第三章 円卓の残滓 ――Sirs Camelot―― 8.それは光のように一瞬で。
「ォオオオオオオオオオオアアアアアアアアアアアあああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ! クソ親父ィィイイイイイイイイイイイイイイああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!」
己の血で全身を赤く染めた〝漢〟が、折れた大剣を片手に、黄金の剣持つ救国の英雄へと立ち向かう。
対する英雄は無傷。
一太刀も浴びることなく、叛逆の騎士の猛攻を黄金の剣で迎え撃つ。その一閃、光に届くかという速度であり、友介の眼をもってしても捉えることは容易ではなかった。
ディアが折れた大剣を大上段から片手で振るう。しかし、空いた隙へと黄金の一閃が叩き込まれた。
鮮血が溢れ出し、雪で覆われた純白の大地へ赤色が落ちた。
だが、そこで止まらない。
刻一刻と命が終わりに向かっていることすら厭わず、自ら敵と定めた英雄へさらに一歩踏み込んだ。
傷など止まる理由になりはしない。零れる血など捨て置け。今大切なのは、真実勝つこと否定すること駆けること。
英雄の信念を否定し、泥を塗ることこそが己のやるべきことだ。
傷を癒すこともせず戦い続ける彼の身から、霧の如く血が吹き出している。
走らせる腕の軌道に合わせて血が宙に川を作る。聖剣を振り切ったディリアスの胴へと折れた大剣を叩き込まんと、裂帛の気合と共に命を糧に剣を振るう。
だが、入らない。ディリアスは避けず、さらに三度剣を振るってディアを切り裂いた。さらに血が噴き出し、ディアの体が後方へ倒れる。
それでも、倒れない。
大剣を杖代わりにすることもない。
ただ、己の足だけで雪の大地に根を下ろす。
そしてそのまま、倒れ込むようにしてディリアスへと斬りかかった。
この戦いの中で、少年は既に千を超える太刀を浴びていた。
それでも折れず倒れず立ち向かい続けた少年は、この戦いの中で進化する。
光の斬撃に対応をし始めている。
少しずつ、少しずつ、刻まれる切創が浅くなっていく。
一回あたりの深さは一ミリと変わらない。だがその度に、一太刀浴びることに大量の血を奪われる。
それでも。
少年は、進化している。
もはや最初に友介と戦った時とは比べ物にならない。
それもこれも、全ては余計な思念が消えたが故。
もはや意識は朦朧としている。夢の中で揺蕩っているかのように現実感がなく、視界もぼやけている。
けれど、ただ一人、倒すべき敵――ディリアス・アークスメント=アーサーの一挙手一投足だけは余さず網膜に焼き付いていた。
至近から黄金の刀剣が振り下ろされる。上段に構えられたそれは、ディアの脳天から股下までを二つに断たんとする軌道。
ディリアスの剣とディアの頭の距離は僅か一メートル。
避けなければ、身体は左右に分かたれる。
絶命は避けられない。
それでも少年は、目を逸らさなかった。
勝つために。
勝つために。
勝つために。
意志は擦り切れ、胸の中に残っているのはただただ勝利への渇望のみ。
何か理由があったはずだ。
譲れないものがあったはずだ。
父を超えようと思ったきっかけがあったはずだ。
悲しい出来事があったはずだ。
これまで駆け抜けてきた意地があったはずだ。
でも、そうした動機や信念という余計なものが、黄金の剣によって総て削ぎ落とされていく。血と共に、外の世界へ流れ出る。
そして、最後に残った感情はただ一つ。
――この人に勝ちたい。
男の意地があると言った。
確かにそれは嘘じゃない。
一度決めた道だから、絶対に曲げられないという意地はある。男として生きる以上、これだけは成し遂げたいという道だったのも事実だ。
けれど、それ以上に胸を占める感情がある。
――目の前の誇り高い騎士に勝ちたい。
彼が剣を手に取ったのは、確かに母を失った悲しみが原因だったのかもしれない。
彼が勝利を誓ったのは、英雄が己の理想のために家族を犠牲にしたからなのかもしれない。
彼が英雄の前に立ったのは、自らの正しさを証明するためだったのかもしれない。
けれど。
――俺は。
漂白された意識の中に、そうした余計な感情はただの一つとして存在していなかった。
彼の心の中にあるものはただ一つ。
たった一つ、人間として生まれた以上、絶対に避けられない〝本能〟。
細胞レベルに刻まれた、雄の生き様。
「俺は――お父さんに、勝ちたいッッ‼」
最後に、根底にあったものが曝け出された。
――俺が父さんに劣っていることなんて分かっている。
――宝剣なんか持ってない。
――特別な才能があるわけじゃない。
――でも、だけど。
――父さんに勝つために鍛錬だけは欠かさなかった。
――宝剣を持たせてもらえないなら、無いままで勝てばいい。
――そうだ、与えられたものは何もないけれど。
――でも、血を吐くような努力の末に手に入れたこの剣は、俺自身で手に入れたものだッ!
極限の集中の中、少年の思考が加速する。
――そうだ、この人に勝つためには、与えられたもので勝負したって駄目だ。
一秒が十に分割された。
――俺が持っているものを、さらに昇華させないと勝てない。
一秒が百に分割された。
――俺が培ってきたものを、全て俺のものにしないと勝てない。
一秒が千に分割された。
――俺の武器を。
一秒が一万に分割された。
――俺だけの武器を。
加速は留まらない。
――俺が、この人に届くための力を。
分解能は一億を超えて。
――光に追いつくほどの、速度をッッ!
