第四十話 そして混沌は続く
王城の最も高い塔。
そこは、再び、神聖なる静寂と、怠惰な美食の匂いに満たされていた。
ノクトは、特注の椅子に深く身を沈め、目の前の巨大な魔力モニターに映し出された、真新しいゲームのタイトル画面を、満足げに眺めていた。
『帝国興亡記IX』のセーブデータは、王国の財政を傾かせるほどのリソースを投入した結果、完璧に復旧した。
二百時間の魂を取り戻した彼は、その日のうちにエンディングを迎え、そして今日、早速、新作のMMORPG『フロンティア・ワールド・オンライン』のサービス開始日に、寸分の狂いもなくログインしていたのだ。
彼の指先が、優雅に、そして超高速でコントローラーを操作する。
キャラクタークリエイト画面で、理想の引きこもり魔術師を創り上げていくその横顔は、真剣そのものだった。
傍らには、アイリスが血の滲むような努力の末に入手した、幻の『トリュフ香る、悪魔のコンソメポテチ』の袋が、まるで聖杯のように置かれている。
(…ふむ。やはり、平穏は、守るものではなく、作り出すものだな)
ノクトは、ポテチを一枚口に運びながら、今回の騒動から得た、唯一にして最大の教訓を、胸に刻んでいた。
魔王の襲来も、世界の初期化も、そして、迷惑なストーカーたちの襲撃も。
彼の、完璧で快適な引きこもりライフを脅かす脅威は、常に、何の脈絡もなく、理不尽に現れる。
ならば、待っているだけでは駄目だ。
脅威の火種は、それが燃え広がる前に、先回りして、徹底的に、そして効率的に、叩き潰す。
それこそが、至高のゲーマーとして、そしてこの世界の影の支配者として、彼が至った、新たな境地だった。
(今回の件で、アイリスという駒の、有用性も再確認できた。…まあ、しばらくは、大きな騒動も起こるまい。存分に、この新しい世界を堪能させてもらうとしよう)
彼が、自らの分身となるキャラクターに「Nokuto」と名付け、広大なオンラインの世界へと降り立とうとした、まさにその瞬間だった。
アイリスの脳内に、久しぶりに、あの、忌々しくも懐かしい、緊急通信のベルが鳴り響いた。
だが、その声の主は、ノクトではなかった。
騎士団長アルトリウスからの、切羽詰まった魔力通信だった。
『聖女様! 緊急事態です! あの二人組が、再び、王都に現れました!』
(え…!?)
アイリスは、貴婦人たちとのお茶会(本日三回目)の席で、完璧な笑みを浮かべたまま、内心、悲鳴を上げた。
あの二人組。
レイラとミスト。
彼らに植え付けられたトラウマは、それほど浅いものではなかったはずだ。
アイリスは、平静を装いながら、脳内でアルトリウスに詳細を尋ねた。
(団長、落ち着いてください。彼らは、今どこに? 何をしていますか?)
『はっ! それが…! 王都の中央広場で、二人で、何やら『傷ついた心を癒すための、チャリティーバザー』なるものを、開いております…!』
(ちゃ、チャリティーバザー…?)
アイリスの思考が、一瞬、停止した。
あの、世界を混沌に陥れた二人が?
慈善活動?
あまりの突拍子のなさに、彼女は、それが新たな罠であると、即座に確信した。
アルトリウスからの報告は、さらに混沌を極めていた。
レイラは、自らの氷の城から持ち出したコレクション(テオの叩き売りを免れた、二級品)を、格安で販売し、「この収益は、先日の舞踏会で心に傷を負った方々への、慰謝料とさせていただきますわ…」と、涙ながらに訴えているという。
その、あまりの殊勝な態度に、王都の民衆は、すっかり彼女を「改心した、心優しき氷の芸術家」だと信じ込み、バザーには長蛇の列ができているらしい。
一方のミストは、その隣で、「論理的に、最も効率的な募金活動」と称して、客寄せのための、地味な大道芸(豆運びや、カード当て)を披露しているという。
その瞳は、未だに虚ろだったが、時折、客から拍手を受けると、ビクッと体を震わせながらも、どこか嬉しそうな表情を浮かべている、と。
(…これは…一体、どういう状況なのでしょうか…)
アイリスは、混乱の極みにあった。
ノクトに報告すべきか。
いや、しかし、彼はようやく、セーブデータ修復の呪縛から解放されたばかり。
その、平和な(?)日常を、これ以上、乱すべきではないのではないか。
彼女が逡巡した、その数秒が、運命だった。
彼女の脳内に、低い、そして地獄の底から響くような、ノクトの声が響いた。
『……新人。今、面白い報告が聞こえたような気がしたのだが』
どうやら、彼女の脳内の通信は、完全に、彼に傍受されているらしい。
アイリスは、観念して、事の次第を正直に報告した。
(―――神様。その、例の二人が、今度は二人で『傷ついた心を癒すためのチャリティーバザー』を始めたのですが…これは、罠、でしょうか?)
