第一話 聖女の憂鬱
混沌の神による理不尽な「世界の初期化」が阻止され、救国の英雄たちの活躍によって、大陸に一応の平穏が戻ってから、早数ヶ月が過ぎた。
人々は英雄たちの本当の戦いを(大部分を誤解したまま)称え、未来への希望を語り、王国はまばゆいほどの活気を取り戻している。
だが、その世界の中心で「救国の聖女」として祭り上げられたアイリス・アークライトの心は、分厚く、そして重たい鉛色の雲に覆われていた。
「まあ、聖女アイリス様! 本日のお召し物も、まるで暁の女神のようで、わたくし、目が眩んでしまいそうですわ!」
「先日、我が領地で開かれた討伐記念の式典では、素晴らしいお言葉を賜りまして、領民たちも涙を流して喜んでおりましたのよ。オホホホ…」
王城の西棟、陽光が降り注ぐ壮麗なテラスで開かれた貴婦人たちのお茶会。
アイリスは、完璧な淑女の笑みを顔に貼り付けながら、内心では深いため息をついていた。
目の前には、宝石と見紛うばかりの美しいケーキと、湯気を立てる高級な茶葉。
そして、中身のない賛辞を、まるで呼吸でもするかのように吐き出し続ける貴婦人たち。
(…胃が、痛い…)
これが、今の彼女の日常だった。
魔王を「浄化」し、神との問答にさえ打ち勝った救国の英雄。
その威光は絶大で、今や王侯貴族たちは、彼女を神聖不可侵の存在として崇め奉っていた。
お茶会への招待、記念式典でのスピーチ、新作のドレスの試着会…。
騎士としての訓練や任務とはかけ離れた、華やかで、息の詰まるような日々が延々と続いている。
何より彼女を苦しめているのは、この平和が、一つの巨大な「嘘」の上に成り立っているという事実だった。
自分が英雄なのではない。自分の脳内に語りかけてくる、あの不遜で怠惰で、とてつもなく面倒くさがりな「神」が、全てを成したのだ。
その真実を、彼女は誰にも打ち明けることができない。
民衆が信じる完璧な「聖女アイリス」という偶像と、本当の自分とのギャップが、日に日に彼女の心を蝕んでいた。
「アイリス様は、本当にお強いですわよね。あの魔王軍幹部たちを、たった四人で打ち破られたとか」
「それに、あの恐ろしい魔王ゼノス様を、たった一言で改心させてしまわれたのでしょう?」
(…強くなどありません。私はただ、神様の言う通りに動いていただけ…)
心の中の悲痛な叫びとは裏腹に、彼女は「皆様の平和を願う祈りが、私に力を与えてくれたのです」と、百点満点の答えを返す。
その時だった。彼女の脳内に、久しぶりに、あの懐かしい(そして忌々しい)声が響いた。
『…新人。緊急クエストだ。街の南の商店で、本日より三日間限定で「海竜のうろこ味ポテチ」が発売された。一刻も早く入手せよ』
それは、もはや神の威厳など微塵もない、ただの同居人のような、あまりにも俗っぽい指令だった。
「神」は、今や、アイリスを便利なパシリとしか認識していないようだった。
(…はいはい、限定品の海竜のうろこ味ですね…!)
アイリスは、完璧な笑みの下で、ぐっと奥歯を噛み締めた。
貴婦人たちとの当たり障りのない会話をどうにか終えると、彼女は執事にこっそり頼んでおいたポテチの袋を受け取り、足早に国王の執務室へと向かった。
これが、今の彼女の、最も重要な「任務」の一つだった。
国王レジス・ソラリア。
この国で唯一、アイリスが「神」との繋がりを打ち明けている人物である。
もちろん、その「神」が誰なのか、彼女は知らない。
だが、国王陛下ならば、天上の神々と交信する手段をお持ちなのだろうと、彼女は固く信じていた。
「陛下、お持ちいたしました。本日の『献上品』にございます」
アイリスが恭しく差し出した庶民的な菓子の袋を、国王レジスは、心底申し訳なさそうな、そして胃が痛そうな顔で受け取った。
「おお、アイリスか。いつもすまないな…。その、なんだ…。『神』も、無理ばかり言って、すまない…」
「いえ、これも私に与えられた、重要な任務ですので」
国王は、遠い目をした。
彼はもちろん知っている。
この「神」が、天上の存在などではなく、城の塔に引きこもる、自分のどうしようもない弟、ノクトであることを。
そして、この国一番の功労者である聖女が、その弟の限定ポテチのお使い係と化しているという、あまりに理不尽で、あまりに情けないこの現状を。
それを、彼はただ、黙認するしかなかった。
世界の秘密を守るため、そして何より、下手に刺激して弟の機嫌を損ね、また世界が危機に陥るのを避けるために。
「して、アイリスよ。先日の、貴族議会からの縁談の話だが…」
「陛下。何度もお断りしているはずです。私は、まだ一人の騎士として未熟な身。そのような話は、分不相応にございます」
「だがな、アイリス。お前はもう、ただの騎士ではないのだ。救国の英雄として、その血を、次代に繋ぐという責務も…」
「失礼いたします!」
アイリスは、国王の言葉を遮ると、逃げるように執務室を後にした。
英雄としての責務。
その言葉が、今の彼女には何よりも重く、そして痛かった。
彼女は、誰にも見つからないよう、王城の片隅にある小さな庭園へと駆け込んだ。
そこは、彼女が唯一、一人になれる場所だった。
噴水の縁に腰を下ろし、空を見上げる。
どこまでも青く、澄み渡った空。
あの、無限の空間で、混沌の神と対峙した時も、こんな空だっただろうか。
(私は、本当に、このままでいいのだろうか…)
英雄であることの憂鬱と、パシリであることの理不尽さ。
二つの感情に挟まれながら、彼女は、ただ、静かに、時の流れに身を任せることしかできなかった。
彼女の、長くて平穏とはほど遠い一日は、まだ、始まったばかりだった。