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心が読める少女の物語  作者: A
一章 -出会い-
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荷物と善意 -透-

 

 それから数日。


 朝、挨拶をする。

 氷室君が小さく返す。

 授業が始まる前に、机へ突っ伏す。


 それだけのことを、私は毎日、横目で確かめていた。


 たまに届くのは、眠い、という薄い気配だけ。

 言葉になる前にほどけてしまう、短い波。


 それ以上は、何も届かない。


 でも、何もないわけではなかった。


 先生に名前を呼ばれると、一拍遅れて顔を上げる。

 ノートの端に、眠気をごまかすみたいな線を引く。

 欠伸を噛み殺して、また黒板を見る。


 そこにはちゃんと、氷室誠という人がいる。


 ただ、その内側だけが、私には届かない。


 二人の会話は、「おはよう」と「また明日」を繰り返すだけだった。


 彼は自分から近づいてくることをしない。

 机ひとつぶんの距離を、いつも同じままにしている。


 近づかれない。

 試されない。

 期待されない。


 それだけで、隣の席は少し呼吸がしやすかった。


 だから私は、今日もまた、彼の短い返事を待ってしまう。


(……変な人)


 曇天の鈍い光の中で、彼の隣だけが切り取られたように穏やかだった。


 気持ちよさそうに寝息を立てる彼の寝癖が上下に揺れる。

 その無防備さを見ていると、こちらの肩からも少しだけ力が抜けた。





◆◆◆◆◆





 梅雨入り前の、空気の重い、金曜日の放課後。


 部活の声が外から鳴り響く廊下で、私は両腕に食い込む荷物を、一人で運んでいた。


 いつもの先生からの「お使い」だ。

 日直の仕事とは全く関係ない。


「蓮見なら頼みやすいから」


 先生はそう言って笑った。

 声に出したのは、それだけだった。


≪断らないだろうし、助かるな≫


 その声に、とげはなかった。

 先生はもう次の書類に目を落としていて、私の返事を待つ姿勢だけが残っていた。

 一度だけ口を閉じてから、いつもの高さに声を戻す。


「はい、大丈夫です」


 言い終えるころには、口元だけが先に笑っていた。

 それに合わせるように、先生も軽く頷いた。

 廊下へ出ると、箱の角が腕の内側に沈んだ。


(……この役回り、そろそろ、交代してほしいな)


