13.母の過去
「ああ、思い出すだけで顔がにやけてしまいます……まるで花のような、紅子様の姿……」
「晴臣。さすがにそろそろ、気恥ずかしいのだけれど」
わたしのよそいき着が届いたその日の夜、晴臣は離れの縁側ではしゃぎっぱなしだった。
「それにしても、あんなに素晴らしい服をこんなに早く納めてくれるなんて……鶴羽屋の人たちって、すごいのね。橘花家の御用達だとは聞いていたけれど、予想以上の仕事っぷりだった」
感想を述べたら、晴臣がぱっとこちらを向いた。顔を輝かせているさまは、子犬……というより、かつての子狐を思わせる。
「ええ、そうでしょう。あの店は、多くのお針子を抱えているんです。客からの突然の注文にも対応できる一流の店だと、評判ですよ」
「そうね、間違いなく一流ね」
「鶴羽屋である程度勤めることができたお針子は、独り立ちしても仕事に困らないのだそうです」
「お針子、か……」
その言葉に、ふとほろ苦い思いがよみがえる。わたしの顔がくもったのを月明かりで見て取ったのか、晴臣が心配そうにこちらを見つめてきた。
「どうかしたのですか、紅子様?」
話そうか、どうしようか。少し迷って、もう一度口を開く。前世のわたしにも、そして今のわたしにもよくしてくれる彼になら、話してもいいかもしれないと思ったから。
「その、ね。今のわたしを生んでくれた母ひなは、元々は腕利きのお針子だったらしいの。それも、上流階級向けの、きちんとした店で雇われていたとか」
晴臣がはっと息を呑む気配がしたけれど、そちらを見ずに話し続けた。
「母はその縁で父と出会い、見初められて妻となった。……もしかすると、母は鶴羽屋と縁があったのかもしれないわね」
昼間、サチさんがわたしにかけてきた言葉が、どうにも引っかかっていた。男爵家に嫁ぐことになった娘への励ましとしては、ごく当たり前のものなのかもしれない。
けれど彼女の目つきには、もっと別の何かが含まれているように感じられてならなかったのだ。わたしの身を案じているような、親しみを感じているような、そんな色だ。
「可能性はありますね。確かめてみますか?」
「……そうね。心の準備ができたら、サチさんに尋ねてみるのもいいかもしれない」
母は、自分の過去についてはほとんど話さなかった。だから、母についてもっと知りたいという思いはある。
でも同時に、怖かった。母のことを深く知っていったら、わたしが壊してしまったものの大きさを実感してしまいそうで。
膝の上でぎゅっと手を握りしめ、歯を食いしばる。
「前に、わたしは他人を不幸にするのだと、そう言ったのを覚えている?」
かすかな声で尋ねると、晴臣が自分の手をそっとわたしの手に重ねてきた。
「ええ。貴女の言葉を忘れるなど、ありえません。その言葉そのものも、ありえませんが」
彼の手の温もりに、こわばっていた心がほどけていく。話すつもりのなかった言葉が、自然と口をついて出ていた。
「……わたしが生まれたせいで、母は不幸になってしまったの。この赤い目のせいで、両親は引き裂かれた」
「ああ、貴女はそのことを負い目に感じておられるのですね」
みなまで言わないうちに、晴臣はわたしの胸の内を見事に言い当てた。そのことが、思いのほか嬉しく感じられてしまう。
「……そうなの。だから、母のことを、母の過去を知るのが……怖い」
「気になさらなくていいんです。貴女のその目のおかげで、僕は貴女を見つけられた」
ひときわ優しい声でささやき、彼はわたしの腰を抱き寄せる。
「急がなくても、いいんですよ。僕はいつまでも、貴女のそばにいますから。貴女が過去と向き合えるようになったら、そのときは僕がお手伝いします」
「ありがとう」
それからふたり、並んで月を眺める。わたしがこの屋敷に来てから、こうして縁側で語り、夜空を見るのがすっかり習慣になってしまった。
とても静かで、けれど孤独ではない時間。この感じ、どこか懐かしい。こうしていると、前世のことを思い出せそうで……。
「ところで、紅子様。これでいよいよ、東藤家への殴り込みができますね」
けれど過去の記憶への糸口をつかみかけたかと思った瞬間、晴臣が妙なことを言い出した。胸の奥から浮かびかけていた記憶のかけらが、すうっとどこかへ消えていく。
「殴り込みではなくて、あいさつでしょう?」
「ああ、いけません。本音が出ました」
たしなめてはみたものの、当の本人は澄ました顔で微笑んでいる。……そのさまに、どうにも不穏なものを感じてしまう。
