ゼウスの条件
私は、部屋に帰ってからも、気分は晴れないままだった。
先ほど見たメンテーとハーデスの姿が脳裏にちらついて、気が気ではなかった。
「あら、何かしら?」
辺りが一瞬、眩しくなった。窓の外に目をやると、向こうの方から、宙を歩いてくる影が近づいてくる。
「あれは……ヘルメス?」
私は思わず身を隠す。ヘルメスと私は、父を同じくする、いわば兄妹。だからといって、親しいわけではない。
ヘルメスは、伝令の神。母や父が私を捜し、ハーデスに協力を要請しにきたのかもしれない。
ハーデスはゼウスの兄であり、おそらく『大神』である父に唯一意見を言える人物であろうが、それでも、私をかくまうのは、あまり美味しい話ではないだろう。来るときは、彼の顔を見たい一心だった。でも、彼にだって、事情がある。まして、『恋人』となるひとがいるとしたら……。
「ペルセポネさま、ハーデスさまがお呼びです」
エウドキアが部屋の外で私を呼ぶ。
もう、帰されちゃうのかな……。
私は、頬を伝う涙を拭きながら、部屋のドアを開いた。
エウドキアに案内されたのは、玉座の間。
「わきゃーっ」
扉の向こうから聞こえてきたのは、甲高い、赤子の叫び声だった。
「おかしいですわね。赤子の声なんて」
エウドキアが顔をしかめる。
「ペルセポネ様をお連れしましたが」
扉の向こうに向かって彼女が声をかけると、重々しい扉がギィッと音を立てて開いた。
「いやっ、ちょっとやめなさいよっ、何なのよ、この子っ」
目の前にいたのは、赤子を抱えたヘルメスと、その赤子に髪を引っぱられているメンテーだった。
その向こうに、戸惑いの表情を浮かべた、ハーデスがいる。
「あ、来た、来た。やあ、久しぶりだね、ペルセポネ」
気安い口調で、ヘルメスは私に微笑む。
「お久しぶりです、兄上」
事態が把握できず、私はとりあえず型どおりの挨拶を返した。
「その……ペルセポネ、ゼウスに君の話を伝えたのだが」
ハーデスは申し訳なさそうに口を開いた。
「ゼウスが言うには、デメテルと話しをする間、この赤ん坊を預かってほしいという条件がついてな」
「この子は?」
「この子はねー、とってもカワイソーな生い立ちでね。アフロディーテが預かって育てることになっているアドニスって子なんだけどー」
ヘルメスがニコリと笑う。
「ちょっとアフロディーテの都合が悪くなったから、しばらく子守をしてほしいってコト」
「子守ですか?」
「ああ。冥府でしばらく預かってほしいと言われたのだが……」
ハーデスは明らかに困惑している。
「この女神さまが、ここから出て行けばいいのではなくて? 冥府で子守なんて、何の冗談?」
メンテーが私の顔を睨みながら不平そうにそう言った。
「メンテー、私はペルセポネに、ゼウスと話をつけると約束した。それは、私に約定を違えるような神になれと言っているのか」
「……滅相もございません」
怒りの表情を浮かべたハーデスに、メンテーは慌てて頭を下げた。でも、彼女の目は鋭く私の方を睨んでいる。
「私が、この子の面倒を見ればよいのですね?」
私はヘルメスの腕に抱かれた赤子に手を伸ばした。とても可愛らしい子だ。
「おいで、アドニス」
「わきゃっ」
その子はご機嫌に目を輝かせ、私の腕の中に飛び込んできた。
そして、私の頬にやわらかいほっぺをすりよせる。
「きゃっ、きゃっ」
「うん。大丈夫そうだね」
にこり、とヘルメスは笑う。
「きちんと話は伝わっているんだろうな、ヘルメス」
「大丈夫だって。もぉ、ハーデスさまは、心配性だね」
かるーい笑顔を浮かべ、ヘルメスはそう言った。
こうして、私は、冥府で子守をすることになったのであった。




