第百十五話 神ではなく
三日後、空の傷は地球を外れた。
正確には、地球を外れたわけではない。
外部質量体候補は、最初から地球そのものへ落ちる通常天体ではなかった。
変異位相帯に包まれ、通常座標では測りにくく、地球近傍位相構造へ干渉する恐れがあった。
だから、三沢の表示も最後まで慎重だった。
――空間位相傷、移動成分再評価。
――外部質量体候補、地球近傍位相構造外縁を通過。
――直接接触、検出なし。
――外部領域接続反応、急上昇なし。
――白海損傷域、変化なし。
――安全余裕、中から低へ変動後、再上昇。
――追加干渉、不要。
――長期監視、継続。
康生は練馬航空整備区画の中央表示を見ていた。
椅子に座っている。
立ってもいいと言われたが、しばらく座ることにした。
医療班にも、森川にも、アオイにも、立ち上がる前に一声かけろと言われている。
完全に、現場設備扱いだ。
「通過、でいいのか」
康生が聞く。
アオイが答える。
「はい。現時点で、地球近傍位相構造との直接接触は回避されました」
「成功?」
「軌道逸らし作戦は、成功と判定できます」
康生は少し黙った。
成功。
ようやく、その言葉が出た。
成功候補でもない。
成功確度高でもない。
回避見込みでもない。
成功。
だが、思っていたほど胸は跳ねなかった。
むしろ、静かだった。
「そっか」
それだけが出た。
アオイが続ける。
「ただし、空間位相傷は消えていません。外部質量体候補も消滅していません。変異位相帯は地球近傍構造から離れつつありますが、追跡は継続します」
「はい」
「白海損傷域も残っています」
「はい」
「T-LANCE保管庫の監視も継続します」
「はい」
「右構成部監視タグも継続します」
「はい」
「練馬三パーセントも維持します」
康生は少し笑った。
「そこが一番安心する」
「はい」
中央表示の隅には、相変わらずその数字があった。
――練馬地下核融合施設、出力三パーセント。
――送電母線、安定。
――東京地下生活維持、安定。
世界を逸らしたあとでも、練馬は三パーセントだった。
それでよかった。
無理に出力を上げなかった。
東京地下の灯りを消さなかった。
診療所も、配給所も、冷却循環も、全部そのまま守った。
大きなものを守るために、小さな灯りを消さなかった。
そのことが、康生には一番勝った感じがした。
森川がハチの横で作業している。
旧軌道作業艇八号、通称ハチは、まだ固定架の上にいた。
放熱膜一番を失い、二番は歪み、三番は固着し、右舷補助ノズルは分解中。
外装には、大気圏再突入時の焼け跡が残っている。
飛べる状態ではない。
だが、捨てられる機械でもない。
森川は言った。
「ハチは、直します」
康生はハチを見る。
「また飛ばすんですか」
「必要なら」
森川は端末を閉じた。
「でも、しばらくは休ませます」
アオイが言う。
「機械です」
森川は少しだけ笑った。
「比喩です」
アオイは沈黙した。
康生は言う。
「許容?」
「比喩として許容します」
「ハチ、休憩公認」
「記録する必要はありません」
「そこはしないんだ」
ハチの端末は、短く表示している。
――冷却完了。
――補修必要。
――次任務、未定。
――待機。
康生はその文字を見て、小さく頷いた。
「お疲れ」
もちろん、ハチは返事をしない。
だが、待機の文字は、少しだけ誇らしげに見えた。
相馬が中央表示の前に立つ。
「防衛隊本部、三沢、しらぬい、東京地下へ正式報告を送ります」
千田が記録端末を開く。
「報告名は」
相馬は少しだけ考えた。
「軌道逸らし作戦、最終報告」
「神話っぽくしないんですか」
康生が聞く。
相馬は康生を見た。
「しません」
「ですよね」
「これは記録です」
アオイが補足する。
「推奨します」
千田が入力する。
――軌道逸らし作戦、最終報告。
――空間位相傷および外部質量体候補への対応。
――破壊的干渉、不使用。
――T-LANCE、不使用。
――右構成部高出力、不使用。
――受電光環照射系、不使用。
――練馬三パーセント、維持。
――東京地下生活維持、維持。
――第一干渉、実施。
――第二補正、実施。
――地球近傍位相構造との直接接触、回避。
――長期監視、継続。
康生は、その文章を見て思った。
地味だ。
あまりにも地味だ。
世界が壊れなかった話なのに、報告書みたいだ。
いや、報告書そのものだ。
でも、それでいい。
エリア51は神話にも記録にもせず、黒区画に隠した。
三沢へ送るべきものを送らなかった。
その結果、七百年後の自分たちが、砂漠の地下で後始末をした。
今度は隠さない。
成功も、危険も、怖さも、恥ずかしさも、全部記録する。
東京地下への回線が開く。
今回は、代表回線だけではなかった。
低帯域ながら、複数の区画へ同時に共有されている。
