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静かな始動

 指定された場所は、ギルドの建物のさらに奥だった。

 人の出入りが少ない倉庫区画を抜け、厚い扉の前でエルンストが立ち止まる。


「ここだ」


 鍵を二つ外し、扉を開ける。


 中は、研究室というより作業場に近かった。

 広くはないが、床は石張りで、壁には耐熱の加工が施されている。

 作業台が三つ。

 端には、沈石粉の入った箱と、記録用の帳面が積まれていた。


「始める前に、決めておくことがある」


 エルンストはそう言って、作業台から一歩離れた位置に立った。


「暴走兆候が出た場合の中断ルールだ」


 淡々とした声だったが、内容は重い。


「沈石粉の流れが乱れた場合。魔石が熱を持ち始めた場合。あるいは、違和感を覚えた場合——理由は問わない」


 そこで一度、私を見る。


「検討に参加する誰かが少しでも『おかしい』と感じることが出てきたら、その時点で中断する。

原因の特定、再現、修正は、その場では行わない」


「……はい」


「魔石を止める魔法使いは、常に待機する。

中断の際は君は触らない。近づかない。観察のみだ」


 安全のための線引き。

 曖昧さを残さないための言葉だった。


「次に、今日やることだが——」


 エルンストは、沈石粉の入った小瓶に目を向けた。


「今日は、まず、観察条件を固めたい」


 少し意外だった。だが、同時に納得もした。


「沈石粉や油の量、振りかけ方など、本来なら、これらも検討対象になる。だが、最初は動かさない」


 彼は、私の方を見る。


「君がこれまでやっていたやり方で行い、流れが見えることを確認し、それを最初の観察条件として固定する」


「……いいんですか?」


「現時点で、唯一の基準だ。

変更するのは、記録が揃ってからでいい」


 作業台の上に、問題のない魔具用の魔石が置かれる。

 事故を起こしたものではない。

 まずは、“正常”を知るためのもの。


 静かな石だ。

 だが、その内側には確かに何かがある。

 それを証明できるかどうかは、私次第だ。


 私は、いつものように沈石粉と油を混ぜ、量を測って記録した。


 粉を量る手が、ほんのわずかに震えている。

 怖いのか、期待しているのか、自分でもわからなかった。


 沈石粉を振りかける。

 手の動きも、これまでと同じように。


 粉が、静かに流れを描く。


「記録してくれ」


 私は、流れの形を、頭の中でなぞった。

 速い部分。緩やかな部分。

 石の角で、細く分岐するところ。集まるところ。


 それを、紙に書き写す。


 書いている途中で、ふと気づく。


「流れの速い遅いと、細い太いは何か数値の指標で書けると、わかりやすいと思うんですが…」


 エルンストは顎に手をやって考える。


「そうだな。あとで複数の魔石を見比べて、5段階ほどで指標を作ろう」


 私は頷いた。

 一旦書いたものをエルンストに見せる。


「……これで、いいでしょうか」


 差し出すと、エルンストは一瞥して頷いた。


「同じ魔石で、これを少なくとも3回行う。

『同じ条件で、同じように見える』ことを確認する。」


「はい」


 3回行ったら、別の魔石も順番に確認する。

 ただ、見るだけ。


 それが、こんなにも神経を使う行為だとは思わなかった。


 全部の魔石を一つずつ見終わった後は、それらを並べ、定規で測りながら、流れの速度と太さの指標を作る。

 作った後は、一つ一つ追加で記録していった。


 目の奥が痛んできた。

 時間の感覚が、鈍っている。


「……これで、初日は終わりだ」


 エルンストがそう言ったとき、思っていた以上に肩の力が抜けた。


「観察の条件を決め、複数の魔石の流れの記録をとれた。今日の成果は、これだ。目立たないが、確実に必要な記録だ」


 私は頷いた。研究は急がない。丁寧に確実に。

 片付けを終え、帳面をまとめる。


 地味だ。

 爆発もない。発見もない。


 それでも。


 事故を減らすための一歩は、

 たぶん、こういう地味な記録の上にしか乗らない。


 間違えないために、確実に進んでいこう。

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