空へ向かう前に
ギルドの会議室に、自転車が運び込まれた。
木枠の窓から入る光が、車輪の縁を淡く照らしている。
エルンストが静かにそれを見下ろした。
「これが、自転車か」
「はい」
私は頷き、できるだけ簡潔に説明する。
二輪であること。
足で漕いで進むこと。
そして、改良したブレーキの仕組み。
エルンストはしゃがみ込み、車輪に触れた。
ゆっくりと回す。
「……摩擦で止めるのか」
「はい。削れやすい部分は交換できるようにしました。力が一点に集中しないよう、少し構造を変えてあります」
アルドが横から覗き込む。
「へえ。これ、普通にすごいね」
珍しく、素直な声だった。
「こんなの街に出たら、景色変わるよ?」
エルンストが小さく頷く。
「移動の概念が変わるかもしれないな。距離の価値が、縮まる」
その言葉に、胸の奥が少し熱くなる。
これは、空に上がるためのものじゃない。
——地面を走るためのものだ。
ルーカスは、黙って全体を見ていた。
一度、私と視線が合う。
「……ちゃんと、止まりそうだな」
それだけ言って、頷く。
短いけれど、一緒に作っていた頃の距離を思い出させる声。
その言葉だけで、背中を押された気になった。
アルドが、思いついたように言う。
「これさ、魔石つけたらもっと速くなるよね?」
私は首を振る。
「木製だと強度が足りないと思います。魔石の出力に耐えるなら、金属製にしないと」
「じゃあ金属にすれば?」
軽い調子。
「加工の術がありません。できるなら、やってみたいですけど」
「ふうん」
アルドはそれ以上追及しなかった。
「時間だ。クレセント商会へ向かおう」
エルンストが立ち上がる。
「馬車を呼ぶ」
「えー、飛んでいけば早いじゃん」
アルドが肩をすくめる。
エルンストが即座に返す。
「フィーネはどうする」
「連れてけばいいでしょ」
軽い声。
一瞬、沈黙が落ちる。
ルーカスが、何か言いかけた。
ほんのわずかに、息を吸う。
けれど。
「私が連れていく」
エルンストが、静かに言った。
「ルーカスはまだ安定していない」
ルーカスは視線を落とすが、反論はしない。
「……はい」
短い返事。
——ルーカス、空を飛べるようになったんだ。
今まで、飛んでいるところは見たことがなかった。
エルンストについて魔法を磨いている成果が、もう出ている。
胸の奥が、少しだけ揺れた。
アルドがにやりと笑う。
「じゃあ俺は自転車持ってくね」
ひょいと軽々持ち上げる。
私は、少しだけ緊張しながらエルンストを見る。
「……よろしくお願いします」
「高くは上がらない。説明するから、落ち着いて聞け」
落ち着いた声。
「私の手を取れ。こちらで支える。魔力の流れに逆らわないこと。怖くなったら言え」
エルンストが私の背後に回る。
差し出された手に、自分の手を重ねる。
大きな手が、しっかりと握り返してくれた。
思わぬ距離に一瞬息が止まる。
けれどエルンストは、淡々と手順を説明し続ける。
その冷静さに、呼吸が整っていく。
「では行く」
足元の空気が揺れた。
ふわり、と体が浮く。
地面が遠ざかる。
石畳が、小さくなる。
思わず、握った手に力が入る。
「大丈夫か」
低い声が、すぐ近くにある。
「……はい」
やはり、怖い。
けれど、それ以上に。
落ちない、とわかる。
腕の支えが、確かだった。
アルドに突然肘を掴まれて連れて行かれた時とは、まるで違う。
ふと、下を見る。
地上に、ルーカスが立っている。
さっきまで、同じ地面にいたのに。
今は、私だけが空にいる。
ルーカスが、こちらを見上げていた。
視線が合った、気がした。
ほんの一瞬。
けれど、ルーカスはすぐに目を逸らした。
風が頬を打ち、景色が流れ出す。
もう、戻れない高さだった。
ただの高さじゃない。
何かが、静かに変わってしまった高さだった。
空を行くエルンストの魔力は、安定していて、どこか温かい。
風の中、クレセント商会の屋根が見えてきた。




