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夜の出来事

結局、リリアナが咲希の分と言って持って来てくれたパンとマイラという魔物の肉をテリヤキにした、どう見ても焼き鳥にしか見えないものを食べ、そのままリリアナはベッドへ、咲希は床で寝袋に包まった。早く寝なければならないのに、どうしても気が昂ぶって眠れなかった。克樹に言われた事が、頭の中でぐるぐると回っていたのだ。

自分は、偏見などとは無縁な生活を送って来た。社会にはいろいろな偏見があったが、咲希は意識したこともなく、またそんなものには自分はとらわれないと信じていたのだ。こちらに来た最初も、ラーキスがグーラであったのには驚いたが、それでも気にはしなかった。自分と同じように話し、同じように感じ、同じように気遣ってくれるその優しさに、嘘はなかったからだ。それなのに、ラーキスとアトラスが、グーラとしての本能のままにあの巨大なミガルグラントに対峙し、そして何の躊躇いもなく食い破る姿を目の当たりにした時、心の中で何かが弾けた…あれは、人ではない。魔物と呼ばれる、別の生き物なのだと。

立ちこめるミガルグラントの血の臭いの中に、人としての本能を呼び覚まされたように、咲希はそれからグーラが恐ろしくて仕方がなかった…克樹が言うように恐怖が偏見だと言うのなら、間違いなく自分はそれを持っているのだ。

咲希は、あまりにも眠れないので、ソッと寝袋を抜け出すと、ベッドの方を見た。リリアナは、こちらに背を向けて眠っている。

咲希は、起こさないように脇の戸を開くと、すぐに帰るからいいかとコートを着ずに、小屋から出て遺跡の入り口へと向かった。星を見ようと思ったのだ。もう、明日には自分の世界へ帰るかもしれない。ここでも星空は、電器にも影響されずとても綺麗なのだ。

帰る前に、目に焼き付けておこうと咲希は足を進めて行った。


外は、相変わらず寒かった。ここから離れて魔物にでも出会っては大変と、咲希は入り口から空を見上げた。空は晴れていて、思った通り満天の星空だった。

咲希が二つの月を見つめていると、不意に脇の方から、水音が聴こえた。

魔物?!

咲希は身を縮めた。しかし、ちゃぷちゃぷと、何かを洗うような音がするだけで、変な気配はしない。

咲希は、思い切って足音を忍ばせると、脇の方へと回り込んだ。

そこには、四角い石を組んだ棺のような物の中に、人が入っている後ろ姿が見えた。湯気が立っているので、あれは湯なのだろう。その人物は月明かりの中で、側に置いた長い槍の先を器用に使って側の雪を持ち上げ、炎を当てては溶かして湯を増やし、体をこすっている。咲希が驚いて突っ立っていると、その人物は不意に振り返った。

「…!サキ?」

咲希は、ハッとして我に返った。これでは、覗いていたのと同じだ。

「ご、ごめんなさい!」咲希は、慌てて後ろを向いた。「音がしたから…なんだろうって思って!」

それは、ラーキスだった。ラーキスは、黙って立ち上がると側に掛けてあったタオルで体を拭き、サッと服に手を通した。咲希は何か言わなければと、言葉を探した。

「あの…ラーキスは、清潔なのね。お風呂に入らないと、眠れないの?」

ラーキスは、答えた。

「我らは本来、風呂など必要ない。汚れぬ仕様になっておるから。だが、此度は血を被って臭いが取れなんだ。普段なら数日で消えるものであるし放って置くのだが、主がつらいであろう?明日は、長く背に乗らねばならぬのに。」と、顔をしかめた。「だが、一度洗っただけでは取れぬでな。皆が寝静まってから、またこうして洗い流しておったのだ。あまりに取れぬので、ミガルグラントの呪いではないかと思うておったところよ。」

咲希は、それを聞いて呆然とした。私が、つらいから…?

「ラーキス…」咲希は、ラーキスを振り返った。「私が、血の臭いが苦手だから?」

ラーキスは、頷いた。

「それでなくても、主には多くのストレスがあろう。来た時から帰りたいと申しておったものを。こちらの都合でこんな旅に付き合わされておるのだ。せめて後は、楽に帰してやりたいと思うもの。」

咲希は、ラーキスをまじまじと見つめた。出会った時から、ラーキスは変わらない。グーラであることも隠そうとはしなかったし、人型でいても言う事は同じ。こうして、自分を気遣ってくれるのだ。

咲希が、すっかり忘れていたことに気付いて、なぜかこみ上げて来る涙を必死に堪えていると、ラーキスは気遣わしげに近づいて、言った。

「どうした?…寒いのであろう。なぜにコートを着て出て来なかった。風邪を引いては、明日旅立てぬぞ。」

そして、少しためらいがちに数歩手前で立ち止まった。咲希は…自分を避けておったのではないか。

しかし、咲希はラーキスに近付いて来て、涙を溜めたまま、見上げて言った。

「ラーキス、ごめんなさい。私…忘れていて。」咲希の目から、涙ぽろぽろと落ちた。「ラーキスがミガルグラントを倒した時、そんな物を見たこともなかったから、とても怖くなってしまったの。血の臭いで、それが自分の血の臭いのように思えて、怖さのあまり気分が悪くなってしまった。それから、ラーキスやアトラスを見るとその場面が頭の中にフラッシュバックされて、怖くて…。」