診療所。
配給所。
送電管理室。
居住区代表。
子どもたちが集まっているらしい学習室。
そして、燈子。
映像の中の燈子は、椅子に座っていた。
寝台ではない。
まだ医療班が横にいるが、前よりも少しだけ姿勢が戻っている。
燈子は言った。
「聞こえています」
相馬が正式報告を読み上げる。
空の傷が外れたこと。
外部質量体候補が地球近傍位相構造へ直接接触しなかったこと。
長期監視は続くこと。
白海損傷域は残ること。
T-LANCEは再使用禁止のままであること。
右構成部高出力も使っていないこと。
練馬三パーセントを維持したこと。
燈子は最後まで黙って聞いていた。
報告が終わると、通信の向こうでしばらく沈黙があった。
それから、どこか遠い区画で、小さな拍手が聞こえた。
一人。
二人。
三人。
大きな歓声にはならない。
誰も、完全に分かっているわけではない。
空間位相傷も、外部質量体も、変異位相帯も、言葉としては難しすぎる。
だが、怖いものが少し遠ざかったことだけは伝わったのだろう。
小さな拍手が、いくつかの通信窓から漏れてくる。
康生は、少し困った。
祝われるのは苦手だ。
神様扱いされるのはもっと苦手だ。
燈子がそれに気づいたように言う。
「これは、石田さん一人への拍手ではありません」
康生は顔を上げる。
燈子は続けた。
「三沢へ。練馬へ。しらぬいへ。ハチへ。森川さんたちへ。相馬さんたちへ。アオイさんへ。記録を残した人たちへ。怖くても知ることを選んだ全員へ」
康生は黙った。
燈子は少しだけ笑う。
「もちろん、石田さんへも」
「そこは外してくれても」
「外しません」
「厳しい」
「必要です」
アオイが隣で言う。
「同意します」
「お前もか」
燈子は通信越しに、中央表示を見る。
「神様が救った、とは伝えません」
「はい」
「けれど、助けてくれた人がいたことは伝えます」
康生は少しだけ考えた。
神ではない。
でも、何もしなかったわけでもない。
助けられた。
助けた。
止められた。
見張られた。
間違えた。
戻ってきた。
その全部を、人としてなら受け取れるのかもしれない。
「それなら」
康生は言った。
「それなら、受け取ります」
燈子は頷いた。
「はい」
通信の向こうで、誰かが言った。
「ありがとう」
それは小さな声だった。
どの区画の誰かも分からない。
子どもか、大人かも分からない。
康生は少しだけ頭を下げた。
「どういたしまして、でいいのかな」
アオイが言う。
「適切です」
「じゃあ」
康生は通信へ向けて言った。
「どういたしまして」
その言葉も、少し照れくさくて、記録されるのだろうと思った。
千田は案の定、端末に入力していた。
「記録してるな」
「重要です」
「だよな」
通信が終わったあと、康生は東京地下の通路を歩いた。
今度は、医療班の許可つきだ。
長く歩くな。
走るな。
右手の熱を感じたら止まれ。
水を持て。
アオイ端末を離すな。
条件付き散歩だった。
「散歩まで条件付きか」
「はい」
アオイが答える。
「人間の作業者です」
「便利な言葉だな」
通路には、いつも通りの音があった。
配給所の台車。
診療所の呼び出し。
送電管理室から出てくる技術者。
子どもの声。
叱る声。
笑う声。
誰かが漏らしたため息。
いつも通り。
世界が外れたあとも、生活は続いている。
康生は、前に見た壁の落書きの前で立ち止まった。
丸い輪。
小さな人影。
光る手。
天輪様。
その横に、新しい絵が増えていた。
ずんぐりした何か。
四角い胴体。
棒のような腕。
黒い羽のようなもの。
横に「ハチ」と書いてある。
そのさらに横に、誰かが三本の線を書き、下に小さく「三」と書いていた。
たぶん、練馬三パーセントのつもりなのだろう。
康生はしばらく見て、笑った。
「情報量、増えたな」
「はい」
アオイが答える。
「まだ不足しています」
「落書きに厳しい」
「三沢がありません。しらぬいもありません。白海損傷域もありません。T-LANCE再使用禁止もありません」
「壁が足りない」
「はい」
康生は近くに落ちていた短い筆記具を拾った。
消すつもりはない。
天輪様の絵の下に、小さく書き足す。
神ではなく、
みんなで見た。
字はあまり綺麗ではなかった。
康生は少し離れて確認する。
「どう?」
「説明不足です」
「落書きだからな」
「ですが、良いです」
「珍しく甘い」
「必要です」
小さな足音が近づいてくる。
子どもが二人、通路の角から顔を出していた。
一人は康生を見て、すぐに落書きを見る。
「天輪様?」
康生は少し困った。
それから、しゃがもうとして、医療班に怒られるのを思い出し、中腰で止まる。
「天輪様じゃないよ」
子どもは首をかしげる。
「じゃあ、なに?」
康生は壁の絵を見る。
輪。
人影。
ハチ。
三。
