兄は――
「帰るぞ。立て」
「……っ。は、い……」
口答え一つせず、少女は言いなりになる。
「今回は貴様の落ち度だ、風代カルラ。貴様が躊躇などせず安堵友介を斬っていれば、奴はあのような深手を追うこともなかった」
「そう、ね……」
「――――、なら良い」
応えるまでにほんの数秒の間があったが、それに気付いた者は誰一人としていなかった。
「おや、戻るってか。律儀だねえ。良い奴だろお前もしかして」
ひとしきり騒いだらしいデモニアはカルラへ歩み寄ると、その顔に柔和な笑みを浮かべた。ニコリと、人の良い笑みを浮かべる。その邪気のない笑顔を見て、カルラの嫌悪感はより一層増すばかりであった。
「そんじゃ、戻るぞ。拷問室へ」
「――――ッ、っ」
赤い少女の両肩がビクリと震え、その瞳に怯えが瞬く間に広がった。
「ひ、ぅ……やだ……」
「やだって言われても聞けませんなあ、カカカッ。まあそうビビるなって。まださっきと同じことするだけだからよォ」
「う、ぅあ……やだ、やだ……お願い。誰か、だれ、か……」
「んん? 誰か、何? まさか助けてとか言うつもりでちゅかあ? 5000人以上の人を殺しといて? 虫のいい話だなあ。自分は命乞いをする女の子を顔色一つ変えずにバッサバッサと斬りまくっといて? 自分がいざその立場になったら、無責任に他人へ助けを求めるって、もうそれ害悪だぜ? おいおい。よく生きてられるなお前」
「う、いや、ごめんなさい……う、ううぅううううううう……ッ、ごめんなさい……ごめんなさい」
「ギャハハハハッ! そんな俺に謝られても困るってのォおおおおお! 謝るなら殺した本人に謝ってくださーい! あ、もうこの世にいないから謝りたくても謝れないのかッ! じゃあもう駄目だな!」
「あ、ぁあああああああ……やだ、やだ、嫌……なんで、なんでぇえ……っ」
尻餅を突き、必死にデモニアから距離を取ろうとするカルラ。そこへ、赤髪の少年が割って入った。
「待て、塵屑」
殺意すらこもった視線を向けるバルトルートに、デモニアはニヤニヤと悪趣味な笑みを返す。
「どした? 妹に情でも湧いたか? そんなカスに?」
「デモニア・ブリージア。そこまでやる意味が、」
「あるんだよぉ、あるある。あるからやってんの。こいつを虐めるのは楽しいだけじゃない。必要なこと。こいつがボロボロのグチャグチャになって、その心を徹底的に痛めつけてぶっ壊すぐらいやらねえとダメなの。事実として、こいつは戻ってる(・・・・)。せっかく精神をズタボロにして自我をぶっ壊したってのに、たかがクソガキ一人を見ただけで記憶が戻ってやがる。足りねえんだよ、こいつを鏖殺の騎士にするには、こいつの大切な全てを壊さないといけねえ」
そのデモニアの非情な論に、カルラが恐怖に顔を真っ青にした。もはや「いや」というその一言すら漏らすことができない。それほどまでに追い詰められていた。
そして彼女を庇っているバルトルートは、しばし瞑目し――やがて静かに退いた。
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………あ、ぅ……」
その瞬間、カルラの目の前が真っ暗になった。お兄ちゃんなら、もしかしたら……そんな淡い期待を見せられた。光をちらつかされ、弄ばれた。
また、あんな場所に放り込まれるのか。
もう嫌だ。あんな地獄のような仕打ちはもうたくさんだ。
本当に死んでしまう。
だって、あれからは、絶対に目を逸らせないのだから。
そして。
「やだ、よぉ……忘れたく、ない。友介のこと、忘れたく、ない、よぉおお……」
「――ああうるせえチビ、黙ってろ」
だが、願いは聞き届けられない。想いは届かず、芥の懇願など塵箱に投げ捨てられた。
デモニアは指を鳴らすと、少女の周囲から酸素をほんの少しだけ奪った。ただそれだけで、カルラの目の前が真っ暗になる。くらりと体が揺れ、意識を失いコンクリートの露出した『雪の間』床に倒れる。
「クク、カカカカ、カカカカカッ。バルトルート、お前さんには理想があるんだもんなあ。ならそのためには私情を切り捨てねえとなあ。――誰の言葉だっけ?」
「黙れ。口を閉じろ、屑が」
「キキカカカカッ、ハハハハハ! はいはい」
ケラケラと笑ったデモニアは、
「んじゃ、いっちょ、パフォーマンスと行きますか」
右手を先ほど光鳥感那によってあらわにされた『塔』へと向け、
左手をキャメロット城の中心へと向けて。
「『無機の魂融合せし時』」
それを、合唱するかの如く閉じた。
直後、起きた現象は、文字で表すならば単純であった。
二つの建造物が、融合した。
奇怪なマーブル模様の塔がドロドロに溶けると、渦を巻くようにキャメロット城を取り囲んだ。例えるならば黒い竜巻。高速回転する液体と化したマーブルの塔は、次に窓枠に生まれた小さな隙間や、城壁に空いた壁から城へと浸透し始め、蹂躙し始める。
びちゃり、ぐちょりと粘質な音が鳴り響き、城内の構造が大きく変化する。かつての騎士の城としての面影など皆無。
正体不明のブラックボックス。デモニア・ブリージアの意のままに空間の繋ぎ目が切り貼りされた迷宮が誕生した。
外壁は禍々しい黒と白と灰色のマーブル模様に変化している。
隣接するように立っていた『塔』は既に跡形もなく消え去っていた。
「さて、さてさて――」
無機物と無機物の超速完全融合。
空間に関するあらゆる魔術を扱うデモニアの、歪なる魔術の一つ。
それにより、奇怪なダンジョンがここに生まれる。
「ゲームっぽいだろ、この方が。さて、どう出る? キ・シ・サ・マ」




