アドニス
ハーデスは、誠実で優しいひとだけど、厳しいひとでもある。
オルフェウスが去った後、私は、何も言わずに、部屋に戻った。
ゆりかごの中で、アドニスが、無邪気に笑う。
アフロディーテの依頼、ということになっているけど、この子は人の子でありながら、どうしてこんなところにきているのだろう。
本来ならば、冥府は、生きているものがいるべき場所ではない。
オルフェウスと同じく、陽の光の下へ帰っていかなければならないはずのさだめである。
「どうかなさいましたか?」
エウドキアが考えに沈み込んでいた私の顔を覗き込んだ。
「……この子、人間の子でしょ。どうして、ここにいるのかなって思っただけなの」
私の問いに、エウドキアはふぅっとため息をついた。
「アレース様が原因ですわ」
「アレース?」
アレースというのは、いくさの神であり、これまた、私の異母兄である。
ゼウスと女神ヘラの子供なので、我が兄弟の中でも格上、と言ってもいいかもしれない。
神々の中でも美男子で有名だが、かなり荒っぽくって自分勝手なところがあり、私は苦手である。
「アレースさまとアフロディーテさまが恋人同士なのはご存知でしょう?」
「でも、この子は神の血はひいていないから、アフロディーテさまの隠し子ってこともないでしょ」
美と愛の神、アフロディーテには、離婚歴がある。
彼女にはヘパイストスという夫がいた。
これについては、アフロディーテの意思ではなく、女神ヘラの意思だったらしい。
けれど、ヘパイストスは、姿こそ醜いが、まじめで実直なひとだ。アフロディーテを溺愛して、仕事に励んでいて、見た目には仲睦まじい夫婦に見えていた。
けれど、アフロディーテは、もともと、ヘパイストスの弟であるアレースと恋仲だったのだ。
そして、その恋の炎は結婚しても消えることはなく、二人は愛しあうことをやめなかった。
結局。
妻と弟に裏切られていたことに気が付いた、ヘパイストスは、密通現場を多数の神にみせるという、アフロディーテとヘパイストスを結び付けた貞節を重んじる女神ヘラに大恥をかかせる形で離婚した。
もともと、女神ヘラは、美男子であるアレースのことは愛していたが、醜いヘパイストスを嫌い、アフロディーテとアレースが恋仲であることも承知していたという話で、こうなることも予期していたらしい。
もっとも、ヘパイストスがヘラに報復じみた形で離婚を成立させたのは誤算だったようだ。
離婚が成立したアフロディーテも、さすがに外聞が悪いこともあり、また、女神ヘラの反対もあって、まだアレースとは結婚していない。
もっとも、すでに二人の間に子はあるという話だけれど。
「なんというか……アフロディーテさまはこの子を愛すると、ヘラ様に予言されているらしいです」
「え?」
「おそらく……ヘラ様は、怒っておいでです」
つまり、ヘパイストスのことで恥をかいたヘラは、腹いせにアフロディーテに人間の男を愛するという呪いをかけた、ということだろうか。
「アフロディーテさまは、アレースさまを愛しておいでです。でも、アレースさまはこの子が生きている限り、心穏やかではいられない」
「……だから、冥府で預かるということね」
私は納得した。
「難しいわね。私は、ヘパイストスのほうが、アレースより好きだけど、好きじゃないひとの妻に無理やりされてしまったアフロディーテの気持ちはわかるような気がするわ」
私はそれが嫌で、ここに逃げてきたのだから。
「かわいそうなアドニス。この子は、何も悪くないのに」
「だからこそ、アフロディーテさまは、この子をゼウスさまに託したのでしょう」
ひょっとしたら。
その呪いは既に効力をもっていて、アフロディーテはアドニスを放置できなかった可能性もある。
でも、アフロディーテの気持ちはともかく、神々の思惑に巻き込まれたアドニスは、かわいそうだ。
「でも……この子は、いつまでもここには、いられないわね」
冥府は死者の場所だ。
「はい。ただ、事情が事情ですので、ハーデスさまも、追い返すわけにもいかないと」
「そうよね」
神である私にはよくわからないが、生きているモノがここにいるためにはその生の時を止めねばならないらしい。
人はこの世界にいる限り、時が止まったまま。つまり、いつまでも赤子のままなのだ。
「いずれ、地上に戻らないといけないのね」
それは、アドニスにとって幸せな場所であってほしい。
「ペルセポネさまが守ってあげますか?」
「私が?」
私がアドニスを連れて地上に戻り、アドニスを育てる……。
それは、アドニスにとっては、一番幸せなのかもしれない――私が、母と離れ、そして、結婚もせず、ひとりで生きていくことを許されるなら。
父は、そこまで読んでいたのかもしれない。
恋をあきらめて、地上に戻るきっかけになると思って、アドニスを私に託したのであろう……。
罪のないアドニスの笑みに、心が、ゆらぐ。
「ペルセポネさま?」
「ううん。なんでもないわ」
エウドキアに頷くと、私は窓の外を見る。
冥府のすべては、淡く光を放っていた。