表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
はじまりの自転車 〜魔法をもたない少女の発明と研究の記録〜  作者: 甘くないオクラ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

108/108

譲歩と条件

 鏡の中にいるのは、見慣れたはずの自分ではなかった。


「全部用意してもらって、すみません……」


 思わずそうこぼして、後ろに立つクララを振り返る。


 クララは、軽く笑った。


「いいのよ。化粧も服も、女の鎧なんだから」


 さらりと言う。


「今日は、勝ちに行くわよ」


 その声音は柔らかいのに、揺るぎがない。

 静かに刃を隠しているようだった。


 ——戦う気だ。


 今日は、領主との食事の日だ。


 約束の時間よりだいぶ早く商会に来て、こうして準備を整えてもらっていた。


 クララは私の姿を眺めて、肩をすくめる。


「それにしても……うちの侍女たち、やりすぎね。少し目を引きすぎるくらいだわ」


「そんな……」


 ルーカスとのデートのときと違い、今回はしっかり化粧を施してもらっている。


「不思議です。自分なのに、自分じゃないみたいで」


「それが、新しいあなたよ」


 クララが私の肩に手を置く。


「今は違和感があるだけ。そのうち、それも“あなた”になる」


 ——新しい、私。


 その言葉が、胸に静かに落ちた。


 逃げる理由にはならない。

 むしろ——背を押される。


 視線を上げる。


 もう一度、鏡の中の自分を見る。


 少なくとも、弱そうには見えなかった。




 領主邸の食堂は、静まり返っていた。


 広い空間。

 整えられた調度品。

 無駄のない、落ち着いた豪奢さ。


 そして——


「よく来てくれた」


 低く、よく通る声だった。


 この街の領主が、穏やかな表情で迎える。


 年は父より少し上だろうか。

 整えられた口髭と、隙のない立ち姿。

 威厳のある外見とは裏腹に、その物腰は柔らかい。


「こちらこそ、お招きいただき光栄です」


 クララがいつも通りに応じる。


 私は、その隣で一礼した。


「君が、製作者のフィーネだね」


「……はい」


 視線が向けられる。


 それだけで、空気がわずかに重くなった気がした。


「若いお嬢さんが自転車を作ったと聞いて、驚いたよ」


 穏やかな声。


 だが、その奥で測られているような感覚が消えない。


「息子のレオンと学友だったとか。聡明なお嬢さんだと聞いている」


 ——本当に?