「みんなで見た話」
「みんな?」
「三沢とか、練馬とか、船とか、ハチとか、アオイとか、いろんな人」
「この人は?」
子どもが光る手の人影を指す。
康生は少しだけ苦笑した。
「それは、たぶん俺」
「神様じゃないの?」
「違う」
康生ははっきり言った。
「ただの人」
子どもは納得したのか、していないのか分からない顔をした。
「でも光ってる」
「困るんだよな、それ」
アオイが横から言う。
「康生は発光現象を伴うことがありますが、神ではありません」
子どもはアオイ端末を見る。
「しゃべった」
「アオイ」
康生が紹介する。
「こっちは?」
子どもがハチを指す。
「ハチ。宇宙へ行った作業艇」
「いぬ?」
「犬じゃないけど、名前はハチ」
「つよい?」
康生は考えた。
武器ではない。
戦闘機でもない。
最終兵器でもない。
でも、強かった。
熱に耐え、宇宙へ行き、戻ってきた。
空の傷を見るために。
「強いよ」
康生は言った。
「でも、戦う強さじゃない」
「なにするの?」
「見る。測る。直す」
子どもは少し考えた。
「大工さん?」
康生は笑った。
「近いかも」
アオイが言う。
「比喩として許容します」
子どもたちは、壁の絵に何かを書き足し始めた。
ハチの横に、工具らしいもの。
輪の下に、目のようなもの。
三の横に、小さな明かり。
康生はそれを見ていた。
神話は、完全には消えないのかもしれない。
人は、怖いものに名前をつける。
助かったことに形を与える。
分からないものを絵にする。
それを全部消す必要はない。
ただ、そこへ記録を混ぜればいい。
一人の神ではなく、たくさんの人が見ていたのだと。
強い武器ではなく、測定と補正だったのだと。
白い海のような綺麗な破壊ではなく、汗臭い作業だったのだと。
康生は壁の文字を見る。
神ではなく、
みんなで見た。
悪くない。
アオイが言う。
「康生」
「はい」
「右構成部監視タグ、平常範囲です」
「今それ?」
「定期報告です」
「はい」
「緊急報告すべき事項はありません」
康生は少しだけ目を閉じた。
その言葉は、今まで何度も聞いた。
何も起きていないという報告。
危険がないという報告。
まだ大丈夫だという報告。
今は、その言葉がとてもありがたかった。
「いいな、それ」
「何がですか」
「緊急報告すべき事項はありません、って」
「はい」
「世界が終わらない日の音っぽい」
アオイは少し沈黙した。
「良い表現です」
「記録?」
「記録します」
「まあ、いいや」
通路の奥で、配給の時間を知らせる声がした。
子どもたちが走り出そうとして、近くの大人に走るなと叱られる。
台車が軋む。
診療所の扉が開く。
送電管理室のランプが淡く点く。
いつも通り。
康生は、壁の落書きから離れる。
「アオイ」
「はい」
「空の傷は?」
「監視継続中です。現時点で、緊急報告すべき事項はありません」
「白い海は?」
「監視継続中です。現時点で、緊急報告すべき事項はありません」
「T-LANCEは?」
「保管庫監視中です。再使用禁止。現時点で、緊急報告すべき事項はありません」
「右手は?」
「監視継続中です。現時点で、緊急報告すべき事項はありません」
「練馬三パーセントは?」
「維持しています」
「よし」
康生はゆっくり歩き出す。
神ではない。
神ではなかった。
七百年前からずれて、ピコマシンの身体になり、右手に危険な力を抱え、天輪様と呼ばれ、禁忌を見て、白い海を作ってしまい、宇宙へ行き、世界を少しだけ逸らした。
それでも、神ではない。
怖がった。
迷った。
使ってしまった。
止められた。
記録された。
休めと言われた。
ありがとうと言われた。
どういたしましてと答えた。
それは、神のすることではなかった。
人のすることだった。
通路の先に、練馬の細い灯りが続いている。
出力三パーセントの灯り。
その灯りの下で、人が暮らしている。
怖がりながら。
知りながら。
いつも通りを続けながら。
康生は右手を握らなかった。
ただ、膝の横に下ろしたまま歩く。
アオイ端末が隣で静かに光っている。
「康生」
「はい」
「これからも、見張ります」
「俺を?」
「康生も。空の傷も。白海損傷域も。T-LANCEも。練馬も。必要なものを」
「大変だな」
「はい」
「俺も見るよ」
「はい」
「神様じゃなくて」
「はい」
「人として」
アオイは少しだけ間を置いた。
「良い回答です」
康生は笑った。
「実績は?」
「あります」
「そっか」
練馬の灯りは細い。
世界の傷は消えていない。
だから人は、配給に並び、機械を直し、記録を残し、壁に絵を描き、少しだけ笑う。
康生も、その中を歩いていく。
儚い灯りの続く向こうに、一人の人間の背中が、静かに溶けていった。
あと1話、エピローグで終わろうと思います




