第二十九話 『神』のプロファイリング
情熱と哀愁が入り混じる、最後のワルツ。
その旋律は、クライマックスへと向かって、徐々に、しかし確実に熱を帯びていく。
アイリスは、目の前の平凡な書記官の姿をした魔族――幻惑のゲームマスター・ミストの完璧なリードに身を任せながら、脳内に響く絶対者の声に、全神経を集中させていた。
(神様…! 本当に、この男がミストなのですね…?)
彼女の問いに、ノクトは、まるで出来の悪い生徒に補習授業をする教師のような、若干うんざりした口調で応じた。
『まだ疑っているのか、新人。いいか、もう一度だけ説明してやる。この幻術空間は、ミストの魔力によって維持される、いわば奴専用のサーバーだ。幻影のNPC一体一体は、大した処理能力を必要としない軽量なプログラムに過ぎん。だが、今お前と踊っている、この特徴のないアバターだけは違う』
ノクトの思考が、アイリスの脳内に、複雑な魔力フローの解析図を投影する。
『見ろ。奴は、お前の予測不能な動き、呼吸、重心移動という膨大な情報をリアルタイムで処理し、それに完璧に対応する動きを出力し続けている。これは、他のNPCのような事前入力された行動パターンでは不可能だ。このアバターだけで、このサーバー全体の処理能力の約三割を消費している。サーバーの管理者が、メインプレイヤーの相手をするために、処理能力を最優先で割り当てている、何よりの証拠だ』
神の領域から放たれる、あまりにもデジタルな解説。
それは、アイリスが生きる剣と魔法の世界の常識からは、あまりにもかけ離れていた。
(サーバー…リソース…。神様のお言葉は、いつも本当に難解です…)
『つまり、奴は今、最高のグラフィックボードを積んだPCで、最高難易度のリズムゲームを、お前相手にプレイしているようなものだ。そして、奴のプライドの高さから考えて、絶対に「PERFECT」以外の評価は許さないだろう。…だからこそ、そこに付け入る隙がある』
ワルツの旋律が、一瞬の静寂を挟み、最終楽章へと突入する。
残された時間は、あとわずか。
(神様、奴のプライドをへし折る、決定的な一手とは、一体…?)
『フン。簡単なことだ。ゲームの攻略は、まず敵を知ることから始まる。この数日、俺は奴の行動を観察し、その思考パターン、行動原理、性格的欠陥の全てを分析し終えている』
ノクトの声には、絶対的な自信が満ち溢れていた。それは、数々のクソゲーの仕様を解析し、理不尽なボスキャラを攻略してきた、歴戦のゲーマーだけが持つことのできる、確信の響きだった。
『まず、奴の基本パラメータを整理しよう。ミストは、極度のナルシストであり、自らが作り出した「論理」と「美学」を、神の法則であるかのように信奉している、典型的なロジック狂だ』
(ちゅ、ちゅうにびょう…?)
聞き慣れない単語に、アイリスが首を傾げる。
『奴は、常に自分がゲームマスターであり、他者は全て自分の盤上で踊る駒でなければ気が済まない。前回の謎解きゲームで、俺に完膚なきまでに攻略された時、奴は敗北を認める代わりに、「私の想定を超える、最高のライバルが現れた」と、己の敗北すらも、自らの物語の一部として、ポジティブに変換して悦に入った。…要するに、とんでもない負けず嫌いで、プライドの塊なのだ』
ノクトの分析は、まるでゲームキャラクターのデータシートを読み上げるかのように、淡々と、そして的確に続いていく。
『奴の行動パターンは、極めて古典的だ。常に芝居がかった演出を好み、挑戦状を叩きつけ、自らが設定したルールの中で、相手を屈服させることに最大の喜びを感じる。前回の劇場パニックがいい例だ。奴は、サプライズ演劇という、回りくどい方法で、お前を自らの舞台に引きずり込もうとした。直接的な暴力ではなく、あくまで「ゲーム」という形式にこだわる。それは、自らの知性が、腕力よりも優れていることを証明したいという、劣等感の裏返しでもある』
(劣等感…)
『そうだ。そして、何より重要なのが、奴が景品としてよこした、あのサイン入りブロマイドだ』
その言葉に、ノクトの声色が、僅かに、しかし明確に、怒りの色を帯びた。
『あれは、奴の承認欲求の極みだ。「私の才能を認め、私を崇拝しろ」という、あまりにも幼稚な自己顕示欲の表れ。つまり、奴は、他者から「理解」され、「評価」されることを、心の底から渇望しているのだ。…自分の美学と論理を、だ』
そこまで分析し、ノクトは確信を持って、断言した。
『――故に、奴にとって、最大の屈辱とは何か。それは、暴力でねじ伏せられることではない。無視されることでもない。…奴の土俵に上がり、そのルールと美学を完全に理解した上で、「その程度か」と、見下してやることだ』
それは、あまりにも性格が悪く、あまりにも的を射た、悪魔的な攻略法だった。
相手のプライドを、最も効率的に、最も残酷に砕くためだけの、完璧な論理。
(…神様。あなたは、本当に…)
アイリスは、ノクトの、その底知れない性格の悪さに、もはや感心を通り越して、若干の恐怖さえ覚えていた。
『いいか、新人。俺が今から授ける脚本を、一言一句、違えることなく、奴の耳元で囁け。お前の役は、もはや聖女ではない。全てを見通し、全てを理解した上で、愚かな挑戦者を憐れむ、絶対的な強者だ。…女優になれ。最高の演技で、奴の心を折ってやれ』
ノクトの思考が、冷たく、そして美しい言葉の刃を、アイリスの脳内へと直接、送り込んでくる。
それは、ミストという男の魂を殺すためだけに研ぎ澄まされた、呪いの言葉にも等しかった。
アイリスは、ごくりと息を呑んだ。
目の前の書記官は、何も知らずに、ただ完璧なステップで彼女をリードし続けている。
その、平凡な仮面の下で、最高のライバルとの知的なゲームの結末に、胸を躍らせているのだろう。
(…少しだけ、可哀想な気もしますが…)
だが、彼が仕掛けたこの悪趣味なゲームで、多くの人々が恐怖し、絶望しているのも事実。
アイリスは、覚悟を決めた。
ワルツの旋律が、最後の盛り上がりを見せ、情熱的な音色がホール全体に響き渡る。
ダンスの最後のターン。
男の腕が、アイリスの体を強く引き寄せ、二人の顔が、吐息がかかるほどの距離まで近づいた。
完璧なタイミング。
アイリスは、震える心を鋼の意志で抑えつけ、女優として、その唇を、ゆっくりと開いた。
彼女は、これから、ノクトが書いた脚本通りに、一人の男のプライドを、完膚なきまでに破壊するのだ。
その瞳には、聖女の慈愛ではなく、全てを見通す女神のような、冷たく、そして絶対的な光が宿っていた。
真実のダンスは、今、最も残酷な形で、その終幕を迎えようとしていた。




