譲歩と条件
鏡の中にいるのは、見慣れたはずの自分ではなかった。
「全部用意してもらって、すみません……」
思わずそうこぼして、後ろに立つクララを振り返る。
クララは、軽く笑った。
「いいのよ。化粧も服も、女の鎧なんだから」
さらりと言う。
「今日は、勝ちに行くわよ」
その声音は柔らかいのに、揺るぎがない。
静かに刃を隠しているようだった。
——戦う気だ。
今日は、領主との食事の日だ。
約束の時間よりだいぶ早く商会に来て、こうして準備を整えてもらっていた。
クララは私の姿を眺めて、肩をすくめる。
「それにしても……うちの侍女たち、やりすぎね。少し目を引きすぎるくらいだわ」
「そんな……」
ルーカスとのデートのときと違い、今回はしっかり化粧を施してもらっている。
「不思議です。自分なのに、自分じゃないみたいで」
「それが、新しいあなたよ」
クララが私の肩に手を置く。
「今は違和感があるだけ。そのうち、それも“あなた”になる」
——新しい、私。
その言葉が、胸に静かに落ちた。
逃げる理由にはならない。
むしろ——背を押される。
視線を上げる。
もう一度、鏡の中の自分を見る。
少なくとも、弱そうには見えなかった。
⸻
領主邸の食堂は、静まり返っていた。
広い空間。
整えられた調度品。
無駄のない、落ち着いた豪奢さ。
そして——
「よく来てくれた」
低く、よく通る声だった。
この街の領主が、穏やかな表情で迎える。
年は父より少し上だろうか。
整えられた口髭と、隙のない立ち姿。
威厳のある外見とは裏腹に、その物腰は柔らかい。
「こちらこそ、お招きいただき光栄です」
クララがいつも通りに応じる。
私は、その隣で一礼した。
「君が、製作者のフィーネだね」
「……はい」
視線が向けられる。
それだけで、空気がわずかに重くなった気がした。
「若いお嬢さんが自転車を作ったと聞いて、驚いたよ」
穏やかな声。
だが、その奥で測られているような感覚が消えない。
「息子のレオンと学友だったとか。聡明なお嬢さんだと聞いている」
——本当に?
あのレオンが、そんなふうに言うだろうか。
内心で小さく首を傾げた、その時。
「失礼します」
扉が開いた。
「遅くなりました、父上」
レオンだった。
王都で別れて以来の姿。
今日はきちんとした正装で、隙のない所作をしている。
レオンはクララへ向き直り、丁寧に頭を下げる。
「先日は世話になりました。自転車も、大変満足しています」
「いいえ、こちらこそ。ご利用ありがとうございます」
そして、私へ視線を向ける。
一瞬だけ、その目が見開かれた。
けれどすぐに整えられ、淡く微笑む。
「久しぶりだな、フィーネ」
「……はい。この前は、途中で失礼しました」
「ああ、問題ない」
短くそれだけ言って、レオンはふい、と私から顔を逸らす。
相変わらずだな、とだけ思った。
⸻
食事が始まる。
会話は穏やかで、当たり障りのないものだった。
けれど——
「自転車、評判がいいようだね。ここだけでなく、王都でも広まり始めていると聞いた」
領主が、自然な流れで話題を変えた。
「ええ、おかげさまで」
クララが応じる。
「製作者のフィーネも、商会も、この街が拠点だろう?」
「そうですわね」
領主はゆっくり頷いた。
「そこで、一つ提案なのだが」
——来た。
自然と、意識が研ぎ澄まされる。
「自転車を、この街の特産にしたいと考えている」
一拍置いて、続ける。
「この街で生産し、各地へ流す形にしたい。
雇用も増え、税も潤う。街全体にとって利益となる話だ」
理にかなった話だった。
——少なくとも、この街にとっては。
「……以前、この街のギルドで生産のご相談はさせていただきました」
クララが、静かに口を開く。
「ですが、その時はお断りされています」
「状況は変わるものだ」
領主は、あっさりと言う。
「ギルドには、こちらから話を通そう」
表情を変えずに続けた。
クララは、少し間を置く。
「王都の工房とは、すでに契約目前です」
はっきりと言い切る。
「そちらを覆すのは、難しいかと」
「損失額は補填しよう」
即座に返る。
だがクララは、首を横に振った。
「問題はお金ではありません」
「なにかな?」
「信用です。この段階で契約を反故にすれば、今後の取引に影響が出ます」
領主は、少しだけ目を細めた。
「……なるほど」
短く頷く。
そして——
「では、その工房は認めよう」
あっさりと譲る。
一瞬、空気が緩む。
けれど。
「だが、それ以上は増やさない。主軸はこの街に置く」
すぐに条件を重ねる。
「この街で生産と輸出を担うのであれば、商会にも製作者にも補助を出そう。全面的に支援する」
逃げ道を残したまま、囲い込む提案。
クララは、沈黙した。
迷っている、というより——計算している。
「……条件としては、魅力的ではありますわね」
ゆっくりと言う。
「ですが、私としては販路を広げていきたいと考えております。
一つの街に主軸を固定するのは、少々リスクが大きいかと」
はっきりと拒否ではない。
だが、踏み込ませない。
領主の視線が、わずかに細くなる。
「売る商会は、君のところでなくてもいい」
何気ない口調で。
初めて、話の角度が変わった。
「製作者が許可すれば、他でも扱える」
空気が、変わる。
背筋に、冷たいものが走った。
クララは微笑みを崩さない。
だが、ほんの一瞬、言葉が途切れる。
「……私は、クララさんに優先的に売る契約を結んでいます」
どうにか言葉を返す。
領主は、わずかに口元を緩めた。
「契約、か」
柔らかな声音。
けれど、その奥に揺るがないものがある。
「だが——」
ほんのわずか、間を置く。
「もし君が、この街に住めなくなった場合でも、同じことが言えるかな?」
思考が、一瞬止まる。
言い方は、柔らかいまま。
けれど、選択肢だけが削られた。
喉が、うまく動かない。
「……それでも、変えるつもりはありません」
絞り出す。
そう言ったものの、自分の中で答えが定まりきっていないことも、わかっていた。
領主の目が、わずかに細くなる。
「今は、そうだろうね」
静かに続ける。
「だが君は、この街で生まれ育った。大切な人も多いはずだ」
——大切な、人。
「その人たちに影響が出たとしても——」
逃げ場がない。
「それでも、変えないと言えるかな?」
言葉が、出ない。
頭の中に、いくつもの顔が浮かぶ。
父。母。エミール。
ルーカスたち。
もし——
「……っ」
呼吸が浅くなる。
その時。
「父上」
静かな声が、割って入る。
レオンだった。
「その言い方は、少々強引ではありませんか」
一拍置いて、続ける。
「フィーネは感情で判断する人間ではありません。
……考えた上で、最善を選べる人です」
助けられた、のかもしれない。
よくわからなかった。
だが——
「商会主も同様でしょう。自転車の価値を見抜き、ここまで広めた人物だ。
条件次第で、最適な選択は理解できるはずです」
流れがほんの少し、揺らいだのを感じた。
クララが、静かに口を開いた。
「領主の提案、お受けいたします」
空気が止まる。
「ただ、先ほど認めていただいた通り、王都の工房はそのまま進めさせていただきます」
領主は、わずかに間を置いたあと——
「……いいだろう」
ゆっくり頷いた。
そうして、話は決まった。
——けれど、それで良かったのか。
私には、まだわからなかった。




