エウドキア
「どうして君がここに?」
「私……あなたに会いたくて」
私は立ちあがって、そう言った。
「……ここは、冥界だ。君のような女神が踏み入れる場所ではない」
ハーデスは私に言い聞かせるようにそう言った。
「しかし、ケルベロスがそんなふうに懐くなんて驚きだ」
クインと声を立て、獣、ケルベロスはハーデスのそばに駆け寄る。
ハーデスがそっと三つの頭を順になでてやると、ケルベロスは満足そうに彼のそばにチョコンと座った。
「私に何の用だい? それにしたって、ひとこと連絡をもらえればこちらから出掛けたのに」
「私……」
正直言って、ハーデスに会いたいという気持ちだけでここに来たから。
咄嗟に、何を言ったらいいかわからない。
「なんにしても、デメテルに連絡して……地上まで送る手配を」
「いや!」
私は思わず、ハーデスに抱きついた。
「お母さまには連絡しないでください!」
私の身体をゆっくりと引き離しながら、ハーデスは端正な顔を困ったように歪めた。
「デメテルと喧嘩でもしたのかい?」
「いいえ! そんなことではないです」
「大丈夫、私がうまく話してあげるから」
まるで小さい子をあやすように、彼は私の頭をなでながらそう言った。
「違うんです! 戻ったら、私、結婚させられちゃう」
「結婚?」
ハーデスは驚いたようだ。
彼は、私からそんな言葉が飛び出るとは思っていなかったらしい。彼から見れば、私はまだ幼い少女にしかみえないのだろう。
「お母さまが、ペイリトゥスさまというかたと結婚しろというの……お父様も承知だと」
私はうつむいて、そう言った。
「……それで、逃げてきたというわけだね」
ハーデスは得心したというように頷いた。
「違います! 私、あなたに会いに来たんです!」
私は首を振った。
「違う? でも、結婚が嫌だから、ゼウスにとりなしてもらいたくて私を頼ってきたのだろう? 大丈夫。きちんとゼウスに君の気持ちは伝えてあげる」
ハーデスは優しく笑う。
「心配しなくても、デメテルだって、君がそれほど嫌な相手というなら、無理強いはしないだろう」
ハーデスは、私が父へのとりなしを願って、ここまで来たと信じて疑わない。
「ゼウスに話をつける間、しばらくここにいるといい。ただし、冥府の食べ物、飲み物は一切口にしないことが条件だ」
ハーデスはそう言った。
「君は、頼るべき神を私しか知らない。私の顔が浮かんだからといって、それを恋だと勘違いしてはダメだ」
優しく、でも残酷にハーデスはそう言って、私の頬をなでた。
「冥界は、君が思うような甘い世界ではない」
ハーデスの顔に暗い陰りが落ちる。私はそれ以上、何も言うことはできなかった。
私は、冥府の宮殿の一角に部屋をもらった。
とても寝心地のよさそうなベッド。趣味の良い調度品。部屋にはランプが灯されていて、とても温かい。
なぜか、ごはんは食べさせてもらえないらしいけれど、歓迎されていない訳ではないらしい。
「彼女は、エウドキア。困ったことがあったら、彼女に相談するがいい」
そういって、ハーデスは私に一人の侍女を紹介してくれた。
「エウドキア、ペルセポネを頼む」
「承知いたしました」
彼女は、丁寧に頭を下げる。
女性にしては、髪が短めだ。とても綺麗な女性だけど、左右で瞳の色が違う。右目が青、左目が緑色。
髪も肌も抜けるように白い。それなのに、闇に溶けていってしまいそうな、不思議な女性だ。
「あなたのような女神さまが、ひとりで冥府にいらっしゃるなんて」
部屋に二人きりになって、私の話を聞いたエウドキアは驚いた顔をした。
「オリンポスの神々は、冥界を忌み嫌っているモノだとばかり思っていましたのに」
エウドキアはそういって、私の髪をくしけずる。
「陽の光はないけれど……思ったより明るいのですね」
私がそういうと、エウドキアは笑った。
「ここで死者たちは、生前と同じように生活しているのです。朝もあれば、夜もあるのです。地上と違って、彩は少ないですけれど」
地底の世界は、様々なものがじんわりと発光して、朝と夜を形作るらしい。
そういえば、あの大河の水も、光を放っていた。
「生前と同じように?」
「ええ。よほどの罪人、もしくは選ばれたものは、べつですが」
エウドキアは丁寧に私の髪を結いあげ始めた。鏡に映る私の髪に、闇色の花を挿しこんでいく。
びっくりするほど、手先が器用だ。
「ハーデスさまは……冥界は甘い世界ではないと」
「そうですわ」
エウドキアは、ニコリと笑った。
「でも、冥界は寛容ですわ」
「寛容……」
私をかくまってくれるのは、ハーデスが寛容だからなのだろうか。
「知りたいわ。この世界を」
「ご案内いたしましょう」
エウドキアは丁寧に頭を下げて、私の手を取った。