ぽろぽろと泣く咲希に、ラーキスは戸惑っていた。内心はおろおろとしていたのだが、持って生まれた自制心の強さで表面には出なかった。

「その…仕方のないことよ。主は魔物すら見たことが無かったのだものの。」

咲希は、泣きながら続けた。

「でも!ラーキスは私を助けてくれたのに。ずっと、気遣ってくれていたわ。それなのに、信じていなかったということでしょう?克樹が私を強く叱ってくれたけど、克樹の言う通りだわ。私は、魔物に偏見を持ってしまっていたの…あんな力を持っていて、あんな姿だから、きっと怖いって。自分だって、一瞬で食べられてしまうって。ラーキスは、ラーキスなのに…。」

ラーキスは、困っていた。そういう心境は理解出来るし、自分は全く気にしていないのだが、それを今言っていいのだろうか。女が泣くと通常の対応ではダメなのだと、克樹の父の怜樹は常言っていた。ラーキスの父のマーキスも、その通りだと同意していた。ならば、どうすれば良いのか。肝心のことは、何も教えてくれてはいなかった…いや、怜樹が何か言っていたか…何しろ興味がなかったゆえ、しっかり聞いていなかった。

ラーキスは、眉根を寄せて必死に思い出そうと頭の中で格闘していた。咲希は、ラーキスが険しい顔で黙っているので、怒ったのだと思って、更に涙を流して下を向いた。

「許してくれないだろうけれど。ごめんなさい。それから、本当にありがとう。これまでのこと…私を見つけて、助けてくれて。寒かったら、暖めてくれて。帰りたいって言えない私の代わりに、皆にそれを言ってくれて…。」

ラーキスは、それを聞いて驚いたように咲希を見た。当然のことと思ってしたことだったのに。

「サキ」ラーキスは、咲希の背に手を回して、抱き寄せた。「もう良い。何も怒ってはおらぬしな。当然のことをしたまでよ。それより、ここは寒い。冷え切ってしまっておるではないか。」

咲希は、びっくりして固まった。今や嗚咽を漏らして泣いていたのに、急にピタリと止まった。

ラーキスにすれば、寒いのに冷えてしまった咲希をとにかくは暖めようと思っただけだったのだが、咲希が泣くのをやめたのを見て、やっと思い出した。そうだ、怜樹はこう言っていた…抱きしめちまえば泣き止むさ。言いたいことは、それから話せばいいんだよ。

「さあ、参ろう。主はオレの背に乗っておったら暖かいと言うておったが、今はあの体になるより中へ入った方が暖を取れる。」

咲希は、ラーキスが言うのを聞いて、単に暖めようとして自分を抱きしめたのだと知った。そう思うと、ほんのさっきまで怖いと脅えていたくせに、何かを期待したかのようにドキドキと高鳴る自分の胸が滑稽でおかしくなって、声を立てて笑った。

「まあふふふ。ラーキス…大丈夫よ、私寒くないわ。」驚いているラーキスに、咲希は見上げて言った。「それにね、ラーキス。まだ血の臭いが取れてないわよ。」

ラーキスは、目を丸くして慌てて咲希から腕を放した。

「まだ?ならば主は戻っていよ。オレは今一度湯を…、」

咲希は、笑ったままラーキスの服を引っ張った。

「違うわよ、これ。あの姿に戻っている時、服がどうなっているのか知らないけれど、この服に臭いが付いているのよ。きっと、ラーキス自身はもう臭わないわ。」

ラーキスは驚いて、くんくんと自分の胸や袖の辺りの臭いをかいだ。

「…確かにの。これか。」

咲希は頷いて、言った。

「さ、脱いで。さっさと洗っちゃいましょう。二人で炎を使えば、きっとすぐに乾くわ。」

ラーキスは、顔をしかめた。

「で、オレは別に平気だが、主は?裸でここに立っておっても良いのか。」

咲希は、真っ赤になった。

「そんなわけないでしょ!グーラになってよ、グーラに!そうしたら…いろいろ隠れるし…」

咲希がもごもごとお茶お濁したような感じの言い方をすると、ラーキスは頷いた。

「ああ、グーラならあの辺りの毛だけ長いからの。隠れて見えぬ。人はアレが見えては困るのだろう?」

咲希は、それこそ耳まで赤くして後ろを向いた。

「そうよ!隠すものなの!とにかく、脱いでグーラになって、服をこっちへ。このお湯を使って、洗うから。」

ラーキスは、服を脱ぎながら、言った。

「…何ぞ。泣いたり笑ったり怒ったりと忙しいの。付いて行けぬ。」

そうして、咲希はグーラに戻ったラーキスの前で、ジャブジャブと服を洗った。まだ暖かい湯気の中で、その後もラーキスと他愛も無い話をしながら、咲希の心は明るく暖かくなって行った。外気の寒さなど、全く感じなかった。

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