3.一転する世界
東藤の家でわたしが虐げられているのだと察した山吹……晴臣は、若干物騒な笑みを浮かべた。
彼はわたしの手を引いて近くの通りへと連れていくと、そこで待っていた車の後ろの座席に、わたしを押し込んだのだ。そうして自分も、隣に腰を下ろした。
わたしと山吹を乗せて、車は走っている。東藤の屋敷があるのとは、まるで別のほうへ。
「初めて乗りましたが、車とは面白いものなのですね……」
がたごとという小刻みな揺れが、革の座面越しに伝わってくる。窓の外の風景が、驚くほど速く流れ去っていく。川を流れる小舟をどことなく思わせる、けれどまるで違う乗り心地だ。
家々、店、看板、道を行く人々。次々と現れては消えていくそれらをせっせと目で追っていたら、隣の晴臣が静かに言った。
「……車が気に入ったのなら、いくらでも乗せてやれるが。これは、僕の家の車だ」
彼の面差しや口調からは、先ほどまでの柔和な雰囲気は消えていた。代わりに、とても落ち着いた、重々しく優雅な雰囲気が漂っている。
その変わりように、ぽかんとしてしまう。思いっきり声をひそめて、彼の耳元でささやきかけた。
「……山吹、口調がさっきと違うわ」
すると彼も、かすかな声でささやき返してきた。その顔には、さっきまでの優しい笑みが浮かんでいる。またしてもくるりと変わった態度に、さらに目を丸くする。
「すみません。晴臣としての僕は、ずっとああいう感じで通してきたので……橘花家の当主としての体裁もありますし。もっとも、貴女がお嫌なのであれば改めますよ」
「別に、嫌ではないの。ただちょっと驚いただけで。以前のあなたとはまるで違うから、とまどってしまって」
「以前の僕、ですか。そういえば陽炎様は、どれくらいかつてのことを思い出されたのですか?」
「ほんの少し……日々戦っていたことと、いつもあなたがそばにいてくれたことだけ」
「そうですか。僕のことを思い出してもらえたことが、この上なく嬉しいです」
たったそれだけのことを手放しで喜んでいる山吹は、子狐のころと何も変わらなかった。懐かしさとくすぐったさを覚えながら、ふと気づいたことを提案してみる。
「ところで、わたしたちはこうして生まれ変わったのだし、今の名前で呼び合うべきだと思うの。陽炎様って呼ばれるのも、懐かしくはあるけれど」
「ええ、分かりました、紅子様」
「……本当は、様を外して、呼び捨てにしてもらったほうがいいと思う」
彼は男爵家の当主で、わたしは士族の娘。どう考えても、彼がわたしを様付けで呼ぶのはおかしい。
「いえ、そこについては譲れません。人前ならともかく、ふたりだけのときは紅子様と呼ばせてもらいますから」
しかし彼は、にっこりと笑って却下してしまう。
「ここには、運転手の方がいるのに?」
「この騒音です、聞こえていませんよ」
彼の言うとおり、車の中はとても騒がしい。それにわたしたちは顔を寄せ合ってひそひそと話しているから、前にいる運転手には、話の内容は分からないだろう。
でも、ころころと変わる晴臣の表情と態度までは、ごまかせないような気がする。今さらながらに気になって、ちらりと前に視線をやった。
ここからだと、運転手の後頭部や腕しか見えない。そのことにほっとしていたら、前のガラスに一瞬彼の顔が映った。
運転手は、目を細めていた。微笑ましくてたまらないといったような表情だ。どうやら、ガラスにはわたしたちの様子も映っていたらしい。
急に、顔が熱くなるのを感じた。ごまかすようにぱっと目をそらして、とっさに晴臣に尋ねる。
「……ところで、この車はどこに向かっているの?」
「僕の屋敷です」
うっすらと予想していたとおりの答えが返ってきた。苦笑するわたしを見つめて、彼は顔を引き締めた。
「どのような事情があるのかは知りませんが、貴女が夕食抜きにされるのを黙って見過ごすわけにはいきません」
「それなら、東藤の屋敷まで送ってくれれば……」
「嫌です。帰しません。そこは、貴女にとってよい場所ではないのでしょう? 僕は、貴女を守りたいんです。僕はそのために存在しているのですから」
「あなたのそういうところ、変わらないのね」