「……当日は、暴れないでね」
「保証はできませんが、努力はします」
一応釘を刺してみたら、即座にそう返された。彼はおかしなところで行動力があるから、やはり何かやらかしそうな気がしてならない。
「大丈夫です。大切な貴女を困らせることだけは、しませんから」
そう言って、彼はまたわたしの手を取った。大きくてしっかりとした手、以前の彼の手とはまるで違うそれは、けれど前と同じように優しくて温かだった。
それから十日後、わたしと晴臣は矢野さんの運転する車に乗って、帝都を東へと進んでいた。わたしはあのよそいき着をまとい、晴臣も上等な正装に身を包んでいた。
彼の上着の左胸と、わたしの帽子には、庭で咲いていた白薔薇が飾られている。
晴臣が身動きするたびに、ほのかな花の香りが鼻をかすめる。もうすっかり彼を見慣れたわたしですら、うっかりどきりとしてしまうような麗しさだった。
矢野さんはきっちりと着飾ったわたしたちを見て、「なんとお似合いのおふたりなのでしょう」と目を潤ませていたし、文子さんは「完璧に素敵です! これなら東藤の人たちも、たまげるほど驚くこと間違いなしですね!」とはしゃいで、矢野さんに注意されていた。
出がけの騒動を思い出しながら、窓の外に目をやる。
風景が流れていくにつれ、大きく豪華な街並みが、少しずつ古く小さなものへと変わっていく。やがて、昔ながらの素朴な家々が立ち並ぶ区画に出た。
この辺りは、見覚えがある。外の世界を知るのだと決めたわたしが、おっかなびっくり歩いていた辺りだ。こんなに近くにいたのに、わたしたちはずっと会えずにいたのか。
ちょっとしんみりしながら外を眺めていたら、晴臣の声がした。
「着いたぞ、紅子」
気がつくと、車が見覚えのある門の前で停まっている。とうとう、東藤の屋敷に着いてしまった。
いよいよ、吉野たちとの対決だ。気を引き締めていかないと。そう考えた拍子に、苦笑がもれた。対決だなんて、これではわたしも晴臣のことを叱れない。
晴臣に手を引かれて、車を降りる。
「ようこそいらっしゃいました、橘花様……」
出迎えに出てきた東藤の女中頭が、わたしの姿を見て目をひんむいた。あまりに大きく見開いていて、目玉がこぼれおちるのではないかと心配になってしまうくらいに。
そのままぽかんと、彼女は立ち尽くしている。
「……案内を頼めるか」
晴臣が声をかけると、女中頭が弾かれたように身震いした。
「し、失礼いたしました! どうぞ、こちらへ」
ようやく驚きから立ち直ったらしい女中頭が、ぺこぺこしながらわたしたちを母屋の中に案内した。
わたしたちの来訪は、前もって手紙で知らせてある。だから今日は、父たちがみな顔をそろえているはずだ。
ちなみにわたしが橘花家に身を寄せることになった次の日、晴臣はわたしたちが婚約することは伏せて「貴家のご息女は当家で預からせていただく」とだけ送ったらしい。
木で鼻をくくったような文面に、さすがに失礼ではないかと尋ねたら、彼は笑顔で「そうですね」と答えてきた。どうやら、自覚はしているらしい。
しかも今回の訪問を告げる手紙については「紅子と婚約する。その件について話がしたい。後日、そちらを訪ねる」という言葉に、訪問の日時を書き添えただけのさらに無愛想なものだった。
普段の彼、男爵家の当主としてふるまっている彼は、冷静で落ち着いた雰囲気をまとってはいるものの、礼を欠くようなことはない。
しかしどうやら、彼はまだ東藤の人間に対して怒っているようだった。今も悠然と構えているけれど、青眼鏡の下の目には明らかな闘志が燃えていた。
さて、これからどうなるか。彼が暴走するようなら、わたしが止めてやるべきか。東藤の人間のためではなく、晴臣のために。
母屋に入り、玄関で靴を脱ぐ。思えばわたしが玄関を使うのは、生まれて初めてだ。いつもは離れからそのまま庭に降りて、勝手口から出入りしていたから。
離れのそれとはまるで違う、つややかな板の廊下を歩いていたら、急に緊張してきた。足取りが、ついぎこちなくなってしまう。
「大丈夫ですよ、僕がついています」
わたしの様子がおかしいことに気づいたのか、晴臣がかすかな声でささやきかけてきた。たったそれだけのことに、不思議なくらい心が落ち着くのを感じる。
ふうと息を吐いたのと、向こうから人影が近づいてきたのが、同時だった。
「まあまあ橘花様、わざわざご足労いただき、申し訳ありません」
ねっとりとした、寒気がするほど甘い声がわたしたちを出迎えた。