一秒が三億にまで分割された。
――届かないなら追いかけろ。
――追いつかないなら加速しろ。
――限界ならば踏み越えろ。
――相手が光の速さなら、そこに並び立てばいいだけだッッッ!
止まった。
世界の全てが、少年の視界の中で静止した。
光の速度の具体的な数字を知っているだろうか。
秒速三億メートル。
たった一秒で三億メートルを駆け抜ける。
そして、ディアの思考もまた一秒を三億にまで分割した域に達している。
もはや、彼の脳細胞はタキオンのそれへと進化している。
だが、駄目だ。
脳細胞だけが進化したところで勝利はない。
思考が光に達したところで、肉体が追いつかなければ意味はない。
脆弱な人間の身体では、英雄には勝てない。
ならば、ならば。
人間のままでは勝てないのならば。
――人間を、超越えればいい。
意識は漂白されている。
邪念は全て燃え尽きて、
心に残る想いはたった一つ。
彼の根幹。
あとは単純。
その想いを、形にするだけだッッッ!
「ァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!」
叫ぶ。
――動け。
叫ぶ。
――動け!
叫ぶ。
――動けッ!
叫ぶ。
――動けッッ!
叫ぶ。
「動けええええええええええエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッッッ!」
そうして、至った。
祝詞は、教えられるまでもなく口から出ていた。
「――『染色』――」
これより、脆弱な人間による光への下剋上が成される。
「――――『英雄への一閃』――――」
超えた。
振るわれる黄金の斬撃を掻い潜って、鈍く光る少年の一閃が英雄の脇腹へと叩き込まれる。
交錯は一瞬であった。
共に世界を置き去る速度。
しかしてそこには差があった。
一方は光に限りなく近づいた速度。
しかしてもう一方は、光速のそれへと至った。
ディリアスは黄金の剣を打ち下ろした姿勢のまま、
ディアは先の折れた大剣を振り抜いた姿勢のまま、
風に運ばれる大量の白い粉が吹き荒び、世界の速度が戻っていく。
ひょう、ひょう、と鳴る雪風が、二人の足元に落ちていたディアの血痕を覆い隠して、
そうして、一秒が経った。
ディリアスの脇腹から鮮血が溢れ出す。
少年の身に、新たな傷はない。
「俺の――」
少年は拳を天へと突き上げて、
「――勝ちだ……ッ!」
満足した顔のまま、純白の大地へと倒れ込んだ。
「――そうだな」
ふわりと冷たい布団に迎え入れられる中、
「よく頑張ったな、ディア」
父の温かい声を、聞いた気がした。
☆ ☆ ☆
その戦いの全てを、シャーリンは声も上げずに見ていた。
握った拳から血が滲むほど、強く、強く握り尽くしていた。
「もう、行っていいですか……?」
「……ああ」
返答を聞くまでもなく、少女は走り出していた。
「ディアっ!」
目に大粒の涙を溜めながら、雪の上に倒れ込んだ弟の元へと駆け付けた。気絶して生きそしているのかも分からないディアを、少女は優しく抱きしめた。
「う、ディア……こんな、こんなになるまで無茶して……! ばか、ばかぁ……! お姉ちゃんを、心配させないでよぉ……!」
抱きしめただけでシャーリンの純白の騎士服が赤く染まるが、そんなことは、目の前の少年のことだけを見ている少女の目には映っていない。
簡単な治癒魔術を使って応急処置をする。
止めたかった。
何度声を上げそうになったかも分からない。
だけど、出来なかった。
弟だと思っていたディアのあんな姿を見てしまえば。
ただの年下の男のだったのが、ここまでカッコ良くなってしまえば。
ただの女でしかないシャーリンは、応援することしか出来なかった。
「ぅ、うあ……姉、ちゃん……?」
「…………ふふっ、違うよ」
「ちが、うって……?」
弟の――否、成長して少し大人になってしまったディアの瞳を見つめながら、少女は愛おしそうに少年の身を抱き寄せて。
「シャーリンって、呼んで」
その唇へ、優しく口づけをした。
「え、ちょ、えっと……」
未だ意識が朦朧としているのだろう、状況が分かっていない少年へ、赤い髪の少女は可愛らしく微笑みかける。
「勝負、ディアの勝ちだよ」
「だからっ、なにが」
「もう、言わせないでよ」
まったく、男らしいところを見せてくれたと思ったら、今は昔みたいに可愛くなって。
でも、それが、とても愛おしくて。
「私ね、ディアの事を好きになっちゃったの。だから、私を、恋人にしてください……っ」
笑っていると思っていたけど、声は泣いているようだった。
もう、自分の感情が分からない。
ただ、この人を支えたいと思う。
無謀で無茶で無理ばかりするこの馬鹿な男の子を、支えたいと。
どうせ言っても聞かないのなら、支えようと。
自分が言ったことが間違っているとは思わない。
幸せになって欲しい。
当たり前の幸福を掴み取ってほしい。
傷ついて欲しくない。
怪我をして欲しくない。
泣いて欲しくない。
だけど、どうしてもこの少年が諦めないというのなら、もう、私が折れよう。
「で、どうなの、ディア。答えは?」
「いや、答えって言っても、ウィルのことも、」
「ふふっ、覚えてたんだね、ウィルとの約束も」
「――、ああ、そうかよ」
切れ切れの息を吐きながら、少年は嬉しそうに笑った。
自分が告白した時よりも、なお嬉しそうに。
「俺の、勝ちか……」
こうして、長い年月を超えた二人の少年の戦いに、決着がついた。
少年は満足した笑顔のまま、再び眠りについた。




