4.夢のような場所
晴臣の屋敷は、立派な周囲の建物よりさらに美しい、とびきり見事な洋館だった。
表の通りの喧騒が嘘のように、敷地の中は静かだった。生垣の木々や庭の大樹が、音を吸い取っているのかもしれない。
手入れが行き届いているのだろう、しっくいが塗られた外壁は目を見張るほどに白い。屋根の青と木々の緑が、よく映えている。
東藤の屋敷の周辺には、もっと古い和風の建物しかない。洋館をこんなに間近で目にしたのは、初めてだった。
「見た目は少しばかり仰々しいが、居心地のいい場所だ。きっと君も気に入ってくれると思う」
気後れして立ち尽くすわたしに、晴臣が自信たっぷりにささやきかけてきた。それから、運転手のほうを指し示す。
「紅子、彼は矢野雅明。ここの執事のまとめ役だ」
少し離れたところに立っていた運転手が、うやうやしく一礼する。髪を後ろに流して丁寧になでつけた壮年の男性だ。
穏やかで信頼できそうな笑みを浮かべ、ぴしりと音がしそうなくらいに背筋を伸ばしている。仕立てのいい黒い服と白いシャツは、執事のお仕着せだろうか。
「矢野。彼女は東藤紅子、ようやく見つけた、僕の……大切な女性だ」
晴臣がわたしの肩に手を置き、さりげなく引き寄せながら、切なげな声で矢野さんに告げた。その言葉と声音に、わたしのほうが動揺してしまう。
大切な女性。その言い回しは、以前のわたしたちの関係からすると間違ってはいない。けれど今の彼がそんなことを言ったら、勘違いされてしまいそうな気もする。
矢野さんも驚いたのかわずかに目を見開いていたけれど、すぐに元の礼儀正しい表情に戻ってしまった。
「お初にお目にかかります、紅子様。どうぞ今後とも、よろしくお願いいたします」
「は、はい、よろしくお願いします……」
そうして彼は、優雅に一礼してきた。晴臣は少しも動じることなく、さらに声をかけている。
「今晩、彼女をここに泊める。夕食と、部屋の用意をしてくれ」
「承りました。紅子様のお部屋は、どちらにいたしましょう?」
「ああ、離れの空き部屋を使ってもらうつもりだ」
すると矢野さんは、今度こそはっきりと目を見張った。わたしを見つめたまま、固まっている。
「……失礼いたしました。それでは、中へどうぞ」
けれどまたしても、彼はすぐに元の態度に戻ってしまう。手慣れた動きで屋敷の扉を開けると、うやうやしく頭を下げてくる。
晴臣に手を引かれ、屋敷の中に足を踏み入れた。そうして、もう一度ため息をついた。美しい屋敷は、中もとっても美しかったのだ。
広い吹き抜けの玄関ホールには、大きな窓がいくつも並んでいた。そこから差し込む光が、天井から下がったシャンデリアをきらきらと輝かせている。
真っ白なしっくいを盛り上げて模様を作った壁、細かく切った木をはめ込んで複雑な模様を描き出した床、二階に向かって伸びる優美な木の階段。
みな、生まれて初めて見るものばかりだった。前に貸本屋で見かけた本に描かれていた、西洋の城に似ている。でもこちらのほうが、遥かに素敵だ。
言葉も忘れて見とれていると、矢野さんが会釈してそっと立ち去っていった。
彼がいなくなり、ふたりきりになったとたん、晴臣が声をかけてくる。
「貴女のお気に召したようで、よかったです」
「え、ええ。素敵な屋敷ね」
「ふふっ、そうでしょう。僕のお気に入りの屋敷です。……いえ、これからは貴女の屋敷にもなるといいなと、そう思っています」
「わたしの屋敷、って……どういうこと?」
「言葉どおりの意味ですよ。最初は、とにかく貴女を保護しなくてはと、そのことしか頭になかったんです。でもこうして貴女をここに連れてきたら、二度と帰したくないと思えてしまいました」
明らかに浮かれた口調で、晴臣は歌うようにささやいてくる。
「どうぞお好きなだけ、滞在してくださいね。見てのとおりこの家は裕福ですから、貴女に不便な思いはさせません。もちろん、貴女の家にも使いをやって、事情を説明させますから」
