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14.別れの言葉

 東藤とうどうの母屋の廊下でわたしたちを出迎えたのは、父の後妻の吉野だった。


 彼女は今年で三十四歳、けれど見た目はせいぜい二十代半ば。元々芸者だったからか、自分の身を美しく保つことに余念がない。


 さらに、他人を言いくるめるのが得意だとかで、東藤の家にいる男の使用人たちは、ほぼ彼女の手下と化しているらしい。


 この家の主人は父である一智かずともであるというのに、彼らは父よりも吉野の言うことをよく聞いているのと、女中たちが忌々しげにぼやいているのを聞いたことがある。


 晴臣はるおみという客人が来るからか、吉野は裾まわりに松と鶴が描かれた黒の留袖に、やけに豪華な帯を締めていた。髪こそ束髪にしているものの、大ぶりのかんざしといい、ゆったりとした結い方といい、やはり年の割に華やかすぎる。似合ってはいるのだけれど。


 しかし珍しいことに、彼女はわたしたちを見て、明らかに動揺していた。いつもわたしに向けていた、こちらを見下すような悠然とした笑みは、すっかり消え失せている。


 それも、当然といえば当然か。いつも隙間風の吹く離れで暮らし、古い着物をまとっていたわたしが、上等で美しい洋装に身を包み、美貌の当主とともに現れたのだから。


 けれどすぐに、彼女はまたねっとりとした甘い笑顔を浮かべた。さすが、この東藤の家で一番したたかなだけはある。立ち直りが早い。


「主人は奥でお待ちしております。どうぞ、こちらへ……」


 過剰に色っぽい流し目を晴臣によこしてから、吉野は母屋の奥に向かって歩き出す。いっそすがすがしいくらいに、彼女はわたしを無視していた。


「行こうか、紅子べにこ


 しかし晴臣は少しも動揺せず、親しげにわたしを呼んだ。前を行く吉野の肩が、ぴくりと神経質そうに震えている。


 案内された奥の間、広々とした畳の部屋には、むっつりと押し黙った不機嫌そうな父と、そわそわした様子の千代がいた。


 父は恰幅かっぷくのいい体に、つややかなジャケットとズボンをまとっている。絹の細いタイが少し曲がっているけれど、気づいているのだろうか。


 そして千代は、いつも以上に念入りに着飾っていた。彼女の身なりは普段から華やかだけれど、今日はそれ以上だ。ちょっと目がちかちかする。


 大きな花がいくつも描かれた、今流行の大ぶりな花柄の振袖に、金糸銀糸を織り込んだ帯、そして髪は年頃の乙女らしく結って、大きなリボンを飾っている。よくよく見ると、薄化粧もしているようだった。


 ふたりとも、わたしたちの姿を見て驚きを隠せないようだった。父はひゅっと息を吸ったかと思うと、すぐに顔を伏せてしまう。


 千代の顔には驚きと、それに……いらだちのようなものがありありと浮かんでいた。わざとらしくわたしを無視して、じっと晴臣を見つめている。気のせいか、ちょっとうっとりしているようだ。


「まあ晴臣様、ようこそお越しくださいました」


 そして吉野は、しなを作りながら畳に手をつき、深々と頭を下げている。その声も、普段よりずっと甘いものだった。


 ここに父がいるのはいいとして、なぜ千代までいるのだろうか。部屋の入り口で晴臣ともども立ち尽くしていたら、吉野がくるりと振り返ってあでやかに笑った。


「あの、橘花たちばな様。ひとつ、立ち入ったことをおうかがいしてもよろしいでしょうか」


「……ああ。何だろうか」


「そちらの紅子と婚約する、とうかがっておりますけれど……紅子は教養もなく礼儀も知らず……あたしたちはずっと、彼女のことをもてあましておりましたの」


 その言葉に、そっと横目で晴臣を見る。彼は表情ひとつ変えずに、じっと立っていた。無表情すぎて、少し怖い。


 しかし吉野はまったく気に介していないようで、着飾った千代を手招きし、にっこりと晴臣に笑いかけた。


「こちらの千代は、幼いころから礼儀作法と教養をしっかりと叩き込み、愛嬌もございます。そちらの紅子より、遥かに優れておりますわ」


 その言葉に、千代が恥じらうような笑みを浮かべてお辞儀をしている。彼女のこんな態度、初めて見た。


 なるほど、晴臣がわたしと婚約するなどと言い出したから、吉野と千代は無理やりにでもそれを阻止しようとしているのだろう。それもあわよくば、わたしの代わりに千代と晴臣を婚約させようと考えているらしい。


 ただ、わたしの記憶が正しければ、千代には婿を取ってこの東藤の家を継がせる、という話になっていた気がする。どうあがいても、男爵家の当主である晴臣がこの家に婿入りすることはできない。


