第十三話―パンとスープ―
少女はまどろむ意識の中で、幾つかの記憶が断片的に甦る。
傷一つない冷たい黒曜石の床に全身をくっつけて横たわっていると、傷と疲労で通常よりも高い体温となっている少女には心地良かった。
体が動かず意識も混濁している中、それでも機能する聴覚が周囲の声を拾う。
『寝所の支度ができ――おい! 傷――療、して――じゃ――かっ!』
『――黒龍の――だ。無理――だろう』
『しゃ――ねぇ。俺が治――んを――』
『待――体りょ――状態での――は危険だろう』
『――するんだ? ――案があ――か?』
『生体学――学の見地――我が――た治癒――魔法具――る』
そこで少女の意識は一度完全に途絶えた。
次に少女が覚醒したのは、それから幾ばくかの時間が流れてからだった。
まどろみの中での目覚めはひどく曖昧なもので、目に映る光景もふわふわとして現実味がイマイチ感じられず、まとまりのない思考がグルグルと回り続ける。
心地良い水温の液体の中に浮かぶ自分。
大きな長細い筒の中には緑色の液体が満載され、その中に少女は一糸纏わぬ姿で漂っていた。
その筒の前に一人の男が訪れる。
濃い青色のローブに身を包み、海のように深く底の見えない青い瞳で少女を見ていた。その視線に蔑みや敵意がまったくないことが、少女は夢現ながら強く印象に残った。
焦点の定まらない視線を彷徨わせ、少女は無意識の内に何かを求めるように手を伸ばしていた。その手が透明な筒の内側に触れて止まると、少女は緑色の水の中で透明な硝子に手の平を滑らせる。
その様子を見た青い髪の男は、少し困ったように笑うと自身も手を伸ばして筒の外側から手を伸ばして、筒越しに少女の手の平に手を合わせる。
その行為に対して、無意識下に近い少女は特に反応を示すことはなかった。しかし、それでも男は笑みを浮かべたまま、ゆっくりと口を開く。
『――』
ほんの一言二言の言葉であり、その上水中にいる少女にはその声は聞こえはしなかった。
だが、少女は男の言葉が聞こえてそれが理解出来たかのように、全身から力を抜きゆっくりと再び意識を手放した。
◇◆◇
最初に感じたのは陽だまりの匂い。
次に感じたのは、全身を包む温かさと心地の良い柔らかな感触。
目を開けるのが億劫に感じるほどの心地良さだったが、長年に渡って苦難の人生を送ってきた少女は一瞬で覚醒すると同時に自分に掛けられていた布団を蹴り上げて転げ落ちるようにベッドから降り、警戒度を最高値まで上げて周囲を窺った。
縦横五メートルのほぼ正方形に近い部屋には、今少女が寝ていたベッドが中央に置かれているだけで、他には一切の家具や調度品はない。
まるでベッドを置くためだけに急ごしらえしたかのような部屋だった。
少女が周囲を今一度観察すると、部屋には窓がない。
殺風景で窓の無い部屋。
この光景を少女は以前にも見たことがある。
それは珍しいモノ好きの魔族に捕まって幽閉された時のことで、その時に監禁された部屋も薄汚れたベッドが一つだけ置かれて、窓のない部屋だった。
しかし違うこともあり、魔族に監禁された部屋は蜘蛛の巣が張り、床は埃だらけだった。それに比べれば、この部屋には蜘蛛の巣はおろか埃も落ちていない上に、ベッドも真新しいものでシーツからはかび臭さところか陽だまりの匂いさえした。
そして一番の違いは、この部屋には扉が無い。
出入り口が無いという意味ではなく、入り口はあるのだが扉のように部屋と通路を隔てるものがない。つまり出入り自由な状態となっている。
「……」
閉じ込められているのかと思っていただけに、少女は肩透かしを喰らったかのように目を開き、少しの間部屋の外である通路の壁を見ていた。
だが、自分の傍らに常にいた存在である幼い少女がいないことに気づき、少女は再び視線を鋭くする。
そこで少女はようやく自分の服装に気づいて、自分の体を見下ろした。
