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心が読める少女の物語  作者: A
一章 -出会い-
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席替え -透-



 翌朝。


 通学路の最後の角を曲がると、校門までの坂道で、最初の声がかかった。


「おはよー、透ちゃん!」

「おはよう」


 別のクラスの女の子。

 名前は知っている。

 話したことは、三回。


≪今日も可愛いなぁ。羨ましい≫


 羨ましさは、嫉妬とは少し違う。

 透明で、軽くて、毒のないもの。 

 だから笑顔の温度を、ほんの少しだけ柔らかくする。


 下駄箱で靴を履き替えていると、上級生が通り過ぎた。


「蓮見さん、おはよう。今日もギリギリなんだね」

「おはようございます」


 短く返す。

 目線は合わせるけれど、長くは止めない。

 声の温度は、さっきより一段だけ下げる。


≪……相変わらず、取り付く島もないな≫


 笑っている声の奥に、少しだけ残ったものが混じる。

 たぶん、冗談に乗ってほしかったのだと思う。

 困ったように笑って、「そうなんです」とでも返せば、相手は満足したのかもしれない。


 けれど、そういう隙を一度見せると、次からはもっと近い距離で話しかけられる。

 だから私は、聞こえなかったふりをする。


 階段の手前で、ようやく一人になれた。

 小さく息を吐く。

 まだ、教室にも辿り着けていない。


 ローファーのつま先が、一段目の前で少し止まった。


 大きな失敗はしていない。

 誰かを傷つけてもいない。

 恨みを買ってはいない。


 ただ、相手に合わせて、少しずつ形を変える。

 それだけで、鞄の肩紐がいつもより重く感じられた。


 知っている人。

 知らない人。

 

 相手に合わせて、違う愛想を返す。

 返さないことで生まれる余計な声の方が、いつも面倒だった。


 二階の踊り場で、もう一度息を吐く。

 ここから先は、教室の空気が一つに重なる。


 扉を開ける。

 いつも通りの、ざわめき。


「あ、透ちゃんおはよー!」

「おはよう、千佳ちゃん」


 席に着く前に、もう二回、笑った。

 ようやく自分の席に辿り着いて、椅子を引く。


 隣を見る。


 氷室君は、すでに机に突っ伏していた。

 片腕を枕にして、浅く息をしている。


 寝ているからかもしれない。

 たまたまかもしれない。


 でも、確かなことが一つだけある。


 今のここには、私に向けられる声がない。

 いつも通りに笑わなくていい。

 いつも通りに返事をしなくていい。

 いつも通りに、温度を測らなくていい。


 ノートを開く。


 吸った息は、少しだけひんやりとしている気がした。






◆◆◆◆◆






 二時間目の始め。


 出ていた陽が雲で隠れて、少しだけ温度が下がった。

 前の方の席の女の子が、寒いのか腕をさすっている。


 ふと、隣から眠そうな声がした。


「窓、閉めてもらってもいいか」


 一瞬、自分に言われたのだと気づかなかった。

 視線を向けると、氷室君は机に頬杖をついたまま、窓の方を見ていた。


 窓。

 それから、前の方の席で腕をさすっている女の子。

 どちらを見ていたのかは、わからなかった。


「……あ、うん」


 私は、左側の窓に手を伸ばす。

 開いていた窓を、ゆっくりと閉めた。

 

 冷たい空気が、途中で細く切れる。


 女の子は、しばらくして腕をさするのをやめた。

 氷室君は、もう寝ていた。


 彼が何を考えてそうしたのか、わからない。

 ただ、寝る前にそうしておこうと思っただけなのかもしれない。

 それでも、女の子はもう腕をさすっていない。


 ノートに視線を戻す。

 けれど、シャーペンの先は、しばらく同じ場所に止まっていた。


 昨日と同じ姿勢で寝ている横顔を、もう一度だけ見る。


 寝癖は、相変わらず直っていなかった。





◆◆◆◆◆






 放課後。


 校門を出て、私は駅とは反対の方向へ歩き出した。

 帰りが少し遅くなるだけ。


 そう言い聞かせながら、神社へ続く長い石段を一段ずつ登る。

 寂れた境内には、いつも通り誰もいなかった。


 濡れた葉の匂いが、まだ少し残っている。

 昨日の雨が、木の根元に黒い影を作っていた。


 木陰に腰を下ろし、本を開く。


 ここには、声がない。

 人の声も。

 声になる前の声も。


 あるのは、活字と、風の音だけ。

 ページをめくる指先が、ようやく自分のものに戻る。


 けれど、今日は少しだけ違った。

 文字を追っているはずなのに、二時間目の教室が頭に浮かぶ。


 閉じられた窓。

 前の席の女の子。

 机に突っ伏したままの氷室君。


 心の声は、何も聞こえなかった。

 だから私に残ったのは、窓へ向いた横顔と、眠そうな声と、腕をさするのをやめた女の子だけだった。


 それだけを並べても、答えにはならない。

 なのに、何度も同じ場面を思い出してしまう。


 本を閉じる。

 挟んだ栞の端を、指で軽く押さえた。


 窓際、最後尾。

 右隣の席。

 欠伸をしていた、心の声が聞こえない男の子。


 ――あの静けさは。

 どこまで、続いているのだろう。


 もし手を伸ばしたら。

 壁の向こうで、何に触れるのだろう。


 そんなことを考えてしまった時点で、たぶんもう、昨日までとは違っていた。


 私は栞を挟み直して、本を鞄にしまう。

 石段を下りる頃には、空の色が少しだけ薄くなっていた。


 明日もまた、私はあの席に座る。


 右隣に、何も聞こえない場所を残したまま。



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