 あのレオンが、そんなふうに言うだろうか。


 内心で小さく首を傾げた、その時。


「失礼します」


 扉が開いた。


「遅くなりました、父上」


 レオンだった。


 王都で別れて以来の姿。

 今日はきちんとした正装で、隙のない所作をしている。


 レオンはクララへ向き直り、丁寧に頭を下げる。


「先日は世話になりました。自転車も、大変満足しています」


「いいえ、こちらこそ。ご利用ありがとうございます」


 そして、私へ視線を向ける。


 一瞬だけ、その目が見開かれた。

 けれどすぐに整えられ、淡く微笑む。


「久しぶりだな、フィーネ」


「……はい。この前は、途中で失礼しました」


「ああ、問題ない」


 短くそれだけ言って、レオンはふい、と私から顔を逸らす。


 相変わらずだな、とだけ思った。



 食事が始まる。


 会話は穏やかで、当たり障りのないものだった。


 けれど——


「自転車、評判がいいようだね。ここだけでなく、王都でも広まり始めていると聞いた」


 領主が、自然な流れで話題を変えた。


「ええ、おかげさまで」


 クララが応じる。


「製作者のフィーネも、商会も、この街が拠点だろう?」


「そうですわね」


 領主はゆっくり頷いた。


「そこで、一つ提案なのだが」


 ——来た。


 自然と、意識が研ぎ澄まされる。


「自転車を、この街の特産にしたいと考えている」


 一拍置いて、続ける。


「この街で生産し、各地へ流す形にしたい。

 雇用も増え、税も潤う。街全体にとって利益となる話だ」


 理にかなった話だった。

 ——少なくとも、この街にとっては。


「……以前、この街のギルドで生産のご相談はさせていただきました」


 クララが、静かに口を開く。


「ですが、その時はお断りされています」


「状況は変わるものだ」


 領主は、あっさりと言う。


「ギルドには、こちらから話を通そう」


 表情を変えずに続けた。


 クララは、少し間を置く。


「王都の工房とは、すでに契約目前です」


 はっきりと言い切る。


「そちらを覆すのは、難しいかと」


「損失額は補填しよう」


 即座に返る。


 だがクララは、首を横に振った。


「問題はお金ではありません」


「なにかな?」


「信用です。この段階で契約を反故にすれば、今後の取引に影響が出ます」


 領主は、少しだけ目を細めた。


「……なるほど」


 短く頷く。


 そして——


「では、その工房は認めよう」


 あっさりと譲る。

 一瞬、空気が緩む。


 けれど。


「だが、それ以上は増やさない。主軸はこの街に置く」


 すぐに条件を重ねる。


「この街で生産と輸出を担うのであれば、商会にも製作者にも補助を出そう。全面的に支援する」


 逃げ道を残したまま、囲い込む提案。


 クララは、沈黙した。


 迷っている、というより——計算している。


「……条件としては、魅力的ではありますわね」


 ゆっくりと言う。


「ですが、私としては販路を広げていきたいと考えております。

 一つの街に主軸を固定するのは、少々リスクが大きいかと」


 はっきりと拒否ではない。

 だが、踏み込ませない。


 領主の視線が、わずかに細くなる。


「売る商会は、君のところでなくてもいい」


 何気ない口調で。


 初めて、話の角度が変わった。

 

「製作者が許可すれば、他でも扱える」


 空気が、変わる。


 背筋に、冷たいものが走った。


 クララは微笑みを崩さない。


 だが、ほんの一瞬、言葉が途切れる。


「……私は、クララさんに優先的に売る契約を結んでいます」


 どうにか言葉を返す。


 領主は、わずかに口元を緩めた。


「契約、か」


 柔らかな声音。


 けれど、その奥に揺るがないものがある。


「だが——」


 ほんのわずか、間を置く。


「もし君が、この街に住めなくなった場合でも、同じことが言えるかな?」


 思考が、一瞬止まる。


 言い方は、柔らかいまま。

 けれど、選択肢だけが削られた。


 喉が、うまく動かない。


「……それでも、変えるつもりはありません」


 絞り出す。


 そう言ったものの、自分の中で答えが定まりきっていないことも、わかっていた。


 領主の目が、わずかに細くなる。


「今は、そうだろうね」


 静かに続ける。


「だが君は、この街で生まれ育った。大切な人も多いはずだ」


 ——大切な、人。


「その人たちに影響が出たとしても——」


 逃げ場がない。


「それでも、変えないと言えるかな?」


 言葉が、出ない。


 頭の中に、いくつもの顔が浮かぶ。


 父。母。エミール。

 ルーカスたち。


 もし——


「……っ」


 呼吸が浅くなる。


 その時。


「父上」


 静かな声が、割って入る。


 レオンだった。


「その言い方は、少々強引ではありませんか」


 一拍置いて、続ける。


「フィーネは感情で判断する人間ではありません。

 ……考えた上で、最善を選べる人です」


 助けられた、のかもしれない。

 よくわからなかった。


 だが——


「商会主も同様でしょう。自転車の価値を見抜き、ここまで広めた人物だ。

 条件次第で、最適な選択は理解できるはずです」


 流れがほんの少し、揺らいだのを感じた。


 クララが、静かに口を開いた。


「領主の提案、お受けいたします」


 空気が止まる。


「ただ、先ほど認めていただいた通り、王都の工房はそのまま進めさせていただきます」


 領主は、わずかに間を置いたあと——


「……いいだろう」


 ゆっくり頷いた。


 そうして、話は決まった。


 ——けれど、それで良かったのか。


 私には、まだわからなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