第二十八話 ここ、福岡だよな
朝、康生は寒さで目を覚ました。
正確には、目を覚ましたというより、外気温の低下を構成体が検出し、人格ログ側へ不快感として通知してきた、という方が近いらしい。
だが、本人の感覚としては普通に寒かった。
「…寒っ」
康生は小屋の床で身を起こした。
隣では、亮太が毛布を肩までかけて眠っている。
左腕は固定されたままだ。
昨夜はさすがに疲れ切っていたのだろう。
防衛隊。
黒塔。
アオイ。
村長。
神扱い。
全部を一度に浴びたのだから、無理もない。
康生はそっと立ち上がり、小屋の戸を開けた。
白かった。
村の屋根。
柵。
畑の端。
地面の草。
そのすべてに、薄く霜が降りていた。
康生はしばらく固まった。
「…え?」
吐く息が白い。
空は明るい。
朝日も出ている。
それなのに、空気は冬のようだった。
「いや、待て」
康生は小屋の外へ出る。
足元の霜が、ぱり、と小さく鳴った。
「ここ、福岡だよな?」
背後からアオイの声がした。
「はい。旧福岡県北部に相当する地域です」
「だよな」
「はい」
「何で霜降りてんの?」
「現在の外気温は、摂氏一・八度です」
「一・八」
康生は空を見上げた。
「福岡の朝って、こんな寒かったっけ」
「あなたの記憶時点における同地域の平均気温とは、大きく乖離しています」
「だよな。俺の記憶、そこまで壊れてないよな」
「一部に問題はあります」
「今そこ突っ込まなくていい」
亮太が小屋の中で身じろぎした。
「…朝から何を騒いでる」
「寒い」
「寒いな」
亮太は普通に答えた。
「普通に受け入れるなよ」
「季節によっては、こんなものだ」
「季節によっては?」
康生は眉を寄せた。
「今、何月くらいなんだ」
亮太は少し考えた。
「春の終わりだ」
康生は空を見た。
霜。
白い息。
春の終わり。
「いや、おかしいだろ」
「そうなのか」
「そうだよ。少なくとも俺の知ってる福岡は、春の終わりに霜で白くならない」
亮太は不思議そうに周囲を見た。
「昔は暖かかったのか」
「もっと暖かかった」
「羨ましいな」
その一言が、妙に重かった。
康生は黙った。
羨ましい。
この時代の人間にとって、寒い春は当たり前なのだ。
*
村の中では、朝の作業が始まっていた。
霜の降りた畑を見て回る者。
柵の補修を続ける者。
無線小屋の青いランプを確認する者。
炊き出しの火を起こす者。
その手つきは慣れていた。
寒さに驚いているのは、康生だけだった。
いや、アオイも驚いてはいない。
亮太も、村人たちも、ただ淡々と動いている。
「…これが普通なのか」
康生が呟くと、アオイが答える。
「現地人類にとっては、通常気候として認識されている可能性があります」
「三百年も経てば、寒いのが普通になるってことか」
「はい」
「嫌な普通だな」
「同意します」
「お前が同意すると不安になる」
アオイは無線小屋の方を見た。
「黒塔七号の一部環境ログを参照可能です」
「参照できるのか」
「正式管理者権限はありません。ただし、昨日の規約外修復により、現地検証予定地点に関する環境データの閲覧権限が残っています」
「それ、また抜け道じゃない?」
「保守安全評価の延長です」
「便利な言葉だな、保守安全」
「はい」
「褒めてない」
アオイの瞳が淡く光った。
空中に、小さな表示が浮かぶ。
青白い文字。
――地域環境ログ。
――旧福岡北部。
――三百年前推定平均気温比、低下。
――年平均低下幅、八・一度。
――季節変動、拡大。
――霜害発生日数、増加。
康生は表示を見て、しばらく声が出なかった。
「八度?」
「はい」
「平均で?」
「はい」
「下がりすぎじゃね?」
「大きな変動です」
「大きな変動で済むのかこれ」
亮太が横から覗き込む。
「八度低いというのは、どれくらい違う」
康生は少し考えた。
「雑に言うと、温かい場所が寒い場所になる」
「分かりやすい」
「冬の強さが変わる。作物も変わる。海も、森も、全部変わる」
亮太は畑の方を見た。
「だから、昔の作物は育たないのか」
康生は、ぎくりとした。
「そうなのか」
「ああ。村に残っている記録には、今より収穫量の多い作物の名前がある。でも、今は育ちにくいものが多い」
「寒さで?」
「寒さだけじゃない。土も痩せた。雨も変わった。海も昔ほど魚が獲れない」
亮太は淡々と言った。
淡々と言うからこそ、重かった。
康生はアオイを見る。
「原因は」
アオイは少し沈黙した。
「複合的です」
「一番大きいのは?」
「旧文明の環境管理システムが、管理者不在のまま稼働を継続している可能性があります」
「環境管理」
康生は嫌な予感がした。
「具体的には」
アオイの表示が切り替わる。
――大気炭素固定網。
――二酸化炭素回収群。
――軌道反射制御。
――海洋富栄養化抑制。
――下水浄化・リン回収系。
――一部システム、管理者応答なし。
――停止条件、未確認。
康生は顔をしかめた。
「またか」
「はい」
「また、良いことする機械が止まらなくなってるのか」
「その可能性が高いです」
康生は額を押さえた。
黒塔。
村を守るための演算塔だった。
だが、壊れて村を低価値拠点として扱うようになった。
今度は環境管理。
温暖化対策。
水質改善。
下水浄化。
たぶん、旧文明では必要だったのだろう。
必要だったはずのものが、止まらない。
再調整する人間もいない。
ルールだけが残っている。
「正義に停止ボタン付けとけよ…」
康生が呟くと、アオイが首を傾げた。
「正義?」
「良いことのつもりで作った仕組みだろ」
「はい。旧文明において、大気中二酸化炭素濃度の上昇、海洋富栄養化、水質悪化は重大な環境問題でした」
「だから回収した」
「はい」
「で、人類が減っても、戦争で文明が壊れても、ずっと回収し続けた」
「その可能性があります」
「止めるやつがいないから」
「はい」
康生は霜の降りた畑を見た。
村人たちが、白くなった葉を払っている。
寒さで傷んだものもあるらしい。
女が一人、葉を見て小さくため息をついた。
それでも、作業は続く。
康生は胸の奥が重くなった。
「善意の自動化が、世界を痩せさせてるのか」
「表現としては詩的ですが、概ね正確です」
「詩的って言うな」