前世のわたしがまだ子どもで、陰陽師の見習いだったころ、師匠に連れられて入った山の中で、大地の気が濃く集まっているのを見つけた。
わたしは覚えたての術で、その気の塊を練り上げ、名を与えて式神とした。それが、かつての彼、山吹だ。
片手で軽々とつかめてしまうくらいに小さな子狐の彼は、ずっとわたしと一緒にいてくれた。何事にも一生懸命で、ちょっと気が弱かったけれど、いつもわたしのことを大切に思っていてくれた。
わたしが戦い、傷つくたびに、彼は傷の手当てをしてくれていた。いつか、陽炎様を守れるくらいに強くなりますからと、口癖のようにつぶやきながら。
あの悲しそうな金色のまなざしを思い出したそのとき、ふっと意識が遠くに飛んだ。
どこかの森の中、わたしは地面に倒れていた。
悲鳴のような声で、必死に呼びかけてくる子狐の姿が見える。頬に触れる湿った土の感触が嫌でたまらないけれど、体が重くて指一本動かせない。少しずつ、視界がかすんでくる。
すぐに、理解した。これは前世のわたしの、最期の記憶だ。あのときわたしは、何か大きな心残りがあって……このままでは死ねないと、そう思っていて……。
そうだ、わたしには何か、やり残したことがあったんだ。きっとそのために、わたしはこの姿で、赤い左目を持って生まれてきたんだ。
根拠なんて、どこにもない。けれどわたしには、それが真実なのだと思えてならなかった。
心臓が、早鐘のように乱れ打っている。
今のわたしがこの姿で生まれてきたことに、意味があったのだとしたら。わたしはただ両親を不幸にしただけの存在ではなかったと、証明できるかもしれない。ずっと胸に巣くっていた負い目を、少しだけでも和らげることができるのかもしれない。
「どうしました、紅子様?」
晴臣の声に、我に返る。まだ春先だというのに、いつの間にかうっすらと汗をかいていた。
呼吸を整えながら、さっきの考えを整理する。あとで、晴臣に相談してみようか。さすがにこんなことを、聞こえていないとはいえ誰かがいるところで話せはしない。
「いえ、ちょっと考え事をしていて」
ひとまずそう言ってごまかすと、晴臣は心配そうに眉を下げた。
「安心してください。貴女が快適に過ごせるよう、力を尽くしますから」
どうやら彼は、わたしが知らない場所に連れていかれることを不安がっているのだと、そう勘違いしているらしい。心配性なところも、変わっていない。
「ええ、ありがとう」
礼を言いながら、こっそりと苦笑する。
彼の勢いに押されて、橘花の屋敷に向かうことになってしまった。そのこと自体に、不安を感じてはいない。わたしを守ると晴臣が言ってくれているのだから。
ただ、わたしが突然外泊したら、吉野や千代はどう思うだろうか。東藤の離れに戻ってから、嫌がらせがひどくなりそうな気がする。
だったら、しばらく晴臣のもとに置いてもらえるよう、頼んでみようか。いっそ、このまま東藤の家に戻らないという選択肢もあるかもしれない。……というより、晴臣のほうは最初からそのつもりでいるような、そんな気もするけれど。
いつまでも世話になるわけにはいかないけれど、東藤の家から離れられれば、幸せになる方法を探すのもはかどるだろう。それに、前世の記憶についても、じっくりと調べてみたいし。
母を亡くしてから初めて、ひと筋の希望が見えてきたような気がした。
小声であれこれと話している間にも、窓の外の風景はどんどん移り変わっていた。
通りに面した建物はどんどん大きく、立派なものになっていく。見慣れない石造りの建物の数々に、目を奪われる。
道行く人たちも増えてきたし、その身なりもより華やかだ。東藤の屋敷がある辺りより、ずっと栄えていた。
やがて、車が大きな門の前で停まる。金属の棒を何本も組み合わせて作られた扉が、門にはめ込まれていた。つる草を思わせる装飾が施されていて、とても優美な雰囲気だ。
「着いたぞ。ほら、手を」
運転手がドアを開けると同時に、晴臣が手を差し伸べてくる。彼はまたしても、悠然とした態度に戻っていた。その見事な変わりように、くすりと笑ってしまう。
彼の手を取って、車から降りた。開いた門を通って、敷地の中に入る。
そこにたたずんでいた屋敷の姿に、思わず見とれてしまった。




