荷物と善意 -透-
それから数日。
朝、挨拶をする。
氷室君が小さく返す。
授業が始まる前に、机へ突っ伏す。
それだけのことを、私は毎日、横目で確かめていた。
たまに届くのは、眠い、という薄い気配だけ。
言葉になる前にほどけてしまう、短い波。
それ以上は、何も届かない。
でも、何もないわけではなかった。
先生に名前を呼ばれると、一拍遅れて顔を上げる。
ノートの端に、眠気をごまかすみたいな線を引く。
欠伸を噛み殺して、また黒板を見る。
そこにはちゃんと、氷室誠という人がいる。
ただ、その内側だけが、私には届かない。
二人の会話は、「おはよう」と「また明日」を繰り返すだけだった。
彼は自分から近づいてくることをしない。
机ひとつぶんの距離を、いつも同じままにしている。
近づかれない。
試されない。
期待されない。
それだけで、隣の席は少し呼吸がしやすかった。
だから私は、今日もまた、彼の短い返事を待ってしまう。
(……変な人)
曇天の鈍い光の中で、彼の隣だけが切り取られたように穏やかだった。
気持ちよさそうに寝息を立てる彼の寝癖が上下に揺れる。
その無防備さを見ていると、こちらの肩からも少しだけ力が抜けた。
◆◆◆◆◆
梅雨入り前の、空気の重い、金曜日の放課後。
部活の声が外から鳴り響く廊下で、私は両腕に食い込む荷物を、一人で運んでいた。
いつもの先生からの「お使い」だ。
日直の仕事とは全く関係ない。
「蓮見なら頼みやすいから」
先生はそう言って笑った。
声に出したのは、それだけだった。
≪断らないだろうし、助かるな≫
その声に、とげはなかった。
先生はもう次の書類に目を落としていて、私の返事を待つ姿勢だけが残っていた。
一度だけ口を閉じてから、いつもの高さに声を戻す。
「はい、大丈夫です」
言い終えるころには、口元だけが先に笑っていた。
それに合わせるように、先生も軽く頷いた。
廊下へ出ると、箱の角が腕の内側に沈んだ。
(……この役回り、そろそろ、交代してほしいな)
重い箱が腕に食い込む。
中身は進路関係の資料らしい。
紙というものは、束になるとどうしてこうも重くなるのだろう。
二階の踊り場で息を整えていると、何度目だろうか、また声がかかった。
「蓮見さんじゃん。なにその荷物? 手伝おっか?」
振り返る。
同じ学年の男の子だった。
名前は知っている。
話したことは、ほとんどない。
≪上手くいけば連絡先交換できるかも。いや、せめて話すきっかけにはなるだろ≫
箱を持ち直そうとして、袖口が角に引っかかった。
少しだけ布が引かれ、肘のあたりに重さが集まる。
私は袖を戻さず、そのまま笑った。
「一人で運べるから大丈夫。ありがとう」
声の終わりを、少しだけ明るくする。
断ったことより、感謝したことの方が残るように。
男の子は、伸ばしかけた手を途中で下ろした。
「あ、そっか」と笑って、廊下の角へ向かう。
その背中が見えなくなるまで、私は口元の形をそのままにしていた。
≪……氷室、毎日隣でいいよな≫
細い声が、廊下の角を曲がる前に届いた。
笑顔をしまう場所を探す前に、箱がずしりと下がった。
私は顎で少しだけ箱の位置を押し上げて、階段の方へ足を向けた。
◆◆◆◆◆
あと少し。
もう少し。
そう自分に言い聞かせていた時、不意に背後から足音が近づいてきた。
「よかったら、荷物持つの手伝うよ」
――また。
振り返るより先に、指先に力が入った。
上履きの踵が、廊下の床を小さく擦る。
振り返った先にいたのは、よりにもよって、隣の席の氷室君だった。
いつもと変わらない表情。
いつもと変わらない声色。
少し眠そうで、少しだけ面倒くさそうにも見える顔。
もしかしたらと、反射的に意識を向ける。
箱へ落ちた彼の視線の先に、ただ一つだけ、ぽつんと置かれていた。
――重そうだな。
それは言葉になる前に、水面へ沈むみたいに消えた。
だから、私は少し遅れて頷いた。
「……ありがとう。助かるよ」
「ん」
氷室君が箱の半分を持ち上げる。
眉がほんの少しだけ動いた。
けれど、重いとも、平気だともいわず、箱の下に手を入れ直す。
こちら側に傾いていた重さが、少しだけ戻った。
「こっちでいいのか」
「うん。四階の会議室」
「了解」
それだけで、二人は歩き出した。
同じ箱の重さを、左右から持ったまま。
◆◆◆◆◆
二人ともが無言で歩いた。
廊下の向こうから、まだ校舎に残っていた生徒の声が流れてくる。
≪あれ、蓮見さん?≫
≪あの二人、仲良かったっけ?≫
箱の縁にかけた指が、少しだけ固まる。
紙の束が中でかすかに擦れて、ざらりと音を立てた。
廊下の声は、もう別の話題に移っている。
それでも私は、さっき聞こえた言葉の端を、指先に引っかけたまま歩いていた。
隣を見る。
氷室君は前を向いて歩いていた。
誰かの視線を追うこともなく、歩幅だけを箱に合わせている。
私が少し遅れると、彼の足も半歩だけ遅れた。
「重い?」
思わず聞いていた。
「まあ、軽くはない」
「ごめんね」
「なんで蓮見さんが謝るんだ」
返事がすぐに来たせいで、用意していた笑い方が少し遅れた。
私は一度、唇を閉じる。
それから、箱の向こう側で小さく息を吐いた。
「……そうだね」
私は笑った。
頬に力を入れる前に、自然に口元が動いた。
それが少し不思議で、私はすぐに前を向いた。
会議室に着いて、長机に箱を並べる。
紙の束が机に置かれる音は、思ったより大きかった。
鍵を職員室に返しに行くのは、私の役目だった。
「じゃあ、これで」
目的地に荷物を置くと、彼は当然のように帰り支度を始めた。
余韻なんて、少しも残さないくらいに。
「あ、待って」
「ん?」
呼び止めてから、気づく。
言葉が、喉の手前で止まっていた。
私は空になった両腕を、意味もなく体の前で組み直す。
箱を持っていた場所だけが、まだ少し熱い。
「……今日は、ありがとう」
何かをひねり出そうとして、結局出た言葉はそれだけ。
氷室君の返事を、先に拾うことはできなかった。
だから私は、ただ待った。
長机の上で、箱の中の紙が少しだけ沈む音まで聞こえた。
「ん」
氷室君は短く頷いた。
余分な台詞は一つもなく、用事は終わったとでもいうように歩き出す。
「蓮見さん」
扉のところで、彼が一度だけ振り返った。
「無理なら、断ってもいいんじゃないか」
それだけ言って、今度こそ会議室を出ていった。
扉が閉まりきるまで、私はその場から動かなかった。
廊下を離れていく足音が、ひとつ、ふたつと遠ざかる。
角を曲がる少し前、上履きの擦れる音が一度だけ小さく響いた。
私は空になった腕を見下ろす。
赤くなったところに、そっと指を当てた。
無理なら、断ってもいい。
口の中で、「大丈夫です」と言ってみる。
いつもの形に、すぐ戻る。
次に、「無理です」と言ってみる。
声にはならなかった。
会議室の窓の外で、部活の掛け声が遠く弾ける。
私は鍵を握り直し、廊下へ出る前に、もう一度だけ空っぽの腕を見た。