 となると、ひとまず千代を嫁がせて橘花家とのつながりを作り、しかるのち東藤家に養子を迎える……といった計画を立てたのかもしれない。吉野なら、それくらい考えそうだ。


 吉野と千代があれこれと晴臣に話しかけている間、父は無言だった。机に視線を落としたまま、身動きすらせずに座っていた。


 父の姿をきちんと見るのは、久しぶりだ。最後に見たのは、半年……いや、もっと前だったか。見るたびに少しずつやつれていくように思えるのは、気のせいだろうか。


「そちらの言いたいことは理解した」


 ぼんやりと部屋の中を眺めていたら、突然晴臣がそう言った。


「僕は紅子以外の女性をめとるつもりはない。そして、東藤家と縁続きになるつもりもない。彼女から聞いたのだが、君たちは彼女を虐げていたらしいな?」


 氷のように冷ややかな晴臣の視線に射貫かれて、吉野がひっ、と小さく悲鳴を上げた。彼女の腕に、千代がすがりついている。父も顔を上げ、目を見開いていた。


「もっとも、そのことについて追及するつもりはない。ただこれからは、紅子は君たちとは無縁の存在として生きていく。僕は、そのことを宣言しにきただけだ」


 晴臣は、これまでに見たことのない威厳をまとっていた。子狐だったころの健気な姿とも、橘花の使用人たちに見せている当主としての顔のどちらとも違う凛々しい姿に、ついうっかり見とれてしまった。


 そしてそれは、わたし以外の三人も同じだったらしい。ずっとぺらぺらと話し続けていた吉野ですら、何も言えなくなっている。


 一方、晴臣は今の気迫が嘘のように、わたしに向き直って微笑んだ。この女性が自分にとって特別なのだと見せつけるような、そんな柔らかく甘い笑みだった。


「話も終わったことだし、紅子、君が暮らしていたという離れに向かおう。持ち帰りたいものなどあるだろう。人手が必要なら、矢野に手伝わせるが」


「いえ……大丈夫です」


 驚きに何も言えずにいる三人をその場に残し、部屋を出る。渡り廊下を歩き、離れに向かった。


「……こちらです」


 古びたふすまを開けると、狭い和室に出た。ぱっと見はわたしが出ていったあの日のままにだけれど、すっかり埃が積もって、空気もよどんでいた。


 小さな机がひとつ、古く小さな鏡台がひとつ、壁際には小箪笥こだんすと薄い布団が置かれている。


 床板はあちこちささくれ、障子に張られた紙はくすんでいる。壁にも天井にも、あちこち隙間がある。


「……こんなところに、ずっと貴女を……」


「落ち着いて、晴臣」


 そのあまりの粗末さを目にしたからだろう、晴臣の声に憤りがにじんでいる。早く必要なものをまとめて、ここを離れたほうがよさそうだ。


 小箪笥に向かい、風呂敷を一枚取り出すと、母の形見の着物を三枚、帯を一本載せる。さらに、柘植つげのかんざしを引っ張り出した。陶器の玉飾りと小さな珊瑚玉がついた、母が大切にしていたものだ。


「……持ち出したいものは、これだけよ」


 晴臣の視線が、わたしが抱えた風呂敷包みに注がれている。


「ここで十六年生きてきて、これだけなのですか……」


 晴臣が青ざめたのは怒りからか、それとも悲しみからか。


「これからは、色々な思い出を作りましょう。大切にしたくなるようなものを、たくさん贈りますから」


 ちょっぴり泣きそうな目で、晴臣はそう言った。ありがとう、と答えようとしたそのとき、母屋のほうから吉野がぱたぱたと駆けてきた。


「どうか橘花様、考え直してくださいませ!」


 とたん、晴臣がくるりと態度を変える。


「しつこい。僕の縁組にこれ以上口を挟むというのなら、僕も橘花家当主として、しかるべき対応をさせてもらう」


 これ以上の反論は許さないとばかりに、晴臣が鋭く言い放つ。さすがの吉野も、もうそれ以上口を開くことはなかった。




 母屋に戻り、さっきの部屋を素通りして、玄関に向かう。もうここに、用はない。


 しかし玄関に続く角のところで、わたしたちは立ち止まることになった。父がそこで、まるでわたしたちを待ち構えるかのように立ち尽くしていたのだ。


 晴臣がさりげなくわたしを背後にかばいながら、じっと父を見すえている。


「……その目の色さえ、普通であったならな」


 やがて父が、ぽつりと寂しげにつぶやいた。


「……これまで、すまなかった。謝って、どうとなるものでもないが」


 何か言葉を返したい。そう思ったけれど、何も言えなかった。だからそのまま母屋を、東藤の屋敷を出ていった。




 門の外では、ぴしりと音がしそうなくらい姿勢よく立った矢野さんが、少し心配そうに声をかけてきた。


「お話はお済みでしょうか、晴臣様」


「ああ。彼女をここから連れ出せてよかったと、改めて心からそう思っているところだ。帰るぞ」


 返す晴臣の声は、なんとも不機嫌そのものだった。苦笑している矢野さんに会釈して、晴臣に手を引かれて車に乗り込む。


 そうして、東藤の屋敷があっという間に遠ざかっていった。ここで過ごした十数年の思い出が、次々と浮かんでは消える。


 最後に思い出したのは、わたしの名を呼ぶ母の優しい声だった。

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