席替え -透-
「おはよー、透ちゃん!」
「おはよう」
翌朝、校門までの坂道で、最初の声がかかった。
別のクラスの女の子。
名前は知っている。
話したことは、三回。
≪今日も可愛いなぁ。羨ましい≫
目元を緩めて返す。
その子は笑顔のまま手を振って、校門の方へ走っていった。
靴を履き替えると、声が遠のくように歩みを緩める。
階段の手前で、ようやく一人になれた。
肩から、力が抜ける。
鞄の肩紐が、心なしか軽くなった。
階段を登り、扉を開ける。
いつも通りの、ざわめき。
「あ、透ちゃんおはよー!」
「おはよう、千佳ちゃん」
「ねえ、昨日の席替えさ。もう二組まで話いってるの、知ってる?」
「……昨日の今日で?」
「そうなの。透ちゃんの隣って、毎回話題の的だよね」
そう言いながら、千佳ちゃんが苦笑する。
≪でも、氷室君が隣だとあんま意味ないか≫
ふと、聞こえた声に引っかかる。
少し悩んで、口を開いた。
「……氷室君って、どんな人なのかな?」
「え? 珍しいね、透ちゃんがそういうこと聞くの」
「……まぁ、二年生になって最初の席替えだしね」
「ふーん。そういわれるとそっか」
疑問が興味になる前にそれとなく方向を逸らす。
千佳ちゃんの心に空白が生まれたのを見計らって、再び言葉を重ねた。
「それで?」
「あー、うん。去年同じクラスだった子は、『悪い人じゃないけど、反応が薄い』って言ってたかな」
「……反応が薄い」
「そう。いつも眠そうだし、何考えてるかわかんないって」
なるほど、と思う。
それは昨日、私が味わったものとよく似ていた。
ただ、知りたかった答えはそこになかった。
「まぁ。どちらにしろ次の席替えに期待だね」
「……そうだね」
笑って返す。
千佳ちゃんは満足そうに頷いて、自分の席へ戻っていった。
ようやく自分の席に辿り着いて、椅子を引く。
隣を見る。
氷室君は、すでに机に突っ伏していた。
片腕を枕にして、浅く息をしている。
ノートを開く。
教室中から流れてくる声の中で、右隣だけに空白があった。
吸った息は、どこかひんやりとしていた。
◆◆◆◆◆
二時間目の始め。
出ていた陽が雲で隠れて、陰が落ちる。
前の方の席の女の子が、腕を組むように上げたのが視界の端に映り込んだ。
意識が、そちらへ向く。
寒いのだろうか。
その内側を覗き込もうとした瞬間、隣から声が届いた。
「窓、閉めてもらってもいいか」
一瞬、自分に言われたのだと気づかなかった。
視線を向けると、氷室君は机に頬杖をついたまま、窓の方を見ていた。
窓。それから、さっきの女の子。
「……あ、うん」
私は、左側の窓に手を伸ばす。
開いていた窓を、ゆっくりと閉めた。
入り込む風がだんだんと強い音を立て、最後にふっと消える。
女の子は、しばらくして腕を下ろした。
氷室君は、もう寝ていた。
ノートに視線を戻す。
けれど、シャーペンの先は、しばらく同じ場所に止まっていた。
昨日と同じ姿勢で寝ている横顔を、もう一度だけ見る。
寝癖は、相変わらず直っていなかった。
◆◆◆◆◆
放課後。
校門を出て、駅とは反対の方向へ歩き出した。
帰りが少し遅くなるだけ。
そう言い聞かせながら、神社へ続く長い石段を一段ずつ登る。
寂れた境内には、いつも通り誰もいなかった。
濡れた葉の匂いが、まだ少し残っている。
先日の雨が、木の根元に黒い影を作っていた。
木陰に腰を下ろし、本を開く。
ページの端が、風で浮いた。
境内の奥で、葉が擦れる音がする。
文字を追う。一行。二行。
けれど、目は何度も同じ場所に戻った。
閉じられた窓。前の席の女の子。机に突っ伏したままの氷室君。
栞を挟む。
本を閉じる。
明日もまた、私はあの席に座る。
いつもより斜めに入った栞に、指先が何度も戻った。
明日も、あの静けさは続いているだろうか。