簡素ながらも清潔な白いワンピースを着せられていて、いつもボロ布同然のモノを身に纏っていた少女は、ワンピースの裾を軽く摘んで持ち上げ、摘んだ指で布を擦ってその感触を確かめる。
今まで着たことどころか、触ったこともないような上等な布の心地良い感触に少女の頬が嬉しさで紅潮しそうになるが、ハっと自分の今の状態と行方知れずの幼い少女のことを思い出し、少女は首を振って再び気を引き締めた。
周囲を見渡しても武器になりそうなものがないのを見て、仕方がなくそのまま気配を出来る限り絶って通路へと移動する。
部屋との境からゆっくりと顔を通路へと出すと、ひんやりとした空気が顔全体に触れた。
湿ったような――というよりは、意図的に微量の水気を空気中に散布して空気の乾燥を防ぎ、通路内に清涼な風を送っているようなものだった。
少女が周囲の音を聞く為に地面に耳を着けるが、地面からは足音どころか水の音さえ聞こえてはこなかった。そのことからもここが普通ではないことを改めて確認し、少女は立ち上がる。
立ち上がったところで着ているワンピースに埃がついてしまったのを見て、それを慌てて払った。払ったところで自分が何をしているのかに気づき、少女は慌てて首を横に振る。
静かに通路に出た少女は、鼻を引くつかせて人差し指を口に咥えて外気に晒す。匂いは僅かな土の匂いと香のような匂いがして、空気は通路に出て左の方向から僅かに流れてきているのを感じた。
足元が素足の少女は、恐ろしいほどに滑らかに整地された土の床を足音もなく進んで行く。気配を殺したり、足音を無くして歩いたり走ったりすることは、少女にとって生きていく上で絶対的に必要な技術だったため、小柄な容姿も相まってその隠密性はなかなか堂に入ったものだった。
通路の途中途中にはいくつかの部屋があったものの、そのほとんどが空っぽの部屋ばかりだった。中には家具の類が置いてある部屋もあったが、それらは寝具のない枠だけのベッド、上に何も置いていない机に椅子、何も収納されていない棚など生活感のないもので、少女は不思議そうにそれらを見ていた。
やがて通路の終わりが見え、その先には通路よりも多くの光源があるらしく、通路側から見ると一際明るく感じた。通路とそこの境界近くまで来ると、その部屋が少女の想像よりも遥かに広い空間が広がっていることが分かり始め、そこで少女は信じられないものを目撃する。
通路から見える範囲に少女が探していた幼い少女が、その広間の一角に立っているのが見え、少女が安堵しながらも警戒を解かずに近づこうとした時、幼い少女の目の前でその異変は起きた。
よく見れば幼い少女の前には真円状の黒い染みのようなものが広がっており、その不純物の一切入っていない墨を流し込んだかのような闇の中から、巨大なモノが音も無く浮上してきた。
最初に巨大な頭部が姿を現し、続いて長い背骨が走る胴体が骨組みだけになった翼と共に浮き上がり、やがて四肢さえも明らかになっていく。以前よりも身に残っていた腐肉が減り、死屍竜というよりは死骨竜寄りの外観になってきてはいるものの、周囲には呪いによって魂を縛られた死霊たちが叫び回るように飛び周り、腐臭と共に立ち上がるその姿は死屍竜に相応しい佇まいと言える。
その異形を前に幼い少女が、その魔性の呪塊に対して手を差し伸べるかのように、右手を伸ばそうとしたのを見て、少女は慌てて幼い少女の下へと駆ける。
幼い少女が少女のいた通路がある壁とは反対側の壁際に居たので、その表情などは少女から見ることはできなかったが、その娘が少々ズレた感性を持っていることをよく知っている少女は、その奇抜な行動に驚きつつも冷静に行動を起こすことが出来ていた。
幼い少女の下へと駆けつけた少女は後ろから幼い少女を抱きすくめると、目の前で浮上する死屍竜を勇ましくも睨みつけた。