わたしが男爵家の世話になると聞いたら、吉野や千代がどんな反応をするだろうか。考えることすら恐ろしくはあったけれど、さすがにここに乗り込んできて大暴れするようなことはないだろう。……たぶん。
「だったら、しばらくお世話になってもいい……? その、これからの身の振り方も考えたいし」
なんの気なしにつぶやくと、彼はぐっと眉をひそめてしまった。
「身の振り方、ですか? そんなことを気になさらずともいいのに。ずっとここにいれば、それでいいでしょう」
「そういうわけにもいかないわ。わたし、独り立ちしたいと思っていたのだし」
「遠慮なんていりませんよ。貴女のためなら、なんでもしますから」
堂々と胸を張る彼を、苦笑しながら見つめ返す。その拍子に、ふと思い立つ。やっとふたりきりになれたのだから、あのことを尋ねてみよう。
「ねえ、晴臣……ひとつ、聞いてもいいかしら」
「もちろんです。何でしょう?」
「その、前世の……陽炎だったわたしのこと、なのだけれど。わたしは、何かやり残しては、いなかった……?」
おずおずと切り出すと、晴臣の顔がわずかにこわばった。けれどすぐに、彼はにっこりと笑う。
「いいえ。貴女は立派に任をまっとうされました。最後まで貴女にお仕えできたことは、僕の誇りです」
自信たっぷりな彼の言葉に、心が揺らぐ。では、先ほど思い出したと思っていた記憶は、胸を引き裂くような無念さは、わたしの勘違いか何かなのだろうか。
いいえ、そんなはずはない。でも、だったらどうして……。
わたしが考え込んでいるのを見て取ったのだろう、晴臣が心配そうに顔をのぞき込んできた。
「あの、紅子様。何か事情があるようですが、僕でよければ話を聞きますよ」
子狐だったころと変わらない優しくて穏やかな声に、胸がじんとする。気がついたら、ひとりでに弱音を吐いていた。
「……わたしは、周りを不幸にするの。だから自分がそんな存在ではないって、証明したかったのよ。自分が自分として生まれてきたことに意味があるのだと、そう思いたかった」
「おかしなことをおっしゃるのですね」
きっと彼は、わたしが何について話しているのか分からなかっただろう。それでも彼は、 すぐにわたしの言葉を打ち消してしまった。
「貴女がここにいてくれれば、それだけで僕はとても幸せです。ほら、貴女は僕を不幸になんてしていない。逆に、幸せにしてくれているんですよ?」
「そ、そうね……」
晴臣が言いたいことも分かるけれど、やはり納得はできなかった。
今のわたしは、晴臣を幸せにすることはできるのかもしれない。けれどそれだけでは、両親を不幸にしてしまったという負い目は消えないままだ。
「紅子様。どうやら、貴女は疲れているみたいですね。ひとまずここで羽を休めながら、ゆっくりと考えるというのはどうですか?」
唇をかみしめていたら、晴臣が優しく微笑みながら提案してきた。けれどすぐに、その表情がいたずらっぽいものに変わる。
「……もっとも、今の僕なら、力ずくで貴女をここに留めることもできそうですが。腕力も権力もありますし」
「ええっと、本気……なの?」
「はい。僕は本気ですよ」
笑いを含んでいるのにやけに色っぽい声に、つい苦笑してしまう。さっきまでの重たい気分が、少し薄れていくのを感じていた。
「もう、以前のあなたはあんなに小さくて可愛かったのに……」
「今は、僕のほうが貴女よりも大きいですね。とても、新鮮な感覚です」
「そもそもあなたは、姿も何もまるで違うわ」
「でも貴女は、この僕が山吹なのだとすぐに気づいてくれた。嬉しかったですよ」
そう言いながら、彼は泣きそうな笑みを浮かべた。表情も雰囲気も、本当にころころとよく変わる。見ていて飽きない。
「さあ、こんなところで立ち話もなんですし、屋敷を案内しましょう」
わたしの手を引いて、晴臣は軽い足取りで屋敷の奥に向かっていく。こつん、こつんと、靴音が響いていった。
「……今度こそ、貴女を守りますから」
足音にまぎれて、ふと、押し殺したような声が聞こえた。




