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20.すれ違い

晴臣はるおみ、これを見てほしいの」


 その日の夜、いつものように縁側で待っていると、じきに晴臣が姿を現した。その彼の目の前に立ちはだかり、『古今怪異集』を突きつける。


「ああ、その本……どうしたのですか」


 彼の顔から笑みが消え、どことなく寂しそうな表情が浮かぶ。前のときもそうだった。彼はこの本を見ると、様子がおかしくなる。


 もうこれ以上、彼を追い詰めまいと思っていた。けれど、事情は変わってしまった。


 水虎とわたしの間に、何があったのか。水虎は、どうなってしまったのか。きっとそれは、とても重要なことに違いない。だからこそわたしの体は、こんなにも震えているのだ。


「昼間、星辰庵に行ってきたの」


 せわしなくページをめくり、目的の絵を彼に見せる。


「わたしはこの『水虎』を知っている。わたしが陽炎かげろうだったころ、わたしはこれと戦った」


 晴臣の顔が、みるみるこわばっていく。少しためらいつつ、それでも言葉を続けた。


「けれどいくら思い出そうとしても、それ以上思い出せないの。ねえ、わたしは水虎に勝てたの? この危険なあやかしを打ち倒し、人々を守れたの?」


 きちんと思い出せはしなくても、水虎の姿を見るたびわき起こる身の震えに、答えをうっすらと悟ってはいた。それでも、確かめずにはいられなかった。


 わたしの言葉に、晴臣がはっと目を見開く。彼は小さくうなずくと、泣きそうな笑みを浮かべた。


「ええ。ですからもう、忘れたままでいいんですよ、紅子べにこ様。どうか、そのままで……」


 前世のことを尋ねるたび、彼はいつも似たような言葉を返してきた。わたしはきちんと役目を果たした、何も心配することはないのだと。


 ……けれど彼のこの態度で、確信した。彼が、何を隠そうとしていたのか。


「……違う、のね。わたしは、水虎に勝てなかったのね?」


 わたしは水虎に敗れ、あの森で息を引き取った。前世の晴臣である、山吹やまぶきだけに見守られて。


 縁側で立ったままだった晴臣が、急にうつむく。そのまま、崩れ落ちるように座り込んでしまった。その打ちひしがれた姿は、わたしの推測が当たっていたことをまざまざと見せつけていた。


