席替え -透-
翌朝。
通学路の最後の角を曲がると、校門までの坂道で、最初の声がかかった。
「おはよー、透ちゃん!」
「おはよう」
別のクラスの女の子。
名前は知っている。
話したことは、三回。
≪今日も可愛いなぁ。羨ましい≫
羨ましさは、嫉妬とは少し違う。
透明で、軽くて、毒のないもの。
だから笑顔の温度を、ほんの少しだけ柔らかくする。
下駄箱で靴を履き替えていると、上級生が通り過ぎた。
「蓮見さん、おはよう。今日もギリギリなんだね」
「おはようございます」
短く返す。
目線は合わせるけれど、長くは止めない。
声の温度は、さっきより一段だけ下げる。
≪……相変わらず、取り付く島もないな≫
笑っている声の奥に、少しだけ残ったものが混じる。
たぶん、冗談に乗ってほしかったのだと思う。
困ったように笑って、「そうなんです」とでも返せば、相手は満足したのかもしれない。
けれど、そういう隙を一度見せると、次からはもっと近い距離で話しかけられる。
だから私は、聞こえなかったふりをする。
階段の手前で、ようやく一人になれた。
小さく息を吐く。
まだ、教室にも辿り着けていない。
ローファーのつま先が、一段目の前で少し止まった。
大きな失敗はしていない。
誰かを傷つけてもいない。
恨みを買ってはいない。
ただ、相手に合わせて、少しずつ形を変える。
それだけで、鞄の肩紐がいつもより重く感じられた。
知っている人。
知らない人。
相手に合わせて、違う愛想を返す。
返さないことで生まれる余計な声の方が、いつも面倒だった。
二階の踊り場で、もう一度息を吐く。
ここから先は、教室の空気が一つに重なる。
扉を開ける。
いつも通りの、ざわめき。
「あ、透ちゃんおはよー!」
「おはよう、千佳ちゃん」
席に着く前に、もう二回、笑った。
ようやく自分の席に辿り着いて、椅子を引く。
隣を見る。
氷室君は、すでに机に突っ伏していた。
片腕を枕にして、浅く息をしている。
寝ているからかもしれない。
たまたまかもしれない。
でも、確かなことが一つだけある。
今のここには、私に向けられる声がない。
いつも通りに笑わなくていい。
いつも通りに返事をしなくていい。
いつも通りに、温度を測らなくていい。
ノートを開く。
吸った息は、少しだけひんやりとしている気がした。
◆◆◆◆◆
二時間目の始め。
出ていた陽が雲で隠れて、少しだけ温度が下がった。
前の方の席の女の子が、寒いのか腕をさすっている。
ふと、隣から眠そうな声がした。
「窓、閉めてもらってもいいか」
一瞬、自分に言われたのだと気づかなかった。
視線を向けると、氷室君は机に頬杖をついたまま、窓の方を見ていた。
窓。
それから、前の方の席で腕をさすっている女の子。
どちらを見ていたのかは、わからなかった。
「……あ、うん」
私は、左側の窓に手を伸ばす。
開いていた窓を、ゆっくりと閉めた。
冷たい空気が、途中で細く切れる。
女の子は、しばらくして腕をさするのをやめた。
氷室君は、もう寝ていた。
彼が何を考えてそうしたのか、わからない。
ただ、寝る前にそうしておこうと思っただけなのかもしれない。
それでも、女の子はもう腕をさすっていない。
ノートに視線を戻す。
けれど、シャーペンの先は、しばらく同じ場所に止まっていた。
昨日と同じ姿勢で寝ている横顔を、もう一度だけ見る。
寝癖は、相変わらず直っていなかった。
◆◆◆◆◆
放課後。
校門を出て、私は駅とは反対の方向へ歩き出した。
帰りが少し遅くなるだけ。
そう言い聞かせながら、神社へ続く長い石段を一段ずつ登る。
寂れた境内には、いつも通り誰もいなかった。
濡れた葉の匂いが、まだ少し残っている。
昨日の雨が、木の根元に黒い影を作っていた。
木陰に腰を下ろし、本を開く。
ここには、声がない。
人の声も。
声になる前の声も。
あるのは、活字と、風の音だけ。
ページをめくる指先が、ようやく自分のものに戻る。
けれど、今日は少しだけ違った。
文字を追っているはずなのに、二時間目の教室が頭に浮かぶ。
閉じられた窓。
前の席の女の子。
机に突っ伏したままの氷室君。
心の声は、何も聞こえなかった。
だから私に残ったのは、窓へ向いた横顔と、眠そうな声と、腕をさするのをやめた女の子だけだった。
それだけを並べても、答えにはならない。
なのに、何度も同じ場面を思い出してしまう。
本を閉じる。
挟んだ栞の端を、指で軽く押さえた。
窓際、最後尾。
右隣の席。
欠伸をしていた、心の声が聞こえない男の子。
――あの静けさは。
どこまで、続いているのだろう。
もし手を伸ばしたら。
壁の向こうで、何に触れるのだろう。
そんなことを考えてしまった時点で、たぶんもう、昨日までとは違っていた。
私は栞を挟み直して、本を鞄にしまう。
石段を下りる頃には、空の色が少しだけ薄くなっていた。
明日もまた、私はあの席に座る。
右隣に、何も聞こえない場所を残したまま。




