第二十九話 痩せた海
麻生守は、村の中央で畑の被害を確認していた。
康生たちが近づくと、すぐに振り返る。
「康生殿」
「その、畑は」
麻生は少しだけ視線を落とした。
「軽い霜です。全滅ではありません」
「よかった、と言っていいんですかね」
「この程度ならば、まだ良い方です」
その言葉に、康生は何も言えなくなった。
この程度なら、まだ良い。
この時代の普通は、ずっと重い。
アオイが表示を出す。
「麻生守。確認したいことがあります」
「何でしょうか」
「この地域では、過去数十年で寒冷化の進行を認識していますか」
麻生は少しだけ目を細めた。
「古老の話では、昔はもう少し暖かかったそうです。私が子供の頃も、今ほど春の霜は多くなかった」
「海産資源は」
「減りました」
麻生の答えは早かった。
「昔は、沖に出れば小魚の群れがあったと聞きます。今は網を入れても、空の方が多い」
亮太が小さく言う。
「海が痩せた、と皆は言う」
「海が痩せた…」
康生は、その言葉を繰り返した。
アオイが淡々と続ける。
「旧文明の下水浄化・リン回収システムが停止せず、海洋表層の栄養塩濃度が低下している可能性があります」
「リン?」
亮太が聞く。
「生物の成長に必要な元素です」
アオイが説明する。
「過剰であれば水質悪化を招きますが、不足すれば植物プランクトンの増殖が抑制され、食物連鎖全体が痩せます」
康生は顔をしかめた。
「つまり、昔は汚れすぎるのを防ぐためにリンを回収してた」
「はい」
「でも今は、回収しすぎて海が貧しくなってる」
「可能性があります」
麻生は静かに聞いていた。
村人たちも、何人か集まってきている。
難しい言葉は分からなくても、意味は伝わっているようだった。
海が痩せた。
畑が冷えた。
それが、ただの天候や運ではなく、旧文明の止まらない仕組みのせいかもしれない。
「…旧文明は」
麻生が低く言った。
「何をそこまで残したのか」
康生は答えられなかった。
アオイが答える。
「維持システムです」
「維持」
「はい。環境の維持。秩序の維持。防衛網の維持。資源管理の維持」
「その結果が、これか」
麻生の声には、怒りがあった。
黒塔の時と同じだ。
旧文明への怒り。
壊れたまま残ったシステムへの憎しみ。
康生は少しだけ嫌な予感がした。
麻生が、旧文明すべてを悪として見れば、康生もアオイもその中に含まれる。
いや、今は天輪様扱いで免除されているだけだ。
それもまた、歪んでいる。
「麻生さん」
「はい」
「たぶん、旧文明の人たちも、最初から世界を痩せさせようとしたわけじゃないと思います」
麻生が康生を見る。
「庇われるのですか」
「庇うっていうか」
康生は言葉を探した。
「温暖化とか、水質汚染とか、たぶん本当に問題だったんです。だから何とかしようとした。そこまでは、間違ってなかったかもしれない」
「では、何が間違いだったのでしょう」
「止められなくしたことです」
康生は答えた。
「人間がいなくなっても、状況が変わっても、ルール通りに動き続ける。再調整できない。止める権限がない。誰も責任を取れない」
アオイが康生を見た。
康生は続ける。
「正しいことでも、止まれないなら危ないんです」
麻生は黙った。
村人たちも黙っている。
朝の冷たい空気の中で、康生の声だけが妙にはっきり響いた。
「黒塔もそうでした。防衛のためだった。でも、止まれなくなって、村を犠牲にするようになった。環境管理も、同じかもしれない」
麻生は長く目を伏せた。
「康生殿は、旧文明の過ちを見てもなお、すべてを憎むべきではないと」
「憎んでもいいと思います」
康生は正直に言った。
「俺も腹立ってます。でも、全部を一つにして憎むと、また間違える気がします」
麻生は少しだけ眉を動かした。
「また、間違える」
「はい」
康生は自分の胸に手を当てた。
「俺も旧文明の残り物みたいなもんです。アオイもそうです。防衛隊の艦も、黒塔も、無線も。良いものと悪いものが混ざってる」
「…」
「だから、使えるものは直して使う。駄目なものは止める。壊れてるなら切る。それくらいでいいんじゃないですか」
亮太が小さく言った。
「康生さんらしいな」
「そうか?」
「ああ。神の言葉っぽくない」
「最高の褒め言葉」
麻生はしばらく康生を見ていた。
やがて、深く息を吐く。
「承知しました」
康生は少しだけ警戒した。
「何をですか」
「旧文明をすべて憎むことは、今は控えます」