 重い箱が腕に食い込む。

 中身は進路関係の資料らしい。


 紙というものは、束になるとどうしてこうも重くなるのだろう。


 二階の踊り場で息を整えていると、何度目だろうか、また声がかかった。


「蓮見さんじゃん。なにその荷物? 手伝おっか?」


 振り返る。


 同じ学年の男の子だった。

 名前は知っている。

 話したことは、ほとんどない。


≪上手くいけば連絡先交換できるかも。いや、せめて話すきっかけにはなるだろ≫


 箱を持ち直そうとして、袖口が角に引っかかった。

 少しだけ布が引かれ、肘のあたりに重さが集まる。

 私は袖を戻さず、そのまま笑った。


「一人で運べるから大丈夫。ありがとう」


 声の終わりを、少しだけ明るくする。

 断ったことより、感謝したことの方が残るように。


 男の子は、伸ばしかけた手を途中で下ろした。

 「あ、そっか」と笑って、廊下の角へ向かう。


 その背中が見えなくなるまで、私は口元の形をそのままにしていた。


≪……氷室、毎日隣でいいよな≫


 細い声が、廊下の角を曲がる前に届いた。


 笑顔をしまう場所を探す前に、箱がずしりと下がった。

 私は顎で少しだけ箱の位置を押し上げて、階段の方へ足を向けた。





◆◆◆◆◆





 あと少し。

 もう少し。


 そう自分に言い聞かせていた時、不意に背後から足音が近づいてきた。


「よかったら、荷物持つの手伝うよ」


 ――また。


 振り返るより先に、指先に力が入った。

 上履きの踵が、廊下の床を小さく擦る。


 振り返った先にいたのは、よりにもよって、隣の席の氷室君だった。


 いつもと変わらない表情。

 いつもと変わらない声色。

 少し眠そうで、少しだけ面倒くさそうにも見える顔。


 もしかしたらと、反射的に意識を向ける。


 箱へ落ちた彼の視線の先に、ただ一つだけ、ぽつんと置かれていた。


 ――重そうだな。

 それは言葉になる前に、水面へ沈むみたいに消えた。


 だから、私は少し遅れて頷いた。


「……ありがとう。助かるよ」

「ん」


 氷室君が箱の半分を持ち上げる。

 眉がほんの少しだけ動いた。


 けれど、重いとも、平気だともいわず、箱の下に手を入れ直す。

 こちら側に傾いていた重さが、少しだけ戻った。


「こっちでいいのか」

「うん。四階の会議室」

「了解」


 それだけで、二人は歩き出した。


 同じ箱の重さを、左右から持ったまま。






◆◆◆◆◆






 二人ともが無言で歩いた。


 廊下の向こうから、まだ校舎に残っていた生徒の声が流れてくる。


≪あれ、蓮見さん?≫

≪あの二人、仲良かったっけ?≫


 箱の縁にかけた指が、少しだけ固まる。

 紙の束が中でかすかに擦れて、ざらりと音を立てた。


 廊下の声は、もう別の話題に移っている。

 それでも私は、さっき聞こえた言葉の端を、指先に引っかけたまま歩いていた。

 

 隣を見る。

 氷室君は前を向いて歩いていた。

 誰かの視線を追うこともなく、歩幅だけを箱に合わせている。

 私が少し遅れると、彼の足も半歩だけ遅れた。

 


「重い?」


 思わず聞いていた。


「まあ、軽くはない」

「ごめんね」

「なんで蓮見さんが謝るんだ」


 返事がすぐに来たせいで、用意していた笑い方が少し遅れた。

 私は一度、唇を閉じる。

 それから、箱の向こう側で小さく息を吐いた。


「……そうだね」


 私は笑った。


 頬に力を入れる前に、自然に口元が動いた。

 それが少し不思議で、私はすぐに前を向いた。


 会議室に着いて、長机に箱を並べる。

 紙の束が机に置かれる音は、思ったより大きかった。


 鍵を職員室に返しに行くのは、私の役目だった。


「じゃあ、これで」


 目的地に荷物を置くと、彼は当然のように帰り支度を始めた。

 余韻なんて、少しも残さないくらいに。


「あ、待って」

「ん?」


 呼び止めてから、気づく。


 言葉が、喉の手前で止まっていた。

 私は空になった両腕を、意味もなく体の前で組み直す。

 箱を持っていた場所だけが、まだ少し熱い。


「……今日は、ありがとう」


 何かをひねり出そうとして、結局出た言葉はそれだけ。


 氷室君の返事を、先に拾うことはできなかった。

 だから私は、ただ待った。

 長机の上で、箱の中の紙が少しだけ沈む音まで聞こえた。


「ん」


 氷室君は短く頷いた。

 余分な台詞は一つもなく、用事は終わったとでもいうように歩き出す。


「蓮見さん」


 扉のところで、彼が一度だけ振り返った。


「無理なら、断ってもいいんじゃないか」


 それだけ言って、今度こそ会議室を出ていった。

 扉が閉まりきるまで、私はその場から動かなかった。


 廊下を離れていく足音が、ひとつ、ふたつと遠ざかる。

 角を曲がる少し前、上履きの擦れる音が一度だけ小さく響いた。


 私は空になった腕を見下ろす。

 赤くなったところに、そっと指を当てた。


 無理なら、断ってもいい。


 口の中で、「大丈夫です」と言ってみる。

 いつもの形に、すぐ戻る。


 次に、「無理です」と言ってみる。


 声にはならなかった。


 会議室の窓の外で、部活の掛け声が遠く弾ける。

 私は鍵を握り直し、廊下へ出る前に、もう一度だけ空っぽの腕を見た。


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