戻る場所
ある日、研究室で記録の整理をしていると、
扉が、静かに開いた。
この部屋の扉が開くことは、珍しい。
私はその音で反射的に顔を上げた。
「エルンストさん」
扉の前に立っていたのは、見慣れた外套。
相変わらず、整いすぎて、隙がない。
「……おかえりなさい」
言ってから、自分で少し驚いた。
自然に、口から出ていた。
エルンストは、一瞬だけ目を瞬かせてから、頷いた。
「ただいま」
それだけで、胸の奥が、ふっと軽くなる。
彼は作業台の横に立ち、部屋を一度見回した。
「……変わっていないな」
「勝手に、実験はできませんから」
「そうだな」
それから、ようやく本題に入るように、彼はこちらを見て言った。
「正式に、研究は認められた」
「……!」
驚きの声が、漏れそうになった。
「中央監査庁の名義で、だ。
今後は、記録も、実験も、止められない」
「……よかった」
思ったより、声に安堵が滲んでいた。
そして、心配になる。
「エルンストさんは、その…大丈夫でしたか?」
「問題ない。上は、現場の話を聞き、判断できる人だったからな」
そう言ってから、私を見る。
「研究員として、君の名前も伝えてある」
私は、少し目を見開いた。
「え?いいんですか?」
「いいも何も、事実だろう」
「一般人の私が、魔石の研究をしてるなんて、よく思わない人もいるんじゃ。…どうやって、通したんですか」
エルンストは少しだけ黙る。
「研究の成果を出した」
「それだけで?」
「それだけではない」
沈黙。
私は続きを待った。
しかし、続きは出てこない。
私は、エルンストを見据える。
「何を、言ったんですか?」
エルンストはわずかに視線を逸らした。
「責任は、私が負う形にした」
私は動きを止めた。
「……それって、例えば私のせいで事故が起きたら、どうなるんですか」
エルンストを見つめるが、目は合わない。
「事故があれば、処分を受けるのは私だ」
さらりと言う。
胸が軋む。
分かっている。
私は魔法使いではない。
魔法使いの世界で、研究の責任を負えるのは彼だけだ。
守られている。
その構図が、悔しい。
そして——
彼にだけ負わせていることが、心苦しい。
「ごめんなさい」
思わず、心の声が漏れた。
彼はほんのわずかに眉を寄せた。
「なぜ謝る」
答えはある。
けれど、それを口にするのは違う気がした。
エルンストは、言葉を探すように一度だけ息を吐いた。
「現時点で最適な形を選んだだけだ」
視線は逸れたままだった。
「ありがとうございます」
今度はきちんと言う。
エルンストは、わずかに目を細める。
「礼を言われることはしていない」
「してます」
ようやく目が合う。
「……評価が甘いな」
エルンストが苦笑する。
そして続ける。
「君をあまり野放しにしておくと、危険に首を突っ込むからな」
「前から思ってましたけど、私、そんなに信用ないですか?」
「それに関しては、ない」
即答だった。
「そんな」
「だが」
彼は、ほんの少しだけ言い直す。
「判断力と根気は信用している。だから余計に危ない」
「褒められてるのか、止められてるのか分かりません」
「両方だ」
その返答が、少し可笑しくて、笑ってしまう。
気づけば、肩の力が抜けていた。
「エルンストさん」
「なんだ」
「戻ってきてくれて、ありがとうございます」
ふと、そう零すと、彼は少し驚いたようにこちらを見た。
「私も、戻る場所があって助かった。」
その言葉が、胸に残った。
戻るべき人が戻ってきた。
それは、安心でもあり、
同時に、嵐の前触れでもあった。