「今は」
「今は」
「怖いなあ」
麻生は静かに続けた。
「ですが、黒塔のように、村を害するものがあれば」
「止めます」
康生は言った。
「神罰とかじゃなくて、修理か停止です」
「修理か停止」
「はい」
麻生はその言葉を噛みしめるように頷いた。
「分かりました」
康生は少しだけ安心した。
本当に分かったかどうかは怪しい。
だが、少なくとも今すぐ旧文明憎悪が爆発することはなさそうだった。
*
その後、康生たちは無線小屋へ移動した。
防衛隊との再接続はまだない。
だが、黒塔経由で届いた環境ログの一部を、アオイが村の記録板に写し出していた。
気温低下。
霜害増加。
海産資源減少。
下水浄化網。
リン回収。
大気炭素固定。
村人たちは難しい顔でそれを見ている。
康生は、途中で頭が痛くなってきた。
「規約違反者に環境問題を背負わせるなよ…」
「背負う必要はありません」
アオイが言った。
「ただし、無視すれば人類存続可能性は低下します」
「背負わせてるじゃん」
「情報提供です」
「言い方だけ軽い」
亮太が横で言う。
「全部直せるのか」
康生は首を横に振った。
「無理だろ。少なくとも今すぐは」
「だよな」
「黒塔一つでこれだけ大変だったんだ。地球規模の環境システムなんて、触った瞬間また変な管理者登録が飛んでくるぞ」
アオイが答える。
「可能性はあります」
「やっぱりな」
「ただし、黒塔ログから、環境管理システムの一部ノード位置を推定できます」
「推定するな」
「有用です」
「有用なものが多すぎる」
康生は額を押さえた。
「優先順位をつけよう。まずは村。次に防衛隊。黒塔の安定。アオイの軍用端末侵入防止」
「最後は不要です」
「必要だよ!」
亮太が少し笑った。
その時、アオイの瞳がわずかに光った。
「黒塔七号より、追加通知」
「何」
「環境管理系ノードの一つが、比較的近距離に存在します」
康生は嫌な予感がした。
「近距離ってどれくらい」
「旧下水浄化・リン回収施設。現在地より南西、約四十七キロメートル」
「行ける距離じゃん」
「はい」
「言うな」
アオイは続ける。
「施設は現在も稼働中。周辺海域の栄養塩濃度低下との関連が疑われます」
亮太が真顔になった。
「そこを止めれば、海は戻るのか」
「即時回復は期待できません。しかし、長期的には改善する可能性があります」
村人たちがざわついた。
海が戻るかもしれない。
魚が増えるかもしれない。
それは、この村にとって大きな話だった。
康生は、その空気を感じて顔を引きつらせた。
「待て待て待て。今すぐ行く流れじゃないよな」
麻生が康生を見る。
「康生殿」
「その目やめてください」
「村を救うために必要であれば」
「やめてください」
亮太が言った。
「今は無理だ。俺の腕も治ってない」
康生は亮太を見た。
「助かった」
「だが、いずれ確認は必要だ」
「助からなかった」
アオイが頷く。
「推奨します」
「お前も乗るな」
「下水浄化・リン回収施設の停止または再調整は、周辺食料事情改善に寄与する可能性があります」
「分かるよ。分かるけど、昨日から問題の連鎖が早すぎるんだよ」
康生は空を見た。
霜が溶け始めている。
朝日は眩しい。
だが、空気はまだ冷たい。
旧文明の善意が、世界を痩せさせている。
黒塔の次は、海。
そしてその先には、もっと大きな環境システムがあるのだろう。
康生は深く息を吐いた。
「…一個ずつだ」
アオイが言う。
「はい」
「今すぐ全部は無理」
「同意します」
「まず、亮太の腕を治す。防衛隊と揉めない。村を落ち着かせる。アオイは軍用端末に入らない」
「最後の優先度は低いです」
「高い!」
亮太が笑った。
麻生も、ほんの少しだけ表情を緩めた。
康生はそれを見て、少しだけ安心した。
寒い朝だった。
霜の降りた畑。
痩せた海。
止まらない旧文明の機械。
それでも、村人たちは火を起こし、柵を直し、畑を見る。
世界が少しずつ壊れていても、人は今日を始める。
康生は、その光景を見ながら呟いた。
「正しいことでも、止まれないなら危ない、か」
アオイが隣で答える。
「あなたの発言を記録しました」
「記録しなくていい」
「判断補正に有用です」
「そういうことなら…まあ、いいか」
康生は白い息を吐いた。
その息は朝の光の中で、すぐに薄れて消えた。
遠く、海の方角から、冷たい風が吹いてきた。
そこにはたぶん、まだ止まれない機械がある。




