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33.新たな日常

 こうして、元通りの穏やかな日常が戻ってきた。


 矢野さんにこっぴどく叱られたらしい文子さんは、それでもまだあの日の事情を知りたがっていた。


 けれど東藤とうどうの家の変事が知れ渡るにつれて、彼女は彼女なりにこれ以上追及してはいけないのだと悟ったらしく、じきに何も言わなくなった。


 それはいいのだけれど、今度は心配するような目をこちらに向けてくるようになってしまった。もっとも彼女は純粋に気遣ってくれているだけのようなので、特につつかないことにする。


 やがて、東藤の屋敷周辺の被害、その詳細も明らかになってきた。


 東藤の屋敷は、もう建て直しようがなかった。それは当然だろう、あの屋敷のほとんどはがれきとなって、深い泉の底に沈んでしまったのだから。


 牧場はあちこちぬかるんでしまったけれど、土地自体は無事だった。だが牛たちが驚いて逃げてしまい、半分も見つけられなかった。しかも使用人たちがすっかりおそれをなしてしまい、牧場に戻ることを拒んでいるらしい。


 しかし離れだけは唯一、無事な姿で残っていたのだとか。母との思い出の場所が残ったことは、とても嬉しかった。


 屋敷も財産も失った父、一智かずともは思うところがあったのか、吉野と離縁した。そうして父は、あの離れでひとり暮らしているのだそうだ。


 そういったあれこれを、わたしは父からの手紙で知った。


 あの日、父には別れを告げたし、もうこのまま東藤の家との縁は本当に切れてしまうのだろうとは思っていたから、手紙が来たことは意外でしかなかった。


 けれどそんなとまどいも、手紙につづられた前向きで力強い言葉に、すぐにかき消されていく。


『私は、あきらめてはいない。またここから、牧場を立て直してみせる、ひながいたこの地を守るために』


 父の手紙は、そんな言葉で締めくくられていた。




 千代と吉野のその後については、意外な相手の口から知ることになった。


「……お姉様、お久しぶりです」


 あの騒動からしばらくして、落ち着いた着物姿の千代が、たったひとりで橘花たちばなの屋敷を訪ねてきたのだ。かつて傲慢ではあるものの表情豊かだった彼女は、別人のように落ち着き……いや、しおれていた。


 母屋の応接間に通したら、彼女は暗い表情であの騒動の顛末てんまつを話し始めた。


 離縁された吉野は、また芸者に戻った。もう一度、もっと豊かな身請け先を探すのだと息まいているらしい。水虎にとりつかれたにもかかわらず、今はもうすっかり元気そのものなのだとか。


 けれど、東藤の家を出た使用人たちの口から、吉野の横暴なふるまいがすっかり知れ渡ってしまったし、あの騒動の日に、彼女のおかしな言動を遠目に見ていた者もいた。彼女の化けの皮は、もうすっかりはがれてしまっていたのだ。


 そんなこともあって、吉野を妻にと望む者はそうそういないだろうと、千代は寂しげに話していた。


 そして千代は、婚約者である佐々塚様のところで暮らしているのだそうだ。あんなことになったにもかかわらず、縁談は破談にはならなかったらしい。たくさんのものを失った千代に、佐々塚様が情けをかけたということなのだろうか。