 予想していたとはいえ、さすがに動揺してしまう。黙りこくってしまった彼のそばに正座し、じっと答えを待った。


 どれだけ、そうしていただろう。ふいに晴臣が、力ない声でつぶやいた。


「…………はい。ですが水虎は、無事に封じられました。貴女の師の手によって。もう、あれがよみがえることはないでしょう」


 栗色の髪が彼の顔を隠していて、その表情はうかがいしれない。けれどその口元は、まるで何かをこらえているように、きつく食いしばられていた。


「本当に、それだけなの?」


「はい。僕が知っているのはこれだけです」


「……嘘、ね」


 またしても、確信してしまった。彼が本当に全て打ち明けたのなら、こんなに悲しそうにしているはずがない。だからまだ、何か隠された事実があるのだろう。


「晴臣、いいえ『山吹』。これは命令よ。あなたは主の命にそむくような、そんな式神ではなかったわ。全て、話して」


 あと少しで、真実に手が届く。そんな焦りから、つい口調がきつくなってしまう。


「命令されようが、答えは変わりません。僕は、他に何も知りません」


 晴臣もまた、いつになく強い口調できっぱりと言い切った。その声音に、びくりとしてしまう。


「あ……すみません。驚かせてしまいましたね」


 ばっと顔を上げて、晴臣が謝ってくる。彼を追い詰めたのはわたしなのだから、わたしも謝らなくては。けれどわたしが口を開くよりも先に、彼はまた顔を引き締めた。


「……今の僕は、人間です。式神に対するあなたの命令は、もう効かないんです」


 真剣な表情で、けれどひどく寂しげに、彼はつぶやく。


「もちろん、貴女のことは何よりも大切に思っていますし、貴女の望みはかなえたいと思っています。けれど、こればかりはどうしようもないんです」


 そうしてまた、彼は口をつぐんでしまった。わたしもそれ以上、何も言えなかった。初夏の夜風に吹かれながら、ただじっと彼のそばに寄り添っていた。




 次の日、いつものように身支度を整えて食堂に向かう。そこには、いつものように晴臣がいた。


「ああ、おはよう」


 そしていつもと同じように、彼は男爵家の当主らしくふるまっている。だからわたしも、いつものように返事をした。


「おはようございます、晴臣様」


 ……けれど、彼と目を合わせることができなかった。


 昨夜、縁側から先に立ち去ったのはわたしのほうだった。どう声をかけていいか分からなくなってしまって、逃げたのだ。


 そのまま床についたけれど、彼が自分の部屋に戻る気配はしなかった。耳を澄ませながら横になっているうちに、気づけば眠りに落ちてしまっていた。


 朝そろそろと縁側をのぞいたら、彼の姿はなかった。だからたぶん、ここで夜を明かしたのではないのだろう。きっと、わたしが眠ってしまったあとに、そっと自室に戻ったに違いない。いや、そうであってほしい。


 晴臣に、謝ったほうがいいのかもしれない。朝目覚めてから、そんな思いがどんどん膨れ上がっていく。一晩経って、わたしは自分の行動を後悔し始めていたのだ。


 水虎について、なんとしてでも聞き出さなくてはならない、そのことに変わりはない。けれどもう少し、やりようがあったのではないか。そう思えてしまったのだ。


 静かに朝食をとりながら、懸命に考える。


 どうしよう。晴臣の様子も、少しおかしい。完璧なまでにいつも通りにふるまっているけれど、その目にはかすかに陰が差している。話しかけてくる声も、ほんのわずかに他人行儀だ。


「紅子、今日僕は仕事で外出する。夕食には間に合わないから、食事はひとりでとっておいてくれ」


 困り果てていたら、晴臣がそんなことを言い出した。少なくとも今日は、彼と顔を合わせずに済む。そのことをありがたいと思ってしまったことに、自己嫌悪のようなものを感じた。




 表向きはいつも通りの、けれどどうにもぎこちない朝食を終えると、晴臣はすぐにいなくなってしまった。


 わたしたちは今までも、昼の間は別々に過ごしていることが多かった。彼には仕事があるし、そもそもただの婚約者でしかないわたしたちが一日中べったりというのはおかしいから……という理由で。


 もっとも彼は、「できることならずっと貴女と一緒にいたいのに」と日々嘆いていた。そういう意味でも、今日の彼の態度はおかしかった。いつもなら、もっと残念そうな顔を見せるのに。


 晴臣は、気分を害している。それは明らかだった。


「……はあ、どうしましょう……調子が狂うわ」


 ぽつりとつぶやいて、廊下を歩く。そのまま母屋を出て、離れの裏にある庭に向かった。


 毎晩、晴臣と一緒に見ている庭。近くの川から引いた流れは澄み渡っていて、とても涼しげだ。半月ほど前までは、蛍がちらちらと庭を飛んでいた。


 ふわりと飛んでわたしの髪に止まった蛍を見て、晴臣が「素敵な髪飾りですね」と幸せそうに目を細めていたものだ。


「……こんなことをうじうじと思い出していても、何も変わらないのに」


 早く晴臣と話し合って、和解すべきだ。それは分かっているのに、うっかりすると彼との温かな思い出に浸ってしまう。現実逃避だ。


「……思えば、わたしは昔から、こうだった」


 ふと、昔の記憶がぷかりと浮かんできた。


 前世のわたしは、やはり孤独だった。自分から進んでひとりになろうとしていた。どうしてそんなことをしていたのかは思い出せないけれど、心を許していたのは師匠と、そして山吹……晴臣だけだった。


 師匠は、もういない。もしかしたらわたしたちと同じように生まれ変わっているのかもしれないけれど、探すすべはない。


「昔も今も、晴臣だけがわたしのそばにいてくれた、それなのに……」


 足元に咲いている露草をじっと見つめながら、ひとり立ち尽くしていた。

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