*スレイマンという男*
本来隙間風の入り込む小屋は、王族ですら使用されないような高度な魔術でこれでもかと防寒防音、ありとあらゆる工夫を施されていて、外に雪が降ろうが嵐がきて木々をなぎ倒そうがスレイマンとエルザの『家』はびくともしない。
綺麗に思うだろうと、目で見れば喜ぶだろうと魔力で作って嵌めこんだステンドグラスの窓の外は明るくなってきていて、スレイマンは薄く目を開く。目の前に最初に飛び込む色は銀。室内に光量がなくともうっすらと輝くのはマーナガルムの加護ゆえか。
「…………」
阿呆な面をして、熟睡している幼い子供。スレイマンの腕にすっぽりと収まり、小さな手でぎゅっとスレイマンの寝間着を握っている。
「…………」
この瞬間に沸き上がる感情をなんというのだろうか。
エルザというこども。小娘。
死ぬはずだった、そうなるだろうと諦めるしかなかった男を助けた。ただ体を救っただけではないことはスレイマンが誰よりもわかっている。
そして同時にエルザは、スレイマン・イブリーズを『死なせなかった罪』を背負ったのだとも。
死ぬはずだったのだ。それが道理だった。ひっそりひっそり息絶えて、それで終い。世を世界を何もかもを恨んで憎んで妬んで拒絶し続けた魔王の欠片を持つ男が死んだ。朽ちていった。それで終いのはずだったのに、この娘はそれを捻じ曲げた。
「…………んんっ……電子レンジがない……」
「何を言っているんだか」
子供の朝は早いが、日が昇る前からはさすがのエルザも目覚めない。眉間にしわを寄せて、時々何か寝言を言う。それを黙って聞き、時々スレイマンも独り言を言って、眉間の皴を指で広げてやる。
もう直に目を覚まして、それで顔を洗い、着替えをして、朝食の支度をしようと誘ってくる。エルザは一人で出来るだろうこともスレイマンを誘った。スレイマンは「なぜ俺が」ということもあったが、共に何かを行うことを拒絶はしなかった。彼女の行うことを己も行うことが嫌ではなかった。しかし反面、エルザに魔術を教えようとはしない。それは必要のないことだった。
「エルザ」
名を呼ぶと、ふっと、スレイマンは自分の口元がそわそわとした。自然に目が細まり、堪えようのない感情が浮かんでくる。ぎゅっと、腕の中の少女を抱きしめる。
「エルザ。俺の娘」
続けるべき言葉がスレイマンには浮かばない。
常人であれば、ごく当たり前に人に想いを伝えることのできる、平凡な、当たり前の幸せや人とのかかわり方をしてきたものであれば、たとえばその後に続けられる言葉がいくつか浮かんだだろう。だがスレイマンには、他人から恐怖と怒りと憎しみの感情しか与えられてこなかった男には、慈しむ言葉が浮かばない。
しかしそれでも、己がこの娘を守りたいのだと、大切にしたいのだと、言語化は出来ずとも沸き上がる感情は本当で、それをスレイマンは理解しかけていた。
*
「堕ちろ!!!!!」
魔女の目がエルザを捕えた。
その瞬間、スレイマンの体は素早く動き、自分の姿を魔女の前に映し出す。大きな体だ。図体ばかりがでかいのだ。エルザの、この小娘の姿くらいすっぽりと覆えてしまう。
スレイマンは魔女の目を見た。
そこに映る自分の姿を見た。
恐怖で顔が歪んでいた。
(あぁ、そうだ)
スレイマンは怯えていた。
これまでの自分の行い、全て、何もかもが、もうずっと前から思い浮かんでいた。エルザと出会い、小屋で暮らし始めるより前からスレイマンは怯えていた。
かつての自分の振る舞いを、行いを、しでかした所業何もかもを、スレイマンはエルザと出会い、思い返し続けてきた。
蹂躙し、殺害し、苦しめ、他人に対して何の罪悪感も抱いていない。
それは今でも、この瞬間でも変わらない。それはどうしようもなく、己の性分、性根、そういう男なのだと思うが、だからこそ。
己が今も他人に対してできるだろう非道を、悪行を、エルザが他人から受けたら「どうしよう」という恐怖があった。
自分が今でも他人に対して悪いと思う感情が抱けない。だから、そういう者が他にもいて、エルザを傷つける、悲しませる、苦しめる。
泣かせるようなことがあったら。
それがスレイマンの恐怖だった。
自分がしたことが他人にとってどんな苦しみだったのか思い出し、エルザがそんな思いをしたらと、想像するだけで体が動かなくなった。
魔女の目は、スレイマンのその恐怖を捕える。
本来。
本当であれば、力はスレイマンの方が強かった。
十三階級に分かれた魔女と、魔王の魂だ。スレイマンが彼女たちに顔を覗き込まれ、瞳に「お前の罪を覚えているか」と問答されたところで、小娘どもの問答をスレイマンは一蹴できる暴力があったはずなのだ。
だが駄目だった。
後ろにエルザがいた。
毎朝、彼女の顔を見続けた。
そうしてこれまで自分が踏みにじって来た人々の目を思い出してしまった。
おれは死んだ方がよいのだ。
死ぬはずだった。
終わるはずだった。それが正しい流れであること、そうと世界が望んでいることをスレイマンはわかっていた。それを捻じ曲げて平然としていた顔でエルザの隣に立っていた。犯した罪も知らずに笑うエルザの隣で、おれがこの小娘を守ってやるのだと、愚かなことを考えてきた。
魔女の目がスレイマンの恐怖を写し、捕らえる。
その瞳の中に映る、恐怖に怯える男をこれ以上見たくなくてスレイマンは目を閉じた。
書いてて辛い。