「状況については、理解した。しかしなぜわざわざ、ここを訪ねてきたのだろうか」


 千代の話をひととおり聞き終えた晴臣が、あからさまに不機嫌な声で問いかける。


「ここには、気味の悪い目の持ち主がふたりもいるというのに」


 彼は青眼鏡をずらして、金色の目で千代を見すえている。以前通りで出くわしたときに、彼女と吉野がわたしのことを露骨に軽んじていたことを、彼はまだ許していないらしい。


 その鋭い視線を受けた千代が、座ったまま身を縮める。以前の彼女からは想像もつかない様子だ。


「……これまでのことを、謝りたかったんです」


「え!?」


 これ以上何が来ても驚かないぞと思っていたのに、彼女の口から飛び出した言葉に、驚きの声を上げそうになってしまった。だって、謝罪、って。


 とっさに口を押さえて晴臣を見ると、彼もまた目を真ん丸にしていた。


 わたしたちの様子がおかしいことには気づかないまま、千代はぼそぼそと語り続けている。


「佐々塚の家で、わたくしは孤立しているんです。婚約者である嗣義つぐよし様とも、最近では中々お会いすることができなくて……」


 嗣義様というのが、あの日東藤の屋敷に駆けつけてきた男性だろう。おっとりとして人のよさそうな男性に見えたのに、さてどうしてそんなことになっているのか。


「嗣義様のお祖母様に、嫌われてしまったんです。『おかしな家の娘を、伝統ある我が佐々塚に迎えること自体反対なのです』と、ことあるごとにそう言われてしまいますの」


 なるほど、理解できた。……しかしどこかで、聞いたことのあるようなないような状況だ。ああそうだ、前に吉野が晴臣に似たようなことを言っていた。


「こんな立場になって、ようやく分かりました。東藤の家で、お姉様がどれほど肩身の狭い思いをしていらしたのか」


 しょげている千代に、晴臣が容赦なく言葉を投げかける。


「君には、少々想像力が欠けていたようだな。気づくのが遅い」


 さすがに大人げないと止めようとしたとき、千代がそっと顔を上げた。


「ええ。わたくしも、今さら甘ったれたことを言っているなとは思いますわ」


 そうして彼女は、わたしをまっすぐに見つめてくる。そのまなざしからは、以前のおごりたかぶったような色は消えていた。まるで、憑き物が落ちたかのようだった。


「それでも、謝罪させてください。わたくし、お母様の言うことをうのみにして……何がなんでもお姉様に勝たなくてはと、そう必死になっていたんです」


「……吉野さんは、そんなことを?」


「はい。東藤の跡取り娘はお前なのだから、そのことを紅子に思い知らせてやりなさいって、お母様はいつもそうおっしゃっていたの」


 かつての彼女は、いつもあれこれと恵まれたところを見せつけてきていた。ちょっとわざとらしいくらいだった。そのくせ、しばらくするとするりといなくなってしまう。だから吉野より、ずっとあしらいやすいと思っていた。


 その裏に、こんな事情があったのか。ただ、それが分かったところで、すぐに納得できないのも事実だった。


「今のわたくしの苦境は、これまでの行いのばちが当たったのかもしれませんわね。償いになるなんて、思いませんが……ごめんなさい」


 千代はどうにかこうにかそう口にして、そのままうつむいてしまった。すっかり小さくなってしまった姿を見ていたら、自然と言葉がこぼれ出た。


「……頑張って。いつか、辛いことも終わるはず……だから」


 言ってしまってから、自分でも驚く。まさかわたしが、千代を励ます日が来るなんて。


「……紅子……」


「お姉様……」


 けれど晴臣と千代は、それ以上に驚いていた。


「……はい、頑張ります……」


 そうして、ちょっぴり涙ぐみながら、千代はつぶやいたのだった。




 千代が訪ねてきた次の日、わたしは晴臣と一緒に出かけていた。東藤の広い敷地の片隅にある、母の墓へと向かう。


「ここは沼に沈んでいなくて、よかったですね」


 振り返ると、遠くのほうにあの柳の木が見えている。さらにその向こうには、離れの姿もあった。


 母の墓は、先祖代々の墓から少し離れたところにぽつんと作られていた。そのおかげで、母の墓だけはあの泉に呑み込まれることなく残っていたのだ。


「ええ。でも父は、どうしてお母様の墓をここに作らせたのかしら」


 わたしは、母の葬儀には出られなかった。そもそも、葬儀がいつどこで執り行われたのかすら知らない。母がここに葬られたということも、ずっと後になって使用人がこっそり教えてくれるまでは、知らないままだった。


 父に尋ねれば、答えは得られるのかもしれない。でも、まだ父と話したい気分ではなかった。


「……これはあくまでも、推測ですが」


 まだ新しい、手入れの行き届いた墓石を見つめていたら、晴臣の声がした。


一智かずとも殿は、様々な事情があったとはいえ、結果として貴女やひな殿を遠ざけてしまった」


 彼の静かな声を聞きながら、こくりとうなずく。


「そしてそのせいで、ひな殿を寂しく死なせてしまったという負い目を感じることになってしまった。だから、せめてお墓を別にした……のかもしれません」


「えっと、どういうこと?」


 わたしの問いかけに、彼は切なげに目を細めて笑いかけてきた。


「ひな殿のための、特別な場所を用意した、ということです。もしかすると一智殿は、東藤家の当主という肩書をしばし忘れ、ただのひとりの男性として、ここでひな殿と向き合っていたのかもしれません」


 小首をかしげて、晴臣の言葉をじっくりと噛みしめる。かつて父は、赤い目の子どもを快く思わない親族たちの圧力に屈したのだと、そうサチさんは語っていた。


 父は、不器用だった。商才はあったのに、人間としてはとびきり不器用だった。そして、母を愛していた。たぶん、わたしのことも。


「ふふ、そうね。そうだったらいいな」


 いろんな思いを抱いたまま、笑みを返す。晴臣の言葉は、彼が言うとおり推測でしかないけれど、真実を言い当てているような気がした。


 小さく微笑んで、持ってきた花束を墓前に供える。純白のユリの花だけを集めた花束は、朝の日ざしを受けてきらきらと輝いていた。


「……お母様」


 墓石に向き直って、そっと呼びかける。


 真夏のさわやかな風が、蝉の声を運んでくる。じいじいという音を聞きながら、ゆっくりと、しかしはっきりと言葉を紡いだ。


「わたし、この人と幸せになります」


 隣の晴臣の腕にそっと触れると、彼は墓石に向かって軽く頭を下げた。


「どうか、見守っていてください」


 その言葉と同時に、ざあっと風が巻き起こる。わたしの前髪がふわりと舞い上がり、左目があらわになった。


 晴臣も眼鏡を外し、わたしをそっと抱き寄せた。


「彼女は、僕がこの身に代えても守ります。必ず、幸せにします」


 さんさんと降り注ぐ日の光の中、わたしたちは並んでたたずみ、赤と金の目で墓石を見つめていた。

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