数秒間の、恐ろしい沈黙。
やがて、アイリスの脳内に響いたのは、怒りでも、呆れでもない。
ただ、深淵の底よりも深い、途方もない、ため息だった。
『………………はぁ……』
ノクトは、静かに、新しいポテチの袋を開封した。
パリ、という小気味よい音が、神の聖域に響く。
彼の脳裏には、先ほどまでの、新しいゲームへの期待と興奮は、もはや欠片も残っていなかった。
(…そうか。…そうだったな。害虫というものは、一度駆除しても、また、どこからともなく湧いてくるものだ。…そして、その火種は、常に、俺の想像の、斜め下を行く…)
彼は、学んだのだ。
この世界の「理不尽」という名の、最もタチの悪いゲームの仕様を。
そして、そのゲームに、終わりはないということも。
『…知るか』
吐き捨てるような、しかし、どこか諦観に満ちた声が、アイリスの脳内に響いた。
『奴らが、本気で改心したのか、あるいは、新たなゲームを仕掛けているのか。…正直、どちらでもいい。もはや、俺の興味の対象外だ』
(で、では…!)
アイリスの心に、ほんの少しだけ、安堵の光が差す。
だが、その光は、次の言葉で、無慈悲に掻き消された。
『だが、念のため、保険はかけておく。…テオを、偵察に向かわせろ』
(テオを、ですか?)
『ああ。奴に伝えろ。「二人の、清い心に、深く感銘を受けた。ついては、聖女アイリスファンクラブとしても、その崇高なチャリティーに、全面的に協力したい。まずは、その売上金を、全額、我々が責任を持って、預からせていただこう」…と、な』
それは、もはや偵察ではなかった。
寄付という、最も聞こえの良い大義名分を掲げた、ただの「カツアゲ」の指令だった。
テオならば、きっと、満面の笑みで、その役目を完璧に遂行するだろう。
たとえ、二人が本心から慈善活動をしていたとしても、その売上金は、一銭残らず、テオの懐(という名のファンクラブの運営資金)へと消えるのだ。
(…承知、いたしました…)
アイリスは、完璧な笑みを浮かべながら、脳内で、そのあまりに理不尽で、しかしあまりに「神様らしい」指令を下したノクトに対し、敬礼をした。
ノクトは、再び、コントローラーを握りしめた。
目の前のモニターには、広大なファンタジーの世界が広がっている。
だが、彼の心は、もはや、純粋な冒険への期待だけでは満たされてはいなかった。
(…まあ、いい。どんなクソゲーにも、それなりの楽しみ方というものは、あるものだ)
彼は、パーティーチャットのウィンドウを開くと、ギルドの仲間たちに、短いメッセージを送った。
『―――緊急クエスト発生。新規プレイヤーの「育成」を手伝う。報酬は、ポテチ(現物支給)』
彼の、新しいゲームは、始まったばかり。
そして、彼の、聖女を駒として、この世界の理不尽と戦い続ける、もう一つの「ゲーム」もまた、決して、終わることはないのだ。
アイリスは、お茶会の席で、ふと、空を見上げた。
空は、どこまでも青く、澄み渡っている。
彼女の、騒がしく、理不尽で、そして、どこか愛おしい日常は、これからも、きっと、続いていく。
そんな、確かな予感を胸に、彼女は、目の前の、宝石のように美しいケーキに、そっと、フォークを入れるのだった。