その行為に対して、死屍竜は頭部を僅かに傾げさせる。すると、頭部の眼窩から大量の黒い液が溢れ出て下にある黒い染みへと落ちるが、その液体は一切跳ね散るようなことはなく、そのまま闇の沼に溶けてしまう。
近づく巨大な頭部から常人であれば気絶するほどの腐臭が漂うが、少女は悪臭に対しては耐性がかなりついていたので、顔を顰める程度で済んでいた。
少女を頭上から覗き込む死屍竜の空虚な眼窩に幽鬼のような青白い光が灯り、僅かに開いた歯の折れ欠けが激しい口内からは、眼窩同様に黒い粘性の強い液が零れ、更に口内から魂を囚われた亡者たちの怨嗟の声が木霊し、それと共に黒い呼気が漏れ出る。
その異形を前にしても、少女は恐怖に足を僅かに震わせながらも気丈に振る舞い、視線を死屍竜から逸らすことなく幼い少女を抱きしめていた。
死屍竜は少女に近づけていた頭部を僅かに引くと、口をガバっと開いた。
「――っ!」
自分達を飲み込もうと死屍竜が身を乗り出し、少女が身を強張らせた瞬間――轟音と共に猛烈な不可視の圧力が死屍竜の頭上から下方向へと展開され、死してもない竜族特有の高い魔力耐性を持っているはずの死屍竜を意図も容易く押し潰す。
最初に死屍竜の周囲に魔力障壁が展開されて動きを封じられ、そこから間髪入れずに頭上にも魔力障壁が展開され、通常であれば防御手段として使用するのだが、圧倒的な耐久値と圧力を持ったそれは理不尽なまでの力となって死屍竜の魔力障壁を削りながら一切均衡することもなく押し潰したのだった。
圧倒的な圧力によって圧壊した死屍竜はグチャグチャ押し潰され、周囲を囲む魔力障壁に潰された体から黒い液体が爆発したかのように飛び散り、不可視の壁に付着してその立体的な魔力障壁の構造が僅かに肉眼で見られた。
「……」
目の前で押し潰れてグッシャグシャになった死屍竜が、再び黒い沼のような染みへとゆっくりと沈んでいくのを呆然と少女が見ていると、不意に後ろから声を掛けられた。
「目が覚めたか」
「ッ!?」
突然の声に少女がガバっと後ろを振り向くと、そこには広間の上段部――広い舞台や祭壇に見える場所に巨大な黒龍が鎮座していた。
少女が仰ぎ見るその威容は、やはり少女にとって心を打つ何かが感じられた。
長い首の先にある頭部で光る黄金の瞳に見つめられると、少女は身動き出来ず息をすることすら忘れて、その『個』として完成された存在に目を奪われていた。
呆然と自身を見上げる少女の姿にクロウシスは苦笑を漏らす。
「黒龍を見れば身を害し、眼が見れば心を患い、視線が合えば発狂する――」
クロウシスの言葉を少女は理解することが出来ず、戸惑ったような表情をする。それを見て、クロウシスは黄金の瞳を僅かに細めた。
少女はクロウシスの視線に晒されていることで、次第に居心地が悪くなり始め視線をぎこちなく泳がせ始めた。すると今まで少女に抱きすくめられていた幼い少女が、モゴモゴと少女の腕の中で動いて体の向きを変え、少女と同じ正面を向く。すると、頭上から自分達を見下ろすクロウシスに気づくと、顔をパァァァァっと輝かせた。
「あぁぁぁぁっ! うー! うーっ! うぅぅぅっ」
興奮した様子で笑顔を浮かべ、少女の腕の中でシタバタと暴れその弾みで少女が腕の力を抜くと、幼い少女は黒曜石の床へと降り立つ。
すると、幼い少女は一目散にクロウシスの方へと駆け出して行き、上段への段差を跳ぼうとして高さが足りず、半ば激突するように段差にぶつかるが、本人は気にした様子もなく激突で赤くさせた鼻の頭をそのままに段差を懸命に乗り越えて上段に立つと、そのままクロウシスの右手に躊躇なく飛びついた。
「うーっ! あーぁ!」
クロウシスが『力』を込めて振るえば、それだけで城壁ごと城門を引き裂く爪のある手に幼い少女は抱きつき、嬉しそうな笑みを浮かべて黒く硬い体表の手に頬を寄せる。
その姿を見下ろしながら、クロウシスは振り払うようなこともせずに視線を立ち尽くす少女へと移す。
