第二話 騎士団の受難
王国騎士団第一訓練場。
そこは本来、王国最強を謳われる騎士たちが己を鍛え上げる、鋼と汗の匂いが支配する神聖な場所であるはずだった。
だが、ここ数ヶ月のその場所は、神聖さとは程遠い、悲鳴と絶叫と、そして時折混じる爆音に満ちた混沌の坩堝と化していた。
その混沌の中心にいるのは、元・魔王軍幹部にして、現・アイリス分隊所属、そして国王直々に任命された「王国騎士団特別名誉教官」、激情のギルその人であった。
「なってないであります! その程度の腕立て伏せで、何が王国最強の騎士団か! 腕立ての前に、まずこの城壁を指一本で十回持ち上げるのが、基本中の基本でありますぞ!」
早朝の澄み渡った空気を引き裂き、ギルの雷鳴のような檄が飛ぶ。
ジーロスの幻術によって、彼は今、褐色の肌をした筋骨隆々の、ただ「人よりも異常に体格がいい」だけの男の姿をしている。
しかし、その口から発せられる声と、その行動の常識離れしたスケールは、中身が人間ではないことを雄弁に物語っていた。
彼の前では、王国が誇る歴戦の猛者たちも、生まれたてのひよこ同然だった。
騎士たちは、プルプルと震える指で城壁に触れ、そのあまりに理不尽な要求に、顔を真っ青にしている。
「きょ、教官! さすがに城壁は…! 我々は人間であります!」
一人の勇敢な(あるいは愚かな)騎士が抗議の声を上げる。
その声に、ギルは心底不思議そうな顔で、その大きな頭を傾げた。
「何を言っているんでありますか! 俺の姉御、アイリス様は、これくらいのことは朝飯前でありますぞ! 姉御にできて、貴様らにできない道理がない!」
(((聖女様は人間を超越しておられるからです!!!)))
騎士たちの心の叫びは、しかし、声になることはなかった。
彼らにとって、この巨大すぎる名誉教官は、畏怖の対象であると同時に、絶対的な忠誠を誓う聖女アイリスが絶大な信頼を寄せる人物でもある。
逆らうことなど、できるはずもなかった。
結局その日、訓練に参加した騎士の半数が、指を脱臼し、腰を痛め、医務室送りとなった。
その惨状を、訓練場を見下ろす回廊から、騎士団長アルトリウスが、こめかみをピクピクさせながら眺めていた。
「…胃が。…また胃が痛くなってきた…」
実直で、規律を何よりも重んじる彼にとって、ギルの存在そのものが、彼の理解と常識を毎日破壊し続けていた。
魔王を討伐した英雄の一人であり、その忠誠心は疑いようもなくアイリス(ひいては王国)へと向けられている。
その点は評価できる。
だが、彼の「常識」は、魔王軍のそれなのだ。
「気合が足りなければ、溶岩を飲んで根性を叩き直す」「実践訓練と称して、訓練場に本物のワイバーンを放つ」「部下との親睦を深めるために、腕相撲で相手の腕をへし折る」など、彼の提案する訓練メニューは、人間が実行すれば重傷者や死人が出るようなものばかりだった。
アルトリウスは、ギルが騎士団を物理的に崩壊させる前に、なんとか彼を宥めすかし、騎士団から隔離するための名誉職を与え、そのエネルギーを無害な方向へ逸らそうと、日々苦心していた。
「ギル教官!」
アルトリウスは、意を決して、訓練場へと降りていった。
「今日の訓練は、それくらいにしておけ。騎士たちの消耗が激しい」
「団長殿! 甘い! 甘いでありますぞ!」
ギルは、アルトリウスの気遣いを、一喝した。
「姉御は、これしきのことで音を上げるような、軟弱な男はお嫌いでありましょう! 姉御に仕える騎士であるならば、常に限界を超え続けるのが、当然の務めであります!」
「いや、だから、その姉御殿の基準で考えるのをやめてくれんか…」
アルトリウスが頭を抱えた、その時だった。
訓練場の隅で、数人の若い騎士たちが、一つの木箱を囲んでひそひそと話しているのが、ギルの目に留まった。
その木箱は、昨日、アイリスが国王に届けた「献上品」の残骸…つまり、限定ポテチの空き箱だった。
「おい、これがあの『聖女様の好物』か…」
「一口いただければ、ご利益があるやもしれん…」
「馬鹿者! 恐れ多いわ!」
若い騎士たちは、もはや信仰の対象と化している聖女の遺品(ただのゴミ)を前に、一種の宗教的な儀式を行っていた。
その光景を、ギルは、誤解した。
(な、なんと! 姉御の召し上がる神聖な食料を、あの者たちが狙っている! 不埒な輩め!)
次の瞬間、ギルの巨体が、凄まじい勢いでその木箱へと突進した。
「貴様ら! 姉御の『ぽてち』に、指一本でも触れてみろ! このギルが、貴様らを塵へと還してくれるであります!」
ギルは、宝物を守る竜のように、そのポテチの空き箱の前に仁王立ちになった。
騎士たちは、そのあまりの剣幕に、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
アルトリウスは、もう、何も言う気になれなかった。
ただ、天を仰ぎ、この国一番の功労者にして、最大の厄介者である元・魔王軍幹部の、あまりに純粋で、あまりに迷惑な忠誠心に、静かに、絶望した。
彼の胃痛は、今日もまた、悪化の一途を辿るのだった。




