泉鏡花『花間文字』 現代語リライト
青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4592_26584.html
『花間文字』(明治四十一年四月)
韓愈は、晩唐を代表する文人である。その姪孫、つまり、きょうだいの孫に韓湘という少年がいたのだが、韓愈はその子を江淮地方から呼びよせて、自分の子のように育てるつもりでいた。色白で、女かと見まがう美貌の少年である。ところがその性質は勝手気儘。おまけにちっとも勉強をしない。学院で学ばせても、同級生から間抜けなやつだといじめられる。僧院の一室に泊まらせて、心静かに読書をさせようとしたが、騒ぎまくって手に負えないと和尚から苦情が来る。
そこで韓愈は彼を自宅に呼び戻すと、真顔になって説教をはじめた。お前も知っているだろう。貧乏で日々の暮らしに追われながらも、努力して技能を身につける子供だっているんだ。こんな恵まれた環境で勉強もせず、いったいどうするつもりだ、と大目玉を食らわせた。当の韓湘はといえば、おとなしくかしこまって、爪を噛むようにぽつぽつと、何かをつまんで喰っている。その様子は、ちょうど我が国の悪童がエンドウ豆をかじっている姿に似ているのだった。
韓愈は血相を変えて、いったい何をしてるんだと奪い取った。砂糖菓子のように見えたそれは、美しい桃の花びらだった。手のひらを下ろすと、ハラハラと花びらが膝に散る。
時節は冬である。小春日和に返り咲いたとも思えない。いったいどこから採ってきたんだと、韓愈は甥っ子を睨みつける。
すると韓湘は深々と礼をして、
「これが僕の技能なんです。これがあるから僕は本を読む必要も、勉強をする必要もありません」と言った。
韓愈はまともに取り合わず、その技能とやらを詳しく話してみろと詰め寄る。
韓湘は、高らかに歌って答えた。
「山奥にある仙境が僕の住まい。真夜中に宝石の露を飲み、明け方には霞を食べる。妙なる琴の調べに乗せて、不老不死の秘薬を練っている。神器には金の虎がいて、霊芝の庭には白い鴉を飼っている。瓢箪のなかに宇宙を込め、秘剣で化け物を斬り、神酒逡巡酒も作れるし、一時の花も咲かせられる。僕に弟子入りして学べば、一緒に仙界の花を見ることだってできる」
――そんなことを歌いながらまた、ほのかに紅い花びらを噛んでいる。
さらに韓湘は庭にある、牡丹の根茎が埋まった花壇を指さして、
「今の季節は根っこだけれど、叔父さんが花を見たいと言うなら咲かせてみせるよ。どんな色でも柄でもぼかし具合でも思いのままさ」
韓愈は、こいつ、言いたい放題言いやがってと思い、ならばことばどおりやってみせよと言った。
甥っ子は屏風を借りると、他人から見られないように牡丹の花壇を蔽って、一人そのなかへ入った。花壇の四方を根茎が埋まった深さまで、人が座れるくらいの広さに掘ったが、そこには紫、紅、白の粉を撒いただけである。こうして朝から晩まで根茎の世話を続け、七日後に術が終わったと言って出てきた。韓愈に対して何やら申し訳なさそうにしている。
「残念ながら一ヶ月ほど時期が遅すぎた。もう冬になったから、僕が思っていたようにはならなかった」と。
けれども、花は絢爛と咲いていた。
韓愈が植えたのは紫牡丹の根茎だったが、咲いた花には白から紅のぼかしが入り、縁のあたりは緑がかっている。月の世界にかかった虹が照り輝いて薫るかのようだ。その花びらには、一連の詩句が浮かんでいる。不思議なことに紫の斑が、はっきりと文字をなしているのである。目を凝らして読むと、こう書かれている。
雲横秦嶺家何在 (雲は秦嶺に横たわり家何にか在る)
雪擁藍關馬不前 (雪は藍關を擁して馬前まず)
韓愈はこのとき、その意味が理解できなかった。それ以前に、邪道の術を使うこの甥っ子が気味悪く思えて、故郷の江淮に追い返してしまった。
その後まもなくして韓愈は、仏教に熱をあげては国のためにならぬと提出した意見書が憲宗皇帝の逆鱗に触れたため、疫病の蔓延する潮州へと左遷させられることになった。
長い道程の途中で日は暮れかかり、追い打ちをかけるように雪まで降ってくる。空も地も陰惨として、雲は冷たく、風は寒く、旅の衣にも頭にも、容赦なく雪が降り積もる。嶺は天を突くようにそびえ、関所があって行く手を阻み、馬はちっとも前まず――えっ、馬前まず、とは、どこかで聞いた覚えが?
独りぼっちの自分の姿を吹雪のなかで朦朧とさせながら、韓愈は斜めかなたに薄紅色のぼやけた雲が浮かんでいるのを見た。雲は風に吹きつけられるようにして、こちらへと向かってくる。まさに没しようとする夕陽の輝きが透かし見えるのか。それとも俺の流した血の涙が、雪を染めたとでもいうのか。
思わず袖で目をしごいて見直せば、その雲のなかに遠く韓湘の姿が見える。ただ一人、吹雪をものともせずに、近づくともなく近づくと、いつの間にか馬前にその姿があった。桃の花びらを散らせた蓑を着た甥っ子は、微笑みながら一礼する。
「叔父さん、お久しぶりです」と。
韓愈はことばに詰まって、涙を流すばかり。そんな韓愈に韓湘は言った。
「今ようやく、花間の文字の意味がわかりましたね」
韓愈は返すことばもない。
そのとき、遅れていた従者が追いついてきた。韓愈は従者に、ここはどこだと問いかけた。
「藍關でございます」
とすると、あのそびえた嶺は秦嶺なのだな。韓愈はしばし感嘆の念にひたった末に言った。
「俺はようやく気づいたよ、お前は仙界の花を見せてくれたのだと。韓湘よ、あの花間の連を使って七言律詩を完成させ、お前に捧げよう」と。
こうしてのちに書かれたのが、韓愈詩集にある「左遷至藍關示姪孫湘示」(左遷されて藍關に至り姪孫の湘に示す)という名詩である。
一封朝奏九重天
一通の意見書を朝廷に奉ったのはある朝のこと
夕貶潮州路八千
その夕には八千里かなたの潮州に左遷の憂き目に遭った
欲為聖明除弊事
皇帝のために悪弊を除こうと思ってしたまでのこと
肯将衰朽惜残年
衰え果てた身の老残を惜しむ気などさらさらなかった
雲横秦嶺家何在
雲は秦嶺に横たわって人家の影もない
雪擁藍關馬不前
雪は藍關を埋めて馬は前まず
知汝遠来応有意
お前が遠くから来てくれたことにはきっと意味がある
好収吾骨瘴江辺
私の骨を瘴気に満ちた大河のほとりで拾っておくれ
しかし、そのときは、韓愈は韓湘の手を取って泣くだけだった。
韓湘は叔父を慰めて、
「嘆くことはありません。僕には叔父さんの無事がわかっています。それほど遠くない将来、朝廷は再びあなたを重用することでしょう」
別れぎわに韓湘は、雪をすくって韓愈に与えた。
「これは潮州の瘴気を払ってくれます。叔父さん、ごきげんよう」
韓愈が馬上から袖で受け取ると、雪は香り立って、たちまち花びらとなった。
(了)