「腹が減っているだろう。傷を癒すのは外部要素で補ったが、お前達の体は栄養を摂取していない」
言語を理解できない少女が焦ったような困ったような表情を浮かべるのを他所に、クロウシスが配下の石操兵に指示を出すと、しばらくして広間の少女が出てきた通路の反対側にある通路から竜頭のゴーレムが姿を現した。
少女からすれば見上げるほどの巨躯なのだが、今は両手に小さな盆を乗せていて、勇ましい見た目なのに盆に載ったスープを溢さない様にゆっくりと歩いている様がどこかコミカルだった。
少女の前までやってきたゴーレムは、ゆっくりとした動きで少女の前に右手に持った盆を差し出した。そこには白いパンとポタージュ風のスープが乗せられていた。
今まで生きてきた中で、こんな風にまともな調理をされた料理を食べたことのない少女は目の前に差し出された料理を見た瞬間、今まで意識していなかった空腹感が一気に押し寄せ、空っぽの胃が催促の音を立て、脳は前回食物を口にしたのがいつだったか覚えていないと抗議してくる。
少女はなかなか受け取ろうとしないのを見ると、ゴーレムは魔力を行使して少女の前の黒曜石が立方体状に上へと迫り出し、ちょうど少女の胸の高さで止まるとその上に盆を置いた。
ゴーレムはそのまま幼い少女が居るクロウシスの元へと歩いて行った。後に残された少女は湯気の出ているスープの入った皿と二つの白いパンを前に思わず喉を鳴らした。
「うー? あっ! んぅぅぅぅぅっ!」
幼い少女の元へも盆が届けられると、無邪気な少女は顔を綻ばせると一切の躊躇もなくパンを手に取り口にした。すると目を見開いて顔を紅潮させると、そのまま凄い勢いでパンとスープを口の中に入れていく。スプーンなど使わず作法もへったくれもない食事だが、美味さと喜びが伝わってくる食べ方だった。
それを見て少女は一度クロウシスへと恐る恐る目を向けると、巨大な黒龍は懸命に食事を摂る幼い少女を見下ろし、少女の視線にも気づき黄金の眼が向けられると、そこにはやはり一切の嫌悪や侮蔑の感情はなく、鋭くも強大でありながら穏やかな感情が伝わってきた。
「――っ!」
それを見た少女は意を決したようにパンを手に取り、一口それを齧った。
白いパンを一欠けら口にしただけで少女はピタりと口以外の動きを止め、口の中で咀嚼するパンの旨味が口に広がるにつれて頬が赤くなり、すぐに二口目を齧ると、もう止まらなかった。
今日まで虫や木の実、それらが無ければ雑草を食べて過してきた少女にとって、噛むたびに甘みの広がる白いパンも、啜るたびに舌が蕩けそうなほどに美味くて胃の腑が歓喜するスープも、まるで理解が追いつかないほどの美味だった。
「はふっもぐっ……っう、っ……えぅ……っ」
パンとスープを食べている内に少女の顔がくしゃっと歪み、嗚咽を漏らしながら食べ続ける。
涙は止まることなく溢れ、嗚咽は止むことなく続いた。
少女が泣いたのは、もう本人すら忘れるほどに久しいことだった。
その涙は初めて食べたパンとスープの美味さによる部分も確かに大きかった。だが、何よりも少女の心を揺り動かしたのは、自分を自分として扱ってくれる存在がいたことだった。
この世界で虫けら以下の扱いを受け続けてきた少女にとっては、黒龍が自分に向ける眼差しこそが全てだった。
少女が今まで出会ってどんな存在よりも孤高で崇高なる存在の持つ、黄金の輝きを放つ瞳には少女をただ少女としてだけ見ていた。
それが少女にとっては、心が震えるほどの救いとなった。
そんな少女の心情を読み取りながらも、作法もなく無心で食べる少女たちを見下ろし、クロウシスは給仕役に任命したゴーレムに次の命令を行いながら、静かに嘆息する。
「さて、まずは食物を摂取する時はよく噛むことを覚えさせるべきか……」
嘆息した割には、その声音は幾分穏やかなものだった